註1 もちろんこれがヨーロッパ側の視点に立つ表現であることは言うまでもない。
そして、コロンブスがアメリカ「大陸」に到達するより以前に大西洋のはるか西へと探検隊を送り出したのがイギリス国王ヘンリ7世である。
コロンブスを派遣したスペインという国は1479年にカスティリア女王イザベルとアラゴン国王フェルナンドが両国を合併した(註2)ことによって成立した、比較的新しい国であるが、似たような事情はイギリスにも存在した。イギリスでは1455年からランカスター家とヨーク家による王位をめぐる争い(註3)が続いており、85年にそれをおさめたのがヘンリ7世なのである。国内をしっかりと固めたその勢いで海外へ……という王様の気宇壮大さがうかがえる(註4)。
註2 2人が結婚したのはその10年前。
註3 いわゆる「薔薇戦争」である。
註4 いうまでもなく「大航海時代」は単純な名声欲のみによって始められたものではないが。
ヘンリ7世はコロンブスが第3回目の航海に出発する前の1496年、イギリス西部の港町ブリストルに住むカボット(註5)という船乗りに以下の許可証を与えてよこした。「東部・西部・北部のあらゆる方面に、国、海に」「未知の島や国や地域、地方を何なりと求め、発見し、見つけること」。カボットはアジア産の香料がアラビアやヨーロッパ(大陸)の商人を経由してイギリスについた時に非常な高値になっていることに注目 (註6)し、大西洋を西に進んでアジアに(アラビア等を経由せず)乗り込み香料を直接買い入れて安値でイギリス人に売れば大儲け出来ると考えていた。
註5 彼はイタリア人である。1490年頃イギリスに住み着いたといわれている。ナポリ生まれのジェノヴァ育ちで、同じジェノヴァ生まれのコロンブス(ほぼ同世代人)と会ったことがあるともされている。
註6 カボットはアラビアのメッカに行ったことがある。
彼に航海の許可を与えたヘンリ7世は、実は以前コロンブスに出資を求められて断ったという前歴があり、自分の先見のなさのせいでスペイン・ポルトガルに出し抜かれたことを後悔していたようである。
かくして1497年5月、カボット一行はアイルランドのダーズィーを出帆した。船は「マシュー」という名の小型船1隻だけ。乗組員はたったの18人であった。
この航海の詳しい記録は残っていない。6月24日にカナダ沖のニューファウンドランド(註7) 島に到達(註8)して鱈の大群を見い出し、原住民には遭遇しなかったがその魚網を拾って帰ってきた。彼は現地の気候温暖なことを報告し、ここは亜熱帯であると考えたが、それは勿論勘違いで、冬がとてつもなく寒いことには思い至らなかった。この誤解はその後多くの航海者や植民者を苦しめることになる。
註7 文字どおり「新しく発見された土地」の意。
註8 実は現在のニューファウンドランド島ではなくカナダ本土に到達していたとする説もある。とすると、アメリカ「大陸」にこの時代の白人として最も早く到達したのはコロンブスの第3回航海(1498年)ではなくカボットであることになる。しかしその一方で、アメリゴ・ヴェスプッチの第1回航海(97〜98年)の方が先に大陸に到達していたという説もある。ただし、ヴェスプッチの第1回航海は全くの創作であるとの説もあり、結局誰が一番早かったのかは今もって謎のままである。
カボットは8月6日にイギリスに凱旋した。国王に年金を貰った彼は翌98年、今度は5隻の艦隊を率いて再び北大西洋に乗り出した。この航海については更に詳細不明である。アイルランドに戻った1隻以外、全部が遭難したと見られている。
1501年、ポルトガル出身のジョアン・フェルナンデスなる男とその一行がイギリス西部の港町ブリストルを出帆し、カナダ本土に到達した。フェルナンデスは昔ラヴラドル(農夫)をしていたことがあり、彼が報告した土地はそのまま「ラブラドル」と名付けられた。彼はイギリス国王に現地で捕まえた鷲と鸚鵡を献上し、褒美を頂いた。
この地域はポルトガルが「トルデシラス条約」(註9) に基づく領有権を主張していた。1500年、ポルトガル王の命を受けたコルト・レアルがニューファウンドランド島に到達し、翌年の第2回航海の時には、カボットが捨てていったと思われるヨーロッパ製品を持ち帰ってきた。ニューファウンドランド近海で大量にとれる鱈は保存食として最高であり、ポルトガルやフランスの漁師がかなり頻繁に立ち寄るようになっていた。ニューファウンドランド島には現在でもポルトガル人が名付けた地名が残っているという。
註9 スペインとポルトガルによる世界(ヨーロッパ人が新しく知った地域)の分割に関する条約。ただし地図の上だけの話である。
鱈はともかくとして……イギリスにとって、新大陸は期待外れのしょぼさだった訳である(失礼!)が、似たような失望感は実は同時期のスペインも味わっていた。1518年頃、カリブ海とその周辺地域の金銀は根こそぎ奪い尽くされてしまい、砂糖栽培はかなりの成果をあげたものの、現地の風土病(例えば梅毒)や慣れない食べ物がスペイン人を苦しめていた。ところが、1519年にキューバ島からメキシコ本土に遠征したエルナンド・コルテスが、その後2年間かけてアステカ王国を滅ぼして莫大な金銀を手に入れると急に風向きに変化が生じ、本国から大勢の移民が押しかけてきた。
さらに1531年にフランシスコ・ピサロによってインカ帝国を征服したスペインは、その一方で現在のアメリカ合衆国南部地域の征服にも取組んだ。早くも1513年にフロリダ半島に遠征隊が上陸し、27年にはパンフィロ・デ・ナルヴァエスがフロリダ半島西岸からミシシッピー河口を探険した。彼の船は途中で難波してしまい、その部下4人だけが6年かけて帰りつくことが出来た。彼等は大平原を埋め尽くす野牛の群れの目撃証言と、「シボラの7都市」という、エメラルドで飾られた黄金境の話を持ち帰ってきたが、前者はともかく後者は現地民から聞いた単なる噂話であった。
ところが、スペイン人はその話をまにうけてしまった。39年と40年の2回に渡って探検隊が送り込まれ、グランド・キャニオンから現在のテキサス州北部、カンザス州東部まで進んだが、結局何も見つけることが出来なかった。別の探検隊はルイジアナ州やアーカンソー州にまで入り込んだものの、やっぱり何も見つけないまま帰ってきた。
スペインがこれらの地域の大半を「ヌェバ・メキシコ(ニューメキシコ)」と名付けて正式に領有宣言したのは16世紀の末、その根拠地としてサンタフェ(註1)の町が建設されたのが1609年のことである。これは(詳しくは後述するが)イギリスが北アメリカ東海岸のヴァージニアに初の恒久植民地ジェームズタウンを建設した、そのわずか2年あとの話であった(註2)。(ただし、ヌェバ・メキシコのスペイン人はインディアンに対して残虐な態度で接したことから1680年に反乱にあって追い出されてしまう。92年に勢力を回復したスペインは自らの行いを深く反省し、インディアンに対して極めて寛大な態度をとることになる(註3))
註1 ここは現在もニューメキシコ州の州都である。現合衆国の50の州都の中で最も古い町である。
註2 ヌェバ・メキシコはスペイン植民地の中ではまったくの辺境である。スペインは主に現メキシコ以南の中南米の植民地から巨万の富を吸い上げていた。それに続いて広大な植民地を獲得したのがポルトガルであり、イギリス・フランスは出遅れていた。
註3 ヌェバ・メキシコは1821年にメキシコがスペインから独立した際にこれに含まれた。そのうちテキサスは1836年にメキシコから独立、さらに45年にアメリカ合衆国に併合された。それ以外の地域の大半は1846〜48年の「米墨戦争」によって合衆国に奪われ、53年に現在のアメリカ・メキシコ国境が確定した。
で、またイギリスに話を戻す。1509年、ヘンリ7世が死んでその子ヘンリ8世が即位した。この時代のイギリスはスペイン・ポルトガルと比べて新大陸への進出という点では甚だ不調であった。まず17年、トマス・モア(註1) の義弟ジョン・ラステルがアメリカ渡航を企てるも準備段階で頓挫した。27年、ジョン・ラットが大西洋を北に進み、北緯64度から針路を南に変えてスペイン領のサント・ドミンゴ島まで航海した。イギリス船がカリブ海に入ったのはこの時が最初である。ただ、この頃のイギリスはスペインと友好関係にあったことからカリブ海の島や大陸部のスペイン領に(スペインの船に乗って)出かけるイギリス人もかなりいた。
註1 『ユートピア』の著者。ヘンリ8世の重臣であった。
1534年、ヘンリ8世は王妃との離婚をローマ教皇(カトリック教会)に認めて貰えなかったことからこれと絶縁、独自のキリスト教会である「イギリス国教会」(註2) を創設した。このことがローマ教皇に忠実なスペインを怒らせ、英西両国の関係は次第に悪化していった。ただしこの時点ではまだ全面戦争といった事態には至っていない。ヘンリ8世死後の1553年(エドワード6世時代)にはスカンジナヴィア半島の北(つまり北極海)を通って中国に到達しようとの試み(註3) がなされ、航海そのものは失敗に終ったものの、なんとかモスクワ公国(後のロシア帝国)にたどり着いて通商の許可を得た。この前後数年間には複数の航海者が西アフリカへと繰り出し、交易や略奪で金や胡椒を手に入れた。
註2 いわゆる「宗教改革」については後で説明するが、「イギリス国教会」創設の事情はルター派やカルヴァン派(後述)とはかなり異なる。イギリスでは「薔薇戦争」によって地方の有力貴族が打撃を受け、相対的に国王の権力が強化されるといった現象が生じていた。「イギリス国教会」とは、ローマ教皇(カトリック)の統制下にある(イギリス国内の)教会や修道院を接収して国王権力を政治的・経済的にさらに高めようとの動きなのである。ヘンリ8世の次のエドワード6世の代にカルヴァン派の教説をいくらか取り入れて宗教理論の面においてもカトリックからの自立をはかろうとするが、これを「宗教改革として中途半端」としてさらに徹底的な改革をはかった急進的カルヴァン派がいわゆる「ピューリタン(清教徒)」である。
註3 これを「北東航路」と呼ぶ。この後300年以上に渡って何度も挑戦されるがことごとく失敗し、1878〜79年にスウェーデンのノルデンシェルド(生まれはフィンランド)によってようやく征服される。
1558年11月、エリザベス1世がイギリス国王として即位した。イギリス商人の西アフリカへの渡航はますます活発になり、さらにアメリカ大陸の存在が大きくクローズアップされるに至ってきた。62〜65年にかけてジョン・ホーキンズの船団がイギリス〜西アフリカ〜カリブ海のスペイン植民地をまわって商品を売り買いして利益をあげた。ただし、彼がこの時やった商売には西アフリカで買った黒人奴隷をスペイン植民地に売り付けるというものも含まれており、これは実はスペイン人以外には禁止されていた(註1) 。ホーキンズはスペイン当局に目を付けられた。68年9月、再びカリブ海に現れたホーキンズの船団は嵐のためスペイン領の島(註2) サン・ホワン・デ・ウルーア島に退避した。
註1 にもかかわらず商売は成功した。賄賂でも使ったのであろうか。
註2 正確に言うと、この当時のカリブ海の島は全部スペイン領である。(名目的にだが)
そこに、スペインの船団12隻がやってきた。ホーキンズはあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだが……スペイン側の指揮官はホーキンズを「海賊」と決めつけてこれを攻撃した。イギリス人たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走した。うち1隻は夜中に黙って姿を消し、ホーキンズの手元に残った小型船1隻は逃走の際に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員オーバーになっていた。食糧の不足に苦しんだ船員のうち100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリス本国に帰還した。生存者はホーキンズ以下15人だけ、メキシコで降りた連中はインディアン(註3) かスペイン人に捕まって殺されるか、運がよくてもガレー船漕ぎの奴隷にされてしまった。
註3 スペイン領地域では普通「インディオ」と呼ぶ。
