北米イギリス植民地帝国史 前編 その2

   

   フランスの植民事業  (目次に戻る)

 「大航海時代のフランス」といっても、なんかあまり大したことをしていないような気がするが、実はなかなかどうして結構頑張っている。最初にアメリカ大陸近海に乗り出したのは名も無い漁民たちであるが、1524年にはフランス国王に雇われたイタリア人ジョヴァンニ・デ・ヴェラザーノが現在のニューヨークからニューファウンドランド島まで北アメリカ海岸を北上した。

 デ・ヴェラザーノの航海を後援した国王フランソワ1世はさらに1534年にジャック・カルティエ指揮下の3隻の船を北アメリカへと送りだした。カルティエは翌35年の9月にカナダ東海岸のセント・ローレンス川河口に到達し、そこからさらに上流にさかのぼって現地のヒューロン族と遭遇した。ヒューロン族の人々は、黄金や香料が山をなすという「サゲネー王国」の話をしてフランス人をもてなしたが、このホラ話をまにうけた国王フランソワ1世は、さらに41年に10隻の船を送り込んでセント・ローレンス河上流一帯を探索させることにした。しかしもちろんこの地域には金も胡椒も存在せず、ただ大量の(金に見えた)黄鉄鉱と(ダイヤモンドそっくりの)石英水晶が見つかっただけであった。フランスにおいて「カナダのダイヤモンドのような」とは、まがい物をさす有名な言い回しとなった。

 フランス国家のカナダへの関心はこれ以後約40年の間失われることになった。

 これら北方での試みとは別に、南方の温暖な地方では、海軍提督コリニーによるブラジル植民(註1)がすすめられていた。1555年、コリニーの意を受けたヴィルゲニヨンによってブラジルのリオデジャネイロ湾内の小島に植民地コリニー砦が建設された。当時のフランスは「宗教改革」の荒波の真只中におり、プロテスタント(カルヴァン派(註2))を信奉するコリニーの脳裏には、フランス本国でカトリックに圧迫されるプロテスタント勢力の新天地の建設、及び南米でのスペイン・ポルトガル(両国とも熱心なカトリック国)勢力に対抗する橋頭堡としての植民地の役割が想定されていた。しかしこの植民地はそのわずか5年後には撤収を余儀なくされた。ブラジルの完全征服を目指すポルトガル(註3)艦隊の攻撃をうけたためである。

 註1 「南極のフランス」と称される。

 註2 プロテスタントにはルター派とカルヴァン派の2大潮流が存在する。ルター派は「人は信仰によってのみ義とされる」として、カトリックが仰々しい宗教儀式や免罪符などによって魂が救われるなどと唱えているのを批判した。このことは、信仰を持つ人は神の前に平等であるという発想につながるが、それはあくまで宗教・精神面のことにとどまり、人はすべて社会的・経済的に平等であらねばならないという考えには至っていない。ルターにとっては既存の社会的秩序(例えば領主が農民を支配するといったこと)は神の意志によって決められたものなのであり、それを破壊しようとするのは神への反逆に他ならないと考えるのである(従ってドイツのルター派の農民が領主に対する反乱を起こした時にこれに冷淡な態度をみせた)。対してカルヴァン派はルターのいうような宗教的な理想(人は信仰によってのみ義とされる)を追及するためには既存の国家に実力で抵抗することも辞さないという態度を持つ。その結果カルヴァン派においては政治と宗教は一体のものとなり、イギリスの「ピューリタン革命」などはその思想のもとに行われることになる。また、カルヴァン派においては人の魂の救いは永遠の昔から神によって定められているのであり、そのことを確信する最良の方法は、神の思し召しによって各自に与えられた様々な職業労働に勤しむことであるとする。それ以前のヨーロッパでは「営利行為=卑しい」と考えられていたため、カルヴァンの教説は商人や手工業者や農民による経済活動を宗教面から全面的に肯定するものとして広く受け入れられた。

 註3 1500年にポルトガル人ペドロ・カブラルが現在のブラジルに漂着(狙ってきたとの説もある)し、現地のポルトガル領たることを宣言した。現在のポルトガルとブラジルの公式見解ではカブラルが第1番目の白人到達者としているが、アメリゴ・ヴェスプッチの第2回航海(1499〜1500年)の方が先だとか、ポルトガルのドアルテ・パシェコが98年に来ていたとか諸説紛々である。<

 1562年、今度は北米フロリダ半島にジャン・リーボーによる遠征が行われ、2年後の1564年には根拠地カロリーヌ砦が建設された。今回もコリニー提督のバックアップを受けていたが、この様なフランスのプロテスタント勢力による植民活動は、カトリックに立ち、しかも以前からフロリダの支配権を主張していたスペイン王フェリペ2世の態度を硬化させることになった。スペイン勢は同じくフロリダにサント・アグスティン砦を築き、フランス勢力と対決する動きを見せた。カロリーヌ砦のフランス人たちは先手をうってサント・アグスティン砦の撃破をはかったが、遠征隊を乗せた船団はハリケーンで難破してその生き残りもスペイン軍に殺され、カロリーヌ砦も破壊されてしまった。

 この争いの最中、フランス本国でカトリックとプロテスタントの内乱、世に言う「ユグノー(註4)戦争」が勃発し、海外での植民地獲得どころの状況ではなくなった。この10年間の植民地建設に力を振るった提督コリニーもまたユグノー方の中心人物として活躍し、72年のサン・バルテルミの虐殺(註5)で命を落としてしまうのである。

 註4 フランスのカルヴァン派プロテスタントのこと。

 註5 国王シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスとカトリック派の指導者ギーズ公のさしがねでプロテスタント5万人を虐殺した事件。

 1598年、36年の長きに渡ったユグノー戦争が終結し、89年に成立したブルボン朝フランス王国(註6)による、新しい海外植民地の建設計画が動き出すことになった。もっとも、これまでの様な国家による事業とは関係なく、フランス人の漁師たちは100年程も前から北アメリカ沿岸での鱈漁を続けており、彼等のなかにはインディアンと取り引きして毛皮を手に入れる者もいた。アメリカ産の毛皮はコートのひだ飾りや帽子のフェルトの材料として人気があり、その利益に目をつけた冒険商人がカナダの内陸深くへと入り込む様になっていた。 

 註6 ブルボン家はもともとプロテスタント派。ユグノー戦争の最中の1588年にカトリック派の中心人物ギーズ公が暗殺され、その翌年に国王アンリ3世も殺されたことからフランス王家が断絶、有力者の中で最後に残ったプロテスタント派の中心人物ブルボン家のアンリが国王となった(アンリ4世と号する)のである。ただし、フランス人でプロテスタントを信奉するのは全体の6分の1程度だったため、新国王アンリ4世はプロテスタントからカトリックに改宗し、両派に信仰の自由とほぼ対等の市民権を認める「ナントの勅令」を発布して混乱の収拾に努力した。

 国内の宗教戦争を終結させたブルボン王家の初代アンリ4世は、スペイン等に対抗する植民地の建設をいそぎ、(王室が植民事業をするのは財政的にきつかったので)会社や個人に毛皮取り引きの独占権をあたえて植民に必要な費用や人員を負担させることにした。

 こうして1604年、サミュエル・ド・シャンプランなる人物がカナダ東岸ノヴァ・スコシアのアナポリス入江に植民地ポート・ロワイアルを建設、1608年にはセント・ローレンス河を遡った地点に突き出す「ケベックの岩」の下に交易拠点を建設した。今日に続くケベック市の起源であり、北米大陸におけるフランス植民地「ヌーヴェル・フランス(新フランス)」はこの時ようやく軌道にのったのである。この、17世紀の最初の10年間はその後の北米の歴史を考える上で極めて重要である。ケベックが築かれた前年の1607年にイギリスの恒久植民地第1号となった「ジェイムズタウン」が建設され、以後100年以上に渡る両者の長い抗争の歴史がほとんど同時に幕をあげることとなるのである。

   

   イギリスの植民計画  (目次に戻る)

 イギリスによるアメリカ大陸植民地獲得構想は16世紀後半頃から始められていた。単なる貿易だけでもスペイン勢と衝突しているのに領土をとれとはいい度胸だが、実の所スペインのアメリカ植民地は広大すぎて手がまわっておらず、特に現合衆国の大西洋沿岸地域は全く手付かずで残されていた(註1)

 註1 1494年にスペイン・ポルトガル間に結ばれた「トルデシラス条約」の規定によれば現合衆国は全部スペインの勢力圏に入ることになる。だがイギリスは「まだ実際にスペイン植民地の出来ていない地方にはイギリスも進出出来る権利がある」と主張した。

 1566年、ハンフリー・ギルバート卿なる人物が「北西経由でキャセイア(中国)に至る航路を実証する論文」を提出した。つまりカナダの北をまわって中国に向おうというのである(註2)。さらに彼は78年に北アメリカ植民に関するエリザベス1世の勅許状も獲得した。まだ無敵艦隊との戦いの前であり、勅許状には「(植民地は)いかなるキリスト教の王も現在占有していない」地に限ると記されていた。何にせよ、イギリス人による海外植民地の建設計画はこの時をもって公式にスタートするのである(註3)

 註2 これを「北西航路」と呼ぶ。「北東航路」と同じく300年以上探険が繰り返されて多くの冒険者の命を奪った。征服されたのは1903〜6年、ノルウェーのローアル・アムンセンによった。アムンセンは北西航路征服以外にも、南極点初到達、さらに北極点と南極点の両方に到達した最初の人物、飛行船による北極海初横断という四冠王である。それはともかく、「北西航路」と「北東航路」のどちらが有益か、エリザベス1世の御前で激論がかわされたこともある。

 註3 これより以前にもニューファウンドランド島に漁業拠点が設置されているが、これは季節限定の半恒久植民地である。それからアイルランドへの植民はこの際除外する。

 だが、実際に恒久植民地が実現するのは30年近くも後のこととなる。最初は難儀の連続であった。まず78年にギルバート卿によって送り出された10隻の船隊は船員の質が悪くて目的を達することが出来ず、83年にギルバート卿直々に指揮した航海は彼自身の命を奪うことになる。ギルバート卿の4隻の船隊は出帆直後に1隻が疫病発生で引き返し、ニューファウンドランド島近海でさらに1隻を失ったことから意気消沈、本国への帰路でさらにギルバート卿の乗った船が沈没してしまった。ギルバート卿の探険に関する勅許状は異父弟のウォルター・ローリー卿(註4)が相続した。

 註4 異母弟とする資料もある。エリザベス1世の寵臣として有名。

   

   ロアノーク島  (目次に戻る)

 ローリー卿は兄の事業をよく理解し、その航海にも持ち船を提供していた。彼は兄が死んだ翌84年に現合衆国ノースカロライナ州クロウタン湾に小型帆船2隻からなる探検隊を送り込み、気候風土と現地民に関する報告を受け取った。「世界一豊かで、健康によい土地だ」。ローリー卿は新しく征服することに決めたこの土地をエリザベス1世の雅号「処女王(註1)」に因んで「ヴァージニア」と命名した。

 註1 結婚しなかったので「処女王」。

 85年、ローリー卿の命を受けたラルフ・レイン指揮下の100人の遠征隊がノースカロライナ沖のロアノーク島に上陸した。この遠征隊には画家や測量士もいて詳細な記録を残したが、実は彼等が一番欲しがっていたのは黄金であり、それがなさそうだと分かるとたちまちやる気をなくしてしまった。インディアンとの衝突もあり、食糧不足のため翌年6月に撤収することにした。たまたまカリブ海のスペイン領を略奪した後にロアノーク島に立ち寄ったドレイク提督の艦隊に泣きついて、その船に乗せてもらったのである。

 87年、女性や子供を含む107人が再びロアノーク島に上陸した(註2)。植民者には夫婦がおり、現地で産まれた子供には「ヴァージニア」という名がつけられた。しかし今回は時期が悪かった。すぐにイギリス艦隊とスペイン「無敵艦隊」との大海戦が始まったため、ロアノーク島への物資補給船の出発が大幅に遅れてしまったのである。その後も色々あって、ようやく90年8月に救助隊が到着した時、ロアノーク植民地は文字どおり空っぽになっていた。植民者の子供のうち何人かが現地民に保護され、ランビー・インディアンにその血が流れていると言う者もいる。

