北米イギリス植民地帝国史 前編 その4

   

   ピューリタン革命  (目次に戻る)

 本国ではチャールズ1世が専制的な政治を進めていた。彼は議会の昇任を得ずに新たな税を導入し、議会が反発すると1629年これを解散して以後11年間も招集しなかった。さらに彼は地方統治の手段としてイギリス国教会の教区制度を利用するために、国教会を国民に強制しようとして特にピューリタンを憤激させた。40年、プロテスタントの多いスコットランド(註1)で反乱が起こり、チャールズ1世は妥協と軍費調達のための議会を招集せざるを得なくなった。議会は翌41年に「大諌奏」を可決してチャールズ1世を徹底的に批判した。42年、ついに国王派と議会派が武力衝突を起こして事態は本格的な内乱へと突入した。議会派の主力はピューリタンