ヴァージニア植民地よりずっと北の方、今現在の「ニューイングランド」地方には、マサチューセッツ・ロードアイランド・ニューハンプシャー・コネティカット・メイン・ヴァーモントの6つの州が存在する。このうちメインとヴァーモントの州昇格は合衆国独立後のことであり、残り4州のうち最も古い歴史を持つのがマサチューセッツである。
だが、イギリス人がニューイングランドに建設した最も古い植民地はマサチューセッツではなく、1620年に誕生した「プリマス植民地」である。
16〜17世紀のヨーロッパは宗教改革の時代である(何度も言ってるけど)。1509年に即位したイギリス王ヘンリ8世は当初宗教改革に反対であったが、王妃との離婚をローマ教皇に認めてもらえなかったことからこれと絶縁、新たに独自のキリスト教会である「イギリス国教会」を設立した。ただし、ドイツのルター派やスイスのカルヴァン派がローマ・カトリックの教義に反発して独自の宗教思想を磨いていたのと異なり、国王の政治的(個人的)思惑のもとに創設されたイギリス国教会の教義は、伝統的なカトリックのそれと大して異なる(註1)ものではなかった。イギリスの宗教界は、国王御用達のイギリス国教会、それと対立しローマ教皇に忠誠を誓う伝統的カトリック、さらに、国教会を「生温い」と考えるカルヴァン派の「ピューリタン(清教徒)」の3派が激しく抗争することとなる。
註1 エドワード6世の代にカルヴァン派の教義を取り入れるが、まだ中途半端。
そのピューリタンにも2つの流れがあった。まず1つ。「腐敗堕落した(とピューリタンが考える)」イギリス国教会から完全に分離し自分たちだけの宗派をつくろうとする「分離派」。もう1つは、イギリス国教会をあくまでその内部から改革しようとする「非分離派」である。プリマス植民地を建設するのは前者の人々である。
17世紀初頭、イングランド中部のスクルービ村に住む分離派の一集団は国王ジェイムズ1世の執拗な迫害を受けていた。彼等はひとまず宗教的に寛容なオランダへと集団移住を果たしたが、その多くはやっぱりイギリス国民としての生活を送りたいと考えており、イギリス植民地の辺境で誰にも邪魔されない新天地を建設しようという方向に落ち着いた。しかし彼等は貧乏(主観的には「清貧」)だったので、とてもイギリス政府に働きかけて勅許状を貰って新しい植民地を建設するという訳にはいかず、とりあえずヴァージニア会社の下請けとしてヴァージニア植民地の辺境(註2)を開拓する、という契約を取り付けた。この時点の北米にはヴァージニア会社以外に勅許状を貰って植民地を建設するイギリス組織は1つしかなく(後述する「ニューイングランド評議会」のこと)、ヴァージニア会社の管轄地域は現在のニューヨーク市付近にまで広がっていた。分離派の人々は植民地の北の端に住み着くことを計画した。費用はロンドン商人から高利(非常な高率であった)で借り受けた。
註2 というか、当時(1620年)のヴァージニア植民地はジェイムズタウン近辺以外は(白人から見れば)全部未開拓の辺境である。
準備のためオランダからイギリスに渡った彼等は、そこでヴァージニア会社が別個に雇ってくれた一団と合流した。その中には分離派に共感を持つ者もいれば、単に金儲けだけが目当てという者もいた。彼等をいれて総勢102人(註3)、アメリカ史において「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる集団がここに勢揃いしたのである。ヴァージニア会社の雇員を除けば基本的に家族単位での植民であり、この点単身者がほとんどだったヴァージニアと異なっている。
註3 アメリカ移住の第一陣がこの人数という意味で、まだ数百人の同志が存在し、順次合流することになる。
出発は難儀の連続であった。2度出帆して2度とも船の水漏れで引き返し、ようやく本当に出発したのが1620年の9月6日、当初の予定よりも1ヵ月以上遅れていた。小型帆船「メイフラワー」はその後66日間をかけて、11月9日にようやくアメリカ大陸を望見した。彼等はその後さらに2ヵ月近くかけて上陸地点を選んでまわり、12月21日にやっと待望の上陸を果たすことが出来た。航海中の死者が1人しか出なかったのは当時としては奇跡的である。彼等はここに永住することにした。
ところで、彼等の上陸地点はヴァージニア会社の管轄地よりもはるかに北にずれていた。出発が遅れて冬が近付いている上に天候の悪化で南に行く余裕がなくなった、と表向きには説明されたが、実は最初から会社管轄地に行く気がなかった、というのが真相のようである。色々あって管轄地の外につき、「結果として」会社との契約は無意味になったので、あとは自分たちで好きにやっていく、ということにしたのである。