 註2 最初はもっと北に行くつもりだった。

 ローリー卿は懲りなかった、今度は南米ベネズエラへの植民を計画する。ここは名目上はスペイン領であったが黄金もなければ住民も少なかったことから長い間放置されていた。しかしその奥地のギアナ高原に「黄金の都マノア」があるとの噂(註3)を聞いたローリー卿は、1595年に自ら小艦隊を率いて現地を探険したのである。この時ローリー卿の一行はオリノコ河の支流を遡ってギアナ高地に入ろうとしたが、滝に阻まれやむなく撤収した。第2次探険はその20年以上も後になった。

 註3 スペインに征服されたインカ帝国の王子が逃れてきて新しい国を造ったのだというのだが……。

 イギリスでは1603年にエリザベス1世が死んで遠い親戚のジェイムズ1世(註4)が立ち、外交政策を転換してスペインとの和平を実現した。新国王はローリー卿の金探し探険計画に対して「スペインを刺激する」としてなかなか賛成せず、ようやく「スペイン人を攻撃しない」という条件付きで第2次探険を認可した(註5)

 註4 エリザベス1世の従兄弟の孫にあたる。それより近い血縁は全員これまでに死ぬか殺されるか親(母親)の身分が低くて王位継承権がなかったりした。

 註5 ローリー卿以外の人物による、煙草栽培のための南米植民計画が認可されたことはある。1604〜6年と1609〜12年のそれで、両者とも酷暑と風土病のため撤収した。それから、イギリス船がアマゾン河に入り込むこともあり、そこには、イギリス側の公式記録には記されていないがイギリス人の植民地も存在していた(略奪の海カリブ)。ただしそれらは1631年までにポルトガルによって放逐された。

 1617〜18年にかけて行われた探険はやはり成果ナシであった。それどころかローリー卿の部下が勝手にスペイン砦を攻撃したことで国王の怒りを買い、ローリー卿自身も死刑になってしまったのであった。

   ヴァージニア  (目次に戻る)

 1606年、北アメリカの「ヴァージニア」への植民を目指すロンドン商人の一団に国王ジェイムズ1世の勅許状が下された。ローリー卿の植民計画は基本的に彼個人の事業に国家が援助するという形をとっていたが、今回の植民計画は広範囲に投資を募って「ヴァージニア会社」という組織を設立し、株主の役員会によって植民地総督・財務委員・補佐役が選出されるものとされていた。植民事業の目的は以下のものである(アメリカの歴史?)。

 都市部で乞食をしている貧乏人を国外に放出したい(註1)。寒い北アメリカにイギリス産の毛織物の市場をひらく。黄金を探したい。海軍の艦艇に用いる船材・タール・索類が欲しい……等々。

 註1 この頃のイギリスでは毛織物生産が発展していたが、それに対応する形で、農村の地主が農民の共有地を柵で囲って羊牧場にする「囲い込み」が盛んに行われていた。その結果没落した農民の浮浪化が深刻な問題となっていたのである。

 最初の植民者として集まったのは子供まで含めて120人。全員男で、1606年12月20日、「スーザン・コンスタント」「ゴッドスピード」「ディスカヴァリー」という3隻の船に分乗した。

 勅許状によりこの会社の管轄と認められた地域、つまり「ヴァージニア植民地」は現在のヴァージニア州よりはるかに広かった、というより、無意味にやたらと広かった。その後ヴァージニア会社は潰れてその植民地は国王直轄の「ヴァージニア王領植民地」に改変されるのだが、その時点(1624年)でも実際に開拓された地域はごくごく限られていた。本国ではヴァージニア会社以外にも個人や集団でアメリカへの植民を望む者が多くおり、それぞれ別個に勅許状をもらって、まだ開拓されていない地域に独自の統治権を持つ植民地を築くことになる。例えば「メリーランド植民地」は1632年に大貴族ボルティモア卿が勅許状を貰って開設するのだが、その領域はヴァージニア王領植民地のうちポトマック河以北地域を分割したものである。

 それは後のこととして……今はヴァージニア植民の物語である。

 1607年4月26日、17週間の長い船旅を経て、ヴァージニアのチェサピーク湾の沖にイギリス船団がその姿を現した。航海中に16人が死亡していた。海岸からさらに河を30マイルほど遡った彼等は、低地で湿気の多い半島(水がひくと島になった)に根拠地「ジェイムズタウン(註2)」を建設し、交易所や教会・倉庫を組み立てた(註3)。住環境としてはあまり良いとは言えないが、防御という点ではなかなか理にかなっていた