この事件が起こったのとちょうど同じ頃(1568年)、スペイン領ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)(註4) にて大規模な反乱「オランダ独立戦争」が勃発した。スペイン本国からネーデルランド駐留軍へと莫大な軍資金が運ばれることとなったが、その輸送船がイギリスの港に立ち寄った際、ホーキンズの災難を聞いて「サン・ホワン・デ・ウルーアを忘れるな!」といきり立ったイギリス当局がこれを差し押さえてしまった(註5) 。
註4 ネーデルランドは15世紀末以来オーストリアやブルゴーニュ地方とともにハプスブルク家の領地となっていた。少し話がそれるが、現在のドイツ・オーストリア・北イタリア・オランダ・ベルギー等は10世紀以来「神聖ローマ帝国」という国の支配下に置かれていたが、この国は有力諸侯の割拠が著しく、皇帝はその有力諸侯の中から選挙によって選ばれていた。ハプスブルク家はほとんど毎回神聖ローマ皇帝に選出されていたものの、実際にその支配力が及ぶのはオーストリア・ネーデルランド・ブルゴーニュ等に限られていた。しかし1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家当主カール5世はさらに婚姻によってスペイン王位を継承し、オーストリア・ネーデルランド・スペイン等々とスペインの海外植民地全てを統治する空前の大帝国を建設した。1556年カールは弟フェルディナントに神聖ローマ皇帝位とオーストリアを、その他のすべてを息子フェリペに譲って引退した。フェリペは通常「スペイン王フェリペ2世」と呼ばれるため、その所領ネーデルランドも「スペイン領」という扱いを受けるのである。ただし、フェリペ2世及びスペイン人は熱心なカトリック、ネーデルランドの特に北部(現在のオランダ)はプロテスタントであり、これが「オランダ独立戦争」へとつながるのである。
註5 正確にいうとこの軍資金はスペイン国王がイタリアの銀行に借りた借金で、法的には船が目的地につくまでは銀行の財産ということになっていた。そこでイギリス国王が改めてこの軍資金を銀行から借りるという形で契約を行ったのである。
この事件は後の英西全面戦争の序幕となるものである。ヘンリ8世の「イギリス国教会」創設以来対立を深めてきた両国はいよいよ武力対決の道へと歩んでいくのであるが、しかしこの時点のイギリス政府はまだスペインと正面きって戦う考えを持っておらず、スペインの方はネーデルランドの反乱鎮圧や同時期にフランスで起こった内乱(註6) への介入に手間をとられていた。ただし、イギリス人の船乗りたちはエリザベス1世の黙認や密かな援助のもと、スペイン領への海賊的な襲撃を繰り返した。イギリス・スペイン関係が表向き平和な73年1月、フランシス・ドレイクの一党がパナマ地峡(註7) に上陸、フランス人の海賊やシマロン(註8) とともにスペインの銀輸送隊(註9) を襲撃した。ドレイクは元々貧乏農家の生まれから身を起こして20歳前後で武装商船の船長となり、「サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い」にも参加した男である。
註6 後述する「ユグノー戦争」のこと。
註7 現在「パナマ運河」のある所。
註8 スペイン植民地から逃亡した黒人奴隷のこと。スペイン植民地はあまりにも広大なことから黒人奴隷・インディオ奴隷を支配するスペイン人入植者が全然足りておらず、逃亡奴隷の溜り場があちこちに出来ていた。太平洋とカリブ海を結ぶ要地パナマ地峡にすら逃亡奴隷のアジトがあったのだから、まったくスペイン植民地というのは図体だけデカい張り子の虎だった訳だ。(略奪の海カリブ)
註9 ペルーのポトシ銀山(現在はボリビア領)で掘り出された銀は、一旦船で太平洋に出し、パナマで陸揚げして地峡を騾馬隊で越え、カリブ海岸のノンブレ・デ・ディオスでまた船に積み込んで本国に送っていた。
その4年後の77年11月、改めて5隻160名の艦隊を率いるドレイクがイギリスのプリマス港を出帆した。この時彼はエリザベス1世から「太平洋に入り、スペイン領ペルーを攻撃せよ」との密命を受けていたという。78年11月〜翌年3月、ドレイク艦隊はスペイン領南アメリカの太平洋沿岸地域への襲撃を繰り返し、特に3月1日には赤道付近で銀を満載した輸送船「カカフェーゴ」を捕捉、砲撃でマストをへし折った後、斬り込み攻撃をかけて40万ペソ相当の銀を奪い取った。ドレイク艦隊はその後太平洋を横断して東南アジアに出、モルッカ諸島で香料を買い付けたりして80年9月に母港プリマスに帰還した。マゼランにつぐ史上2番目の世界一周航海であり、出発以来2年と10ヵ月の間に60万ポンド相当の収獲を得た。当時のイギリス国王の年収が20万ポンドであったというからこれは大変な大略奪行であり、しかも表向きはイギリス・スペイン関係が平和な時期にやってのけたのだから凄まじい話である。ドレイク艦隊への最大の(極秘の)出資者であったエリザベス1世は4700%の配当を受け、財政赤字を残らず解消してしまった。当時、スペインは中南米の植民地から搾り取った金銀を財政にあて、イギリスやフランスはそのスペインの富を半公認の海賊を用いて横取りして国家の財源としていたのである(略奪の海カリブ)。
さて、1568年以来、ネーデルランドがスペインの支配に対する反乱を起こしていたことは既に述べたとおりである。ネーデルランドの北部(現オランダ)はプロテスタント、南部(現ベルギー)はカトリックで、スペインもカトリックであることから南部は戦線から脱落してしまうが、北部7州はその後も徹底抗戦を続け、81年には「ネーデルランド連邦共和国」の設立を宣言した。これがオランダ(註1) の始まりである。
註1 連邦の中で最も有力だった「ホラント州」が日本に伝わった際に訛って「オランダ」と発音された。この国は最初共和政だったがその後王政に移行し、現在の正式名称は「ネーデルランデン王国」である。
イギリスのエリザベス1世個人としては、オランダの反乱には興味はなかった(イギリス史2)。彼女はただスペインが必要以上に強大になることを警戒するのみで、基本的にケチな性格からして正規の軍事介入などもっての他であった。しかし前述の南ネーデルランド脱落に加え、独立宣言3年後の84年にはオランダの指導者オラニエ公が暗殺される(註2) とさすがにスペインとの対決を想定しない訳にはいかなくなってきた。もしオランダが敗れれば、そこから狭い海を隔てたイギリスが直接スペインの脅威を受けることになるのである。去る80年、スペイン王フェリペ2世はポルトガル王位を兼任してその領土と植民地を手にいれていた。フェリペ2世の絶頂期である。イギリス海賊の跳梁は既に我慢の限界を越えており、そろそろ頃合とみたスペインはエリザベス暗殺をはかった(83年)上に85年春にはスペイン領内のイギリス船を抑留した。
註2 スペインから懸賞金をかけられていたのである。
イギリスからは非公式の報復艦隊が次々と出撃した。85年8月、正式にイギリス・オランダ同盟が締結され、年末にはオランダに派遣されたイギリス軍がスペイン軍と交戦した。ここにイギリスとスペインは正規の戦争状態に突入した。
フェリペ2世はイギリス本土上陸作戦を認可した。まず「スペイン艦隊によるイギリス本土攻撃案」については71年の「レパント沖の海戦(註1)」で活躍したスペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯からの上申があり、これにオランダ方面のスペイン軍を指揮するパルマ公から提出された「陸軍によるイギリス本土上陸作戦計画」をミックスして、輸送船による陸軍の上陸作戦を本国艦隊によって援護しようというのである。
註1 スペイン艦隊がオスマン・トルコ帝国の艦隊をギリシアのレパント岬沖で破った戦い。
スペインが準備を進めていた87年4月末、ドレイク艦隊23隻が大西洋沿岸のカディス港のスペイン艦隊を奇襲攻撃、スペインのガレー船33隻を撃沈した。ドレイク曰く「カディスでスペイン王のひげを焼いた」のである。これは実に大きな出来事であった。
いうまでもなくガレー船は舷側から突き出した何十本ものオールを漕いで動かす乗り物で、夏の地中海のような穏やかな海では実に機動的な操船が可能である。ガレー船を用いての戦闘は古代ギリシアの時代から基本的に変わっていない。ガレー船は船首部に「衝角」という特別に頑丈に造られた部位を持ち、これを敵艦の横っ腹に激突させて大穴をあけるか、または敵艦に漕ぎ寄せて斬り込み攻撃をかけるという戦法である。ただしガレー船は巨大なオールを漕ぐ必要上、平底かつ舷側が低いせいで大西洋の荒波には向いていなかった。
その点、ドレイク艦隊の船はどれも単なる帆船で、船底が深く舷側が高いおかげで大洋での操船に向いており(註2)、カディスの海戦でもモタモタしているガレー船に遠距離から大砲を撃ち込んで大打撃を与えたのである。
註2 もちろんスペインも大洋の彼方にある植民地との交易には帆船を用いている。しかし本国の海軍の主力は地中海での戦闘を想定したガレー船によって編成されていた。
結果、スペインは艦隊の主力をガレー船から帆船に切り替えた。ポルトガル(今はスペインと同君連合)が持っていた大型帆船や南イタリアのナポリ(ここもスペイン領)の艦隊も動員された。
1588年2月、スペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯が亡くなった。後任の司令長官に任じられたシドニア公は海についてはまったくの素人であり、本人も断ろうとしたがフェリペ2世は何故か頑として聞き入れようとしなかった。
7月12日、いよいよスペイン「無敵艦隊(アルマダ)」が出撃した(註3)。1000トン以上の艦7隻、800トン以上の艦17隻、500トン以上の艦32隻、それ以下の艦19隻を主力とし、その他の輸送船等まであわせると総勢130隻に大砲2430門、乗組員2万4000と陸兵6000人という大部隊である。さらに南ネーデルランドにはパルマ公率いる歩兵3万・騎兵4000が輸送船を揃えてイギリス上陸の機会をまっていた。艦隊に対するフェリペ2世の命令はあくまで陸軍のイギリス上陸援護を第一とするものであり、イギリス艦隊との戦闘は二の次とされていた。
註3 実はその2ヵ月前にも一度出撃したが嵐のため引き返していた。
対するイギリス海軍の全戦力は、1000トン以上の艦2隻、800トン以上の艦3隻、500トン以上の艦24隻、その他の小型艦153隻であった。当時のイギリス海軍はよく「海賊の寄せ集め」と評されるが、彼等は実際には普通の船乗り商人で、副業(本業より儲かる)として、イギリス王の黙認と密かな出資のもとにスペイン植民地やそこから本国に向う「財宝船」を襲っていたことから「海賊」と言われたのである。もちろん正真正銘の海賊さんもいたでしょうが……。
7月19日、スペイン艦隊がイギリス本土を視界におさめた。南ネーデルランドにあるパルマ公の輸送船団はイギリスのシーモア艦隊とオランダのローゼンタール艦隊の封鎖にあって身動きがとれなかった。21日午前9時、プリマス港からイギリスの主力艦隊が出撃した。司令長官はハワード元帥、ドレイク、プロフィッシャー等の猛将を左右に従えている。
世界戦史に名高い英西艦隊の戦い、世にいう「アルマダ海戦」はイギリス艦隊出撃当日の21日からさっそく始まった。南ネーデルランドを目指して英仏海峡を東に進むスペイン艦隊と、それを阻むイギリス艦隊の戦闘が約1週間に渡って続くことになる。
その戦いの模様は……一列縦隊に並んだ双方の艦隊がすれ違いざまに大砲を一斉射撃する……という発想はこの時代の海軍にはまだ存在しない。イギリス艦隊は各海賊大将のグループごとの判断でスペイン艦に接近して大型大砲を撃ち込み、ダメージを与えるとさっと逃げるの繰り返しである。「低い弾道でスペイン艦の土手っ腹を撃て! 敵艦を沈めるのだ」。対してスペイン艦は……昨年来大急ぎでガレー船から帆船に転換して荒波のもとでの戦闘に対処したものの、その戦術はガレー船のものをそのまま引きずっていた。「高い弾道で撃て! 帆を破り、マストを倒して動けなくせよ、兵士を殺せ」と、敵艦への斬り込みを第一として大砲も人員殺傷用の小型のものばかり、そのわりに船が大きく小回りがきかないため、水利に詳しいイギリス小型艦への有効な反撃が出来ないのである。開戦初日の戦闘ではスペイン副司令官レカルデの乗艦「サンタ・アナ」が戦闘力を失い、さらによりにもよって、財務長官と金庫を載せた「サンサルバドル」が爆発炎上(註1)して艦隊の志気を著しく落してしまった。