ただし、本国を旅立つ時にロンドンで借りた高利の借金を誤魔化すことは出来ないし、ヴァージニア会社が別個に雇っていた人員が「話が違う」と文句を言い出した。上陸直前、船上で「メイフラワー誓約」が結ばれた。「厳粛にお互いどうし相互に契約を交わし、みずからを政治的な市民団体に結合することにした」「公正な法、命令、規則、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と順従を約束する」。その後この植民地の成人男子には宗派の違いに関係なく政治参加の権利が認められることとなり、つまり「メイフラワー誓約」とは、「聖徒」つまり分離派教徒と会社雇員「ストレンジャー」とが同等の権利を持って植民地を建設していくことを認めたものなのである。(『ピルグリム・ファーザーズという神話』『アメリカ史1』を参考とした)
ところで、彼等の築いた植民地は「プリマス植民地」と呼ばれている。帆船「メイフラワー」の出発地点がプリマス港なのでそれに因んだのかというとそうではなく、実は「メイフラワー」到着前からここにはプリマスという地名がついていた。これは全く物凄い偶然で(狙ってきた可能性なきにしもあらずだが)、数年前にこの付近を探査したジョン・スミスによって命名されていたのである。スミスは詳しい探険記録を出版しており、その本は「メイフラワー」にも積み込まれていたのであった。
到着した時には既に厳しい冬が始まっていた。とりあえず粗末な小屋を作ったものの、植民者の多くは「野獣と野蛮人」の襲撃を恐れるあまり船に留まり、そのうち野菜不足から壊血病が蔓延しはじめた。「小鳥が森で楽しげにさえずる」春が訪れた時には、植民者の半数が死亡していた。ただし、この地域にいた先住民ポカノケット族の方も17年頃にイギリス人が持ち込んだペストの流行によって壊滅しており、そのことに気付いた植民者は「神がこの素晴しいペストをさしつかわし、自ら選び給いし民の行手を清め給うた」と喜んだ。植民者はインディアンに対して酷い偏見をもっていたのだが……疫病で弱っていたポカノケット族は敵対する他の部族に対抗するためにプリマス植民地との同盟を求め、おかげで幼弱な植民地は食糧を分けてもらった上に毛皮取引きも出来るようになった。ヴァージニアの初期の植民者と違い、彼等は最初から金鉱など求めず、しっかり地道に働く覚悟が出来ていた。特に助かったのはトウモロコシの導入で、本国産の穀物よりも面積あたりの収穫量がはるかに高く、茎は飼料になった。七面鳥も好んで食べられた。
植民地がヴァージニア会社の管轄地外に築かれたことは本国の債権者を慌てさせた。実は北米への植民事業に関してはヴァージニア会社以外にも「ニューイングランド評議会(註4)」という組織が勅許状を貰っており、ヴァージニア会社管轄地の北方を縄張りとして植民をはかっていた(註5)。プリマス植民地が全く独自の動きを持つことを嫌った(ピルグリム・ファーザーズという神話)債権者たちはニューイングランド評議会と交渉し、プリマスでの植民事業をそちらの下請けという形にしてしまった。まあ確かに、こうしなければプリマス植民地設立の法的根拠というものがなくなってしまうのである。
註4 合衆国東海岸北部の「ニューイングランド」という地名はこの組織の命名による。
註5 1607年に現在のメイン州(合衆国東海岸の最北端)サガダホック河口に植民地を築いたが寒さに負けて撤収した。
債権者への借金返済は主にビーバーの毛皮で行われていた。これは本国で帽子の材料として珍重されており、毛皮採集(正確にはインディアンから買う)をする権利もやはりニューイングランド評議会に認めてもらっていた。毛皮を積み込んだ船が本国に向う途中で海賊に襲われたり、本国の市場で毛皮を換金する担当者が着服を繰り返したりと、色々大変な思いをしつつ、植民地建設から7年後にはなんとか完済を成し遂げるのである。
さて、プリマスにはその後もさらに本国から分離派教徒が到着し、少しづつその規模を拡大していくのだが……、本国の非分離派ピューリタンも何もしなかった訳ではない(以後、こちらの方を単に「ピューリタン」と表記する)。1625年にピューリタン嫌いのチャールズ1世が即位すると彼等への風当たりはますます厳しいものとなり、特に29年に議会が解散されたことが実に大きな衝撃を巻き起こしていた。しかも、ピューリタンが特に大勢いたイギリス西部は不作と不況のダブルパンチに見舞われていた。この13年後にはピューリタンは大規模な反乱「ピューリタン(清教徒)革命」を起こしてチャールズ1世を処刑してしまうのだが……それは後の話として、1629年の時点では国王の権力は磐石のものと見え、ピューリタンの多くは国外に逃れて自分たちのみの理想郷をつくろうと考えた。
それではどこに植民するか……。ヴァージニアは基本的に国教会優勢であったので、他に一番考えられるのは先に移民した分離派の連中が一定の成果をあげているニューイングランドである。28年、ピューリタンの一団がプリマス植民地と同じように「ニューイングランド評議会」の下請けとして植民の権利を手に入れた。この小さな植民下請け会社はすぐに他の複数のピューリタン団体に買収され、マサチューセッツ湾への大規模植民の準備が開始されるに至る。この「ニューイングランドにおけるマサチューセッツ湾の総督及び会社」は更に直接国王からの勅許状を手に入れた(註1)。国王チャールズ1世はピューリタンを弾圧してはいたが、その一方で彼等の宗教的情熱を植民地建設に利用出来ればそれはそれでよいと考えていたようである(アメリカ史概論)。
註1 つまりこれでニューイングランド評議会への気兼ねがなくなったのである。
29年8月、ケンブリッジ大学に会社幹部12名が参集し、7ヵ月以内にニューイングランドに移民すること、会社本部と勅許状もそちらに持っていくことを取り決めた。彼等はやはり国王が信用出来なかったので、つい5年前のヴァージニアのように何かの理由で勅許状が取りあげられたりしないよう考慮したのである。
かくして30年3月、株主たちから「総督」に選出されたジョン・ウィンスロップをはじめとする第一陣がニューイングランドへと旅立った。続く3ヵ月間に15隻の船が、家財道具を売り払った1000人のピューリタンを連れてきた。その後10年間で現地の人口は2万人に到達した。ただし、自費で渡航してきて公費も負担出来る(そしてピューリタンの教会員である)「自由人」は少数で、大多数はその使用人や年季契約奉公人、雇われ職人からなる「非自由民」であった。土地はいくらでもあった。インディアンによる所有権は、インディアンが耕作・居住している土地にのみ認められた。
「マサチューセッツ湾植民地」の中心地ボストン(註2)はすぐに北アメリカ最大の都会となった。勅許状の規定に従って株主(自由人)により選出される総会が開設され、毎年総督・副総督・参議を選出した。建前上は会社組織であるが、事実上の独立共和国が誕生したのである。
註2 ピューリタンが多くいた本国リンカーン州ボストンに因む。
土地の割り振りは個人ではなく「タウン」と呼ばれるグループに対して行われた。故郷を同じくする何十かの家族が集まって契約を結び、総会の承認を得た上で土地を受け取った。もらった土地の各家族への分配や教会用地・牧草地・耕作地の設定はタウン内部の話し合いで決定され、自給自足的なタウンだけでなく、港をもって交易で繁栄するタウン、輸出用の作物を栽培するタウンも誕生した。
もちろん各タウンには税金が課される。最初は自由人全員が総会にあつまって議論していたのが、人口が増えてそれが困難になると、タウンごとに2人の代議員を総会へと送り込むこととなる。これが議会の役割を果たすこととなる。それからこの植民地にもヴァージニアと同じく貧しい人が成功するチャンスがいくらでも転がっていた。「タウン」の構造(性質)上ヴァージニアのような大プランテーションが出来ることは(基本的には)ない(註3)が、土地はいくらでも存在し、入植して10年も頑張れば「非自由人」も「自由人」なみかあるいはそれ以上の経済力を持つことが出来た。さらに、マサチューセッツのピューリタン達は教育を極めて重視し、36年には現在も続く「ハーバード大学」を創設し、牧師(註4)や植民地政府の行政官を自前で養成することが可能になった。もちろん初等教育も促進された。
註3 植民地政府の要人のコネとかで広大な土地を確保した人もいた。(ピューリタン神権政治)
註4 一方のプリマス植民地の牧師さんにはどうも経歴のアヤシイ人が多かったようである。(ピルグリム・ファーザーズという神話)
これだけ書くとマサチューセッツは全くの「自由の国」のように思えるが、実はその一方でここは極めて窮屈で不寛容な一面を有していた。ピューリタン以外の宗派は公には認められず、ピューリタンでなければ投票も出来ず、非ピューリタンであってもピューリタンの牧師と集会所を維持するための税金を課せられた。礼拝に出席しない者には罰則が与えられ、日曜日(安息日)には飲酒も賭博もダンスも音楽も散歩も禁止されていた。植民最初期の1630年8月で既に「浮かれ騒いだ」という罪状で本国に強制送還された人がいた。植民地政府は教会と一体化し、本国で宗教弾圧にあって逃れてきたピューリタン幹部の多くはここで他の宗派を弾圧することに何の疑問を抱かなかった。正規の教会員として認可されるには真摯な回心体験が必要であり、43年の段階でそれに相当するのは成人男子の半分にすぎなかった。しかもそれは段々と減っていくのである。
35年、マサチューセッツ植民地からロジャー・ウィリアムズという牧師が追放された。「教会と国家は分離すべき」「ピューリタンは他の人に信仰を強制すべきでない」。これは当時としては大変な過激思想である。ウィリアムズとその家族、使用人は真冬の雪の中を14週間も歩いてナラガンセット湾にたどり着き、同調者と共にプロヴィデンスというタウンを建設した。これが「ロードアイランド植民地」の始まりである。首都プロヴィデンスの沖にある島がギリシアのロードス島と同じくらいの大きさであることから、それが英語風に訛って「ロードアイランド」と呼ばれて植民地全体の呼称になったとの説、その島を見たオランダの探検家が景観にちなんで「Roodt Eylandt(赤い島)」と名付け、それがやはり英語風に訛って「ロードアイランド」になったとする説がある。現在の合衆国でも最小の州である。
ただ、「信教の自由」を保証したはよいが、様々な信条を持つ人々のあつまるロードアイランドは分裂の傾向が強く、しかも法的な裏付けもないまま勝手に建設したいわば「幽霊植民地(ピューリタン神権政治)」であることから色々な不安が存在した。そこでウィリアムズは44年に本国議会に出向いて植民地建設に関する法的根拠を獲得する。当時の本国議会はピューリタン革命(後述)の(ピューリタン側の)先頭に立って戦っている真っ最中で、基本的にプロテスタントに立つならば全く好き勝手なことが言える状況であったようだ(アメリカ人の歴史)。1660年の「王政復古(後述)」の際にも上手く立ち回り改めて独自の勅許状を獲得する(63年)ことになる。ただし、分離された方のマサチューセッツ植民地はロードアイランドに関して「ニューイングランドの下水」とか色々な非難を続け、そのせいかどうかこの植民地の人口は1700年の時点でやっと7000人程度であった。
36年、トマス・フッカーに率いられた一団がボストンを離れ、コネティカット川流域のハートフォート他2ケ所に入植した。彼もやはりマサチューセッツの神権政治に疑問を抱いており、新しく建設したタウンでは教会員でなくても自由人になれるとの決りがつくられた。38年、本国からやってきた新たな植民者の一団がニューヘーヴンに入植し、これとトマス・フッカーの一団とで「コネティカットとニューヘーヴンの基本法」を制定した。これが「コネティカット植民地」の始まりである(註1)。ちなみに「コネティカット」はモヒカン族の言葉で「長い川」の意。
註1 1662年チャールズ2世から勅許状を獲得。
ただし、コネティカット川の流域には強力なピーコート族が勢力を構えていた。もともと彼等はニューイングランドのインディアン諸部族と南方のオランダ植民地(後述)の毛皮取引きを仲介することで利益を得ていたのだが、白人の入植によってその立場が脅かされるに至る。両者間の衝突はコネティカット植民地の建設以前から始まっており、37年に起こった「ピーコート戦争」では約400人のピーコートが殺されてしまうのであった。
プリマス・マサチューセッツ・ロードアイランド・コネティカットという4つの「ニューイングランド植民地」は、ヴァージニアや他国の植民地とは根本的に異なる理念のもとに建設されたものである。他所の植民地の人々はあくまで金儲けのために現地に渡ってきた「植民地に住むイギリス人(あるいはスペイン人・フランス人)」であり、彼等が現地に完全に根をおろしたのも、本国に煙草畑を持って帰る訳にはいかなかったからである。これに対し、ニューイングランド植民地の人々は最初から現地に永住する覚悟を固めていたのであり、ここからやがて「(イギリス人とは異なる)アメリカ人」という意識が生まれてくることとなる(註1)。
註1 ニューイングランドの住民がヨーロッパに対して「アメリカ人」という言葉を用いたのは記録に残る限りでは1684年が最初だという。(アメリカの歴史?)
その意味で、ニューイングランドの気候風土は植民者に対して実に都合のよいものであった。人々は、肉や野菜といった新鮮な食糧を揃え、冬の寒ささえ何とか乗り切れば(註2)特にこれといった風土病も存在せず、ヴァージニアよりもはるかに高い生存率を維持することが出来た。平均寿命は20年ほども違っていたという。宗教植民地という性質上、金儲けのための植民地としてつくられたヴァージニアとくらべて家族単位で移住してくる人がはるかに多く、しかも多産であった。ただし、ヴァージニアの家族の子供は成人する前に親が死んでしまう確率が高いせいで嫌でも独立心旺盛だったのに対し、ニューイングランドでは長生きの親が労働力を必要としたためなかなか子供の独立を認めようとしなかった(新世界への挑戦)。
註2 暖房に用いる木材ははいて捨てるほどあった。
植民地の経済は自給自足レヴェルにとどまらなかった。カルヴァン派のプロテスタントたるピューリタンにとって労働は「神の救いを確認すること」なのであって、それがやがては対外的な大規模商業活動へと拡大することになる。
植民初期から、コネティカット川流域にてインディアンとの毛皮取引きが、マーブルヘッドにては干し鱈が盛んに行われた。後者を象徴する「聖なる鱈」は今もボストンの文化財として残っている。しかしそれよりも熱心に進んだのは穀物の栽培や家畜の飼育である。最初期に入植したピューリタンたちは自分でつくった食料品をその後も続々と植民地へやってくる新顔のピューリタンに売って一儲けした。ところが、37年に本国で「ピューリタン(清教徒)革命」の争乱(後述する)が始まると一旦植民が途絶してしまい、買い手がいなくなった食料品は「牛の暴落」と呼ばれる不況の中で空しく腐ってしまうことになる。
そこでマサチューセッツ植民地は新たにカリブ海のイギリス領小アンティル諸島(後述)に注目する。ここの入植者はプランテーションでの砂糖の栽培に全力を傾けており、食糧を他所から買う必要があったのである。この販路拡大はよい結果をもたらした。食料品を運ぶ船を自前でつくったことから造船業(註3)が発達し、小アンティル諸島産の糖蜜を用いたラム酒の製造も始まった。糖蜜をいれる樽もニューイングランド製である。こうしてニューイングランドの商人たちは、地元の港で船に食品や木製品を積み込み、それをカリブ海で糖蜜やスパイスにかえ、さらにそれを本国や他の植民地に売却した。特に前述のラム酒は重要で、アフリカに運んでいって奴隷と交換、その奴隷をカリブ海の大プランテーションに売却、ラム酒の原料の糖蜜をもって帰るという「三角貿易」(註4)の一翼を担ったのである(註5)。
註3 マサチューセッツ植民の最初期から漁業のための造船が始まっていた。
註4 ここで説明したのとは別に、食料品をカリブ海に運んで糖蜜にかえ、それをイギリス本国で本国産品にかえてニューイングランドに持ってくるという「三角貿易」もある。
註5 奴隷貿易に特に熱心だったのはロードアイランド商人である。「信教の自由」はまだ「奴隷制度・人種差別反対」には結びついていなかったのであった。
ところで、本国にて宗教的に厳しい立場にいるのはピューリタンだけではない。伝統的なカトリックも国教会と激しく対立しており、カトリック貴族の1人ボルティモア男爵はピューリタンがつくったような海外の別天地が欲しいと考えていた。幸いなことにボルティモア男爵はその誠実な人柄から国王チャールズ1世の信頼を受けており、32年に至ってヴァージニア植民地のうちポトマック河以北に関する勅許状をいただくことに成功した(註1)。これが「メリーランド(註2)植民地」である。ここはヴァージニアやマサチューセッツと異なりボルティモア卿個人に与えられた領地であって、統治と土地領有に関する世襲的権利を認められていた。
註1 勅許状の制作中にボルティモア卿が死亡し、息子の2代目ボルティモア卿が全ての権利を相続した。
註2 国王チャールズ1世の妃ヘンリエッタ・メリーに因む。これは国王自身の命名によるという。
住民はヴァージニアと同じく「ヘッドライト制」によって誘致された。自費で連れてきた年季契約奉公人男子1人につき100エーカー、女子・子供1人につき50エーカーが無償で与えられるものとする。特にこの植民地では2000エーカー相当の奉公人を連れてきた者には「荘園領主」の待遇を与えて荘園内での裁判権を認めるという方針をとっていた。
言うまでもなくボルティモア卿はこの植民地に大勢のカトリックを住まわせるつもりでいたのだが、どういう訳かカトリックはあまりやってこず(これは本当に謎である)、ピューリタンや国教徒が主に奉公人として来着した。ボルティモア卿は人集めと自分の立場保持(註3)のために住民の宗教的自由を保証し、1649年にはさらに明確に「宗教寛容法」を発布することとなる。この植民地では年季があけると無条件で50エーカーの土地が支給されるという習慣があり、そのことが本国の貧しい階層をひきつけた(註4)。奉公人の中には悪徳業者に騙されて誘拐同然につれてこられた者もいた(註5)。他にも、ボルティモア卿は本国が罪人を流刑としてメリーランドに送ってくるのを歓迎し(註6)、アイルランド人の捕虜(註7)も受け入れた。出身はともかく、彼等は荘園での1日12〜14時間の辛い労働を所定の年限勤め上げれば自由の身となることが出来、簡単に自分の土地を手に入れて何者にも拘束されない自主独立の精神を育んでいくのである(女性の奉公人も大勢いた)。
註3 カトリックである自分が国教徒を弾圧したりしたら大問題である。
註4 ただし、税金はヴァージニアよりも厳しく徴集されていた。(アメリカの歴史?)
註5 道を歩いている時にいきなり殴り倒されて船に運び込まれた人もいたという。
註6 恐らく労働力として期待したのである。罪人は7年間働けば自由になった。これを「国王陛下の7年船客」と呼ぶ。
註7 アイルランドはイギリス(イングランド)による支配が進められており、反乱が散発的に起こっていた。
勅許状に「植民者はイギリス人の権利をすべて享受する」とあることから35年には(本国でやってるのと同じような)議会も開設されたが、植民地政府の要職はカトリックによって独占され、彼等は荘園から莫大な収入をあげていた。ただし、この植民地は建て前上はボルティモア卿という領主個人の所有物ではあるのだが、議会が存在して喧しく騒ぐことから領主様の全くの好き勝手とはなかなかいかず、特にメリーランド植民地開設以前からその地域に住んでいた植民者(ヴァージニアから来た人)はボルティモア卿の権威を認めようとしなかった(註8)。
註8 ヴァージニアとメリーランドの境界線争いは20世紀までもちこされている。
衛生状態は劣悪だったが食糧生産が最初から上手くいったおかげで飢えることはなく、農民の多くはヴァージニアと同じく煙草を栽培した。似たような社会構造を持ちチェサピーク湾に面するメリーランドとヴァージニアは「チェサピーク植民地」と一括して呼ぶことが多い。
このチェサピーク植民地では常にプランテーションで働く労働者を求めていた(註1)が、インディアンはプランテーションでの仕事にはあまり向いていなかった。スペイン植民地での彼等の多くは既にアステカ王国やインカ帝国において高度な労働力として組織されており、スペイン人は以前の支配階級にとってかわるだけでよかったが、イギリス植民地付近のインディアンは中南米の同胞ほどには組織労働に慣れていなかったのである(註2)。(註3)
註1 労働力確保のため必然的に子沢山になった。とにかく不妊症の女性と結婚するのを避けようとしたため、妊娠したのを確かめてから結婚するということが多かった。これはキリスト教の立場では御法度であり、ばれたら厳しく責められる。
註2 他にも、地理に詳しいインディアンはすぐに逃亡してしまうとか、奴隷にされた仲間の部族が襲撃してくるのを恐れたとか色々な理由があげられている。しかし、インディアン奴隷もいなかった訳では決してなく、インディアン同士で(白人に売るための)奴隷狩りの戦争をすることすらあった。
註3 ということで、イギリス植民地のインディアンは入植者から見て単なる「邪魔物」という扱いを受け、やがてはほとんど絶滅に近い状態に追い込まれていくのである。対してスペイン植民地では、インディアンは支配かつカトリックの布教対象であり、少数の白人植民者の経営する大プランテーションで使役されていた。
かわりに、年季契約奉公人と、黒人奴隷が大勢用いられることとなった。北アメリカのイギリス植民地に最初の黒人奴隷20人が到着したのは1619年8月のことである。黒人奴隷の供給源となったアフリカ西部は北米のインディアンよりは組織的な農耕を経験していてプランテーションでの労働にもすぐに順応出来た。
ただ、初期の植民地では白人も黒人も死亡率が極めて高くていつ死ぬか分からなかったため、高額な黒人奴隷(人間1人の値段は高い)よりも、植民地までの渡航費と年季期間中の生活費を負担すればよいだけの白人奉公人の方がトータルで安くつくと考えられていた(註4)。
註4 と言われているが、実際には初期の植民地に移入された黒人奴隷は所定の年限をつとめれば自由になれたらしい。詳細は不明である。(新世界への挑戦)
初期の植民地では白人の奉公人も黒人奴隷と同じような待遇で働いていて両者間の法的区分も曖昧であったのが、1661年のヴァージニア植民地議会において、黒人奴隷は基本的に死ぬまで奴隷であって白人の奉公人とは異なるとの法律が制定された(註5)。ただし、植民地における奴隷の割合が目立って増加するのは1680年代以降のことであり、黒人であっても奴隷でなく奉公人という者も大勢いた(註6)。
註5 しかし実は、かような法律が最初に出来たのは奴隷の少なかったマサチューセッツ植民地であった(1641年)。
註6 奉公人の身分から自由になった黒人が白人奉公人をつかうことは禁止であった。
チェサピーク植民地の経済は煙草偏重であり(片手間に穀物や家畜をつくった)、広大なプランテーションがあちこちに点在していた。農園は川沿いにつくられており、大農園は単独で、中小農園は共同で埠頭を所有して、海から遡ってくる船に商品を積み込んでいた。衣類や鉄砲、馬や農機具、奉公人もその時持ち込まれる(註7)。おかげでこの地域には道路もほとんど整備されなかった。ヨーロッパからやってくる船はまずジェィムズタウンに入港するがこの町には1650年頃になっても建物が30ほどしかなく(註8)、いくつかの河を遡ったり下ったりして各プランテーションから商品を仕入れていた。
註7 衣類や農機具を自分でつくる暇と労力も全部煙草栽培にあてていたのである。
註8 その後植民地の首都はウィリアムズバーグに移り、さらにリッチモンドに移転して現在に至る。ちなみにリッチモンドは南北戦争の時に南部の首都となる。合衆国の首都ワシントンDCからびっくりするほど(オイオイ大丈夫かと思うほど)近い。さらに言うとワシントンは1791年に合衆国の首都として建設され、その時にヴァージニア州とメリーランド州の境界の土地を分けてもらった。首都の都市名を「ワシントン」、その所在地を「コロンビア特別行政区(DC)」と呼ぶがDCは全部ワシントンであり、合衆国内にいくつかある他のワシントン(例えば北西部のワシントン州)と区別するために「ワシントンDC」と呼ぶようになったのである。もっというとDCはもともと「準州」であり、他の準州はみんな「州」に昇格したのにここだけはDCという別個の名称を与えられたのである。
合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントンの先祖ジョン(註9)は1657年に商船の航海士としてヴァージニアに来航し、そのまま居着いてしまった人物である。なかなか抜け目ない男だったらしく、11年かけて5000エーカーの土地を手にいれている。
註9 大統領の曾祖父である。もと聖職者だが飲酒癖のせいで本国の教会から追放されたのだという。
宗教的には、メリーランドでは領主や植民地政府のカトリックと一般庶民の大半を占めるプロテスタントとのやりとりが激しく行われていたが、ヴァージニアでは全体的に国教会が優勢であった。まともな町がないことから学校もほとんどなく、プランターは子供の教育を家庭教師に任せ、牧師も本国派遣の人に頼っていた(註10)。そのおかげで、宗教的締め付けのもとで町(タウン)単位で生活するマサチューセッツと比べてはるかに好き勝手なことが出来たようである(アメリカの歴史?)。
註10 植民地の国教会はロンドン司教の管轄とされ代理人によって管理されていた。教区、というより家と家が離れすぎているせいで宗教的管理が行き届かず、結果として政教分離が進んでいた。