 註2 言うまでもなく国王ジェイムズ1世にちなむ命名である。この植民地の創設はスペインから抗議されたがイギリスはとりあわなかった。この頃のスペインには懲罰軍を送るだけの力はなかった。

 註3 精巧に復元されている。

 ジェイムズタウンの建設が始まった5月13日、正装した2人のインディアンが訪れてきた。そのあと数日間に両者の訪問が繰り返されたが、インディアン側の態度はいまひとつ不明瞭であった。26日、インディアンの襲撃があり、なんとか撃退したものの1人の死者と数人の負傷者を出してしまった。その後は襲撃こそなかったものの、夏の厳しい暑さと慣れない水のため、植民者の多くが病に倒れてしまった。リーダーの1人ジョン・スミスがなんとかインディアンに話をつけて食糧をわけてもらったが、年明けに応援の船がやってきた時には植民者の半分が餓えと病のために死亡していた。

 応援船は2人の女性を含む70〜100人の新たな植民者を乗せていた。ただし、第一陣の連中を含めて、彼等植民者は「働けない者たちと、働きたがらない者たちの二組からなっていたようである(アメリカの歴史?)」彼等はあくまで会社の使用人(註4)であって私有財産を認められておらず(つまりこれでは勤労意欲がわかない)、労働時間は1日4時間程度、貴金属鉱山を探しまわったり(もちろんヴァージニアには金鉱などなかった)、昼間からボーリングをして遊んだりしていた。

 註4 会社の出資者の従者や使用人や浮浪者が主なる植民者であったという(大陸国家の夢)。彼等は主人の命令で宝探しをするつもりでいたが、食糧を自前で生産しようという発想が欠落していた。これは当時の軍隊が食糧を略奪によって入手していたのと同じ発想と思われる(前掲書)。

 1609年6月、本国の会社は新たに600人の植民者(うち100人は女性)を乗せた9隻の船団を送り出した。しかしこの船団のうち会社の幹部の乗った船は途中の嵐ではるか南のバミューダ群島(註5)に押流され、指導者を欠く400人のみがジェイムズタウンに到着した。バミューダ群島に流された会社幹部サー・トマス・ゲイツとその仲間はなんとか自力で新しい船を建造し、ようやく翌年5月にジェイムズタウンへとたどり着くことが出来た。その時、ジェイムズタウンの人口は、たったの60人しか残っていなかった。先に到着していた400人はそのほとんどが飢えと病で死んでしまい、人肉食すら囁かれていたのである。

 註5 ここは21世紀の現在もイギリス領としてとどまっている。

 この惨状をみたゲイツは植民地の放棄を決意した。しかし、植民者が全員船に乗り組み河をくだり出したその時、下流から船が遡ってきた。新着の船は会社から「総督」の任命を受けたデラウェラ卿と新しい植民者300人を乗せており、すぐにゲイツたちに下船を命じて植民地の再建を開始した。会社は植民者を軍隊式に組織しなおし、厳しい罰則を設けて夏は5〜8時間、冬は3〜6時間の強制労働を課すことにした。しかしそれでも真面目に働く者はほとんどいなかったらしく、初期の総督たちは本国に「死刑囚でもいいから人を送ってくれ」と書き送る有り様である。こんなに悲惨な思いをして、本国に送って売り物になるのはいくらかの木材と毛皮のみ、会社は破産の危機に瀕していた。

   

   プランテーションの創設  (目次に戻る)

 基本的に、植民地では食べ物も何もかもあくまで会社の所有物であり、植民者がいくら働いても自分の財産が増えることはなかった。これに最初のメスが入ったのが1609年である。この時の改革では会社は自費でアメリカに渡航するものに「株主」の地位を与えるものとし、利益の配当と土地の配分を約束した(実現は18年)。自費で渡航出来ない者には会社が費用を立て替えてやり、そのかわり7年間を会社の「年季契約奉公人」として働くこと、それがすめば自由になる(会社の使用人でも奉公人でもなく、自分の才覚で自由に金儲け出来る。農具と衣料も支給される)ことが出来るとされた。