註1 これはイギリス艦の攻撃によるものではなく事故である。砲員の1人が何かの罪(冤罪だったらしい)で鞭打ちにされたことに激しく怒り、火薬庫に火を放って海に逃亡したのだという。ただ、罪を犯した水兵を鞭で打つことは昔の海軍では珍しいことではなく、19世紀初頭のイギリス海軍でもごくごく日常的に行われていた。
この21日以降、速力や砲撃力が敵よりも劣ることをはっきりと自覚したスペイン艦隊は、三日月型の密集隊形を組んでイギリス艦の襲撃に多数の艦で対抗する方針を採用した。その後数日間、イギリス艦隊は何かの理由で艦隊から脱落するスペイン艦しか狙うことが出来ず、それをやろうにもすぐ救援が来るのでなかなか思うにまかせなくなった。
27日夜、スペイン艦隊が大陸のカレー沖に停泊した。ここはパルマ公率いる陸軍部隊との合流ポイントであるが、パルマ軍はオランダ艦隊の妨害を受けて動けないでいた。日付けが変わって28日未明、イギリス艦隊が焼討ち船8隻を放ち、スペイン艦3隻を沈め3隻を大破した。昔の船は木造であるうえに乾いた帆布やロープが満載されていることから極めて燃えやすいというのは船乗りの常識で、スペイン艦隊の方も一応は火攻めを警戒して艦隊の外側にボートを並べ焼打ち船が侵入出来ないよう手をうってはいた。しかし、この時イギリス艦隊が放った焼打ち船は90〜150?という常識外れの大きさ(註2)で、ボートの列など簡単に押し破ってしまったのである。仕掛け火薬の轟音と味方艦の大火災に驚いたスペインの各艦は錨を切って外海に逃走し、密集陣形は完全に崩れてしまった。
註2 普通ははしけやボートを用いる。
29日、イギリス艦隊の総攻撃が行われた。中央にハワード隊、右翼にシーモア及びウィンター隊、左翼にドレイク・プロフィッシャー・ホーキンスの各隊が勢揃いして9時間もの間スペイン艦への襲撃を繰り返す。スペイン側の沈没は16隻、イギリス側の沈没は0である。
スペイン艦隊は完全に戦意を喪失し、30日の会議にてイギリス上陸を諦めて本国に戻ることが決された。すでに英仏海峡を抜けて北海に入っているが、英仏海峡をバックするのではなく、はるかスコットランドの北を迂回して故国に帰還するというのである。スペイン艦隊はイギリス付近の地理には全く詳しくなく、古代ローマの時代に書かれた『ガリア戦記』をひっぱりだして参考にする有り様であったという。
スペイン艦隊はイギリス艦隊との戦闘で既に5000人からの戦死者を出していた。北海は波風が激しく艦隊はバラバラになり、主力はスコットランド北辺のオークニー諸島でなんとか集合したが、行方不明になった艦はイギリスの辺境海岸で現地民の攻撃を受け壊滅した。艦隊はさらにアイルランド西岸を通るが暴風はますます厳しく、おまけに壊血病やチフスが蔓延した。特に戦闘で水樽が破損して真水がほとんど失われたのが致命傷であった。強風の中、真水の補給をはかって無理に陸地に接近してアイルランド西部の岸壁に衝突する艦が続出し、溺死者だけで8000人を数えたと言われている。
本国に帰還した艦は出発時の約半数、戦死・病死・行方不明は全軍の3分の2に達していた。
この「アルマダ海戦」以降、スペインは次第に落ち目になっていった。1589年、フランスでプロテスタント派のアンリ4世が即位(註3)して内乱(62年から続いていた「ユグノー戦争」)をほぼ収拾し、96年にはイギリス・フランス・オランダの3国が対スペインの同盟を結成した。スペインは相も変わらず中南米の植民地から巨万の富を吸い上げつづけているとはいえ、その多くは本国に運ぶ途中でイギリス海賊に強奪され、オランダ独立戦争の鎮圧や無敵艦隊の整備、フランス内乱への介入、ポルトガル王位継承工作等々々に用いた予算は収入をはるかに上回っていた。増税によって商工業を沈滞させ、国内の非カトリック教徒を徹底的に弾圧したことは労働力の不足を招いた。フェリペ2世は98年に亡くなり、跡を継いだフェリペ3世、次の4世は全くの凡人、経済も活力を失っていた。1609年、財政難に耐えられなくなったスペインはオランダと休戦し、国王がかわったイギリスとも講和した。以後、世界貿易・植民地獲得の主役はプロテスタント的勤勉さを持つオランダ・イギリス、そして(この国ではプロテスタントは少数だが)フランスにとってかわられていくのである。
註3 後にカトリックに改宗する。(後述)