 12年、ジョン・ロルフが煙草の栽培を開始した。現地産の煙草はあまり美味しくなかったが、カリブ海の島で栽培されたものと交配してつくった新種が本国で大評判となった。これと歩調をあわせる形で18年、以前からの株主に1人100エーカーの土地が与えられ、新たに自費で渡航してくる者には1人50エーカーの土地を支給するとの「ヘッドライト制」が実施にうつされた。ここではさらに、年季契約奉公人を連れてくればその奉公人1人につき50エーカーが与えられることとなる。大農園「プランテーション」の始まりである。

 会社は植民地で色々な作物をつくろうとしたが、現地はあっというまに煙草一色に染まってしまった(註1)。本来金鉱探しや木材を得るために造られた植民地が一大農業センターに変貌したのである(註2)

 註1 製鉄所がつくられたが技術者が全員病死した。生糸生産もはかられたが繭が輸送中に死んでしまった。葡萄の苗も持ち込まれたが実がつかなかった。

 註2 ただし、本国の国王ジェイムズ1世は煙草が嫌いで「煙草排撃論」という文章まで書いている(効果はあまりなかった)。植民地の拠点が「ジェイムズタウン(ジェイムズの町)」なのにおあいにくである。ちなみに筆者は喫煙はしないが嫌いという程ではない。

 奉公人は年季があければ土地を借りて小作人となり、さらに努力して自分の土地を手に入れた。「ヘッドライト制」が始まった18年には植民地の人口は400人から1000人に倍増した。その多くは未来の成功を夢見る奉公人であった。19年にはそれまでの軍隊的な規律が撤廃されて本国と同じ法律が施行され、住民代表による植民地議会も招集された。これは本国の習慣によるもので、選挙権は土地所有者のみに認められていた。初代の議員の中には後の合衆国第3代大統領トマス・ジェファーソンの先祖もいた。この年会社は90人の未婚女性を送り込み、彼女等の渡航費と植民地産の煙草125ポンドを納めた植民者と結婚させるとした。植民地は急速に活気がついてきた。

 ただし、植民地は本国と比べて非常に暑く、様々な風土病に対する免疫もなかなか身につかなかった。マラリア・赤痢・インフルエンザ・腸チフスといった病気の発症に耐え、さらにその再発を乗り切ればまあそれ以後は免疫がつくので大丈夫なのだが、奉公人の40%は自由の身になる前に病死した。もちろん不健康ということにかんしてはプランター(プランテーション主)も同じである。

 それから、煙草の栽培というのは非常に急速に土壌の養分を吸い取ってしまうものである。煙草を3回収穫すると数年間は休耕地にして地力を回復させる必要があり、その結果植民地の煙草プランテーションは外へ外へと広がっていく。プランテーションは他のそれから10マイル以上離して境界争いが起こらないよう設定されており、その範囲はますます広範囲に渡ることになる。

 これがインディアンを怒らせた。1622年3月22日、植民者に自分たちの土地を侵食されたインディアンが一斉に蜂起し、植民者の4分の1にあたる347人を殺害したのである。ジェイムズタウンはなんとか破壊を免れたものの、24年には破産の危機に陥ったヴァージニア会社は勅許状を取りあげられて、植民地は国王直轄の「王領植民地」に改変されてしまったのであった。

 ただし、勅許状とりあげは会社内部の紛争で一方の当事者が国王の介入を要請したからであり、インディアン襲撃はいうほど致命的なダメージを与えた訳ではないとの説もある(北米植民地)。確かに植民地そのものは決して滅亡することも放棄されることもなく、むしろ積極的にインディアンを攻撃してその耕地を奪い取る方針に転換することになる。これまでは未開の森林を苦心惨憺して開拓していたのが、ぐんと楽になったという訳である。

 植民会社の存続した18年間、会社は5649人の植民者を送り込み、24年現在で現地に生き残っていたのは1059人のみであった。しかしその翌25年以降、植民地の人口は5年ごとに倍に増え、40年には約8000人、47年には1万5000人を数えるに至る。植民地議会もそのまま存続し、これはその後相次いで建設されるイギリス諸植民地のよき前例となるのである。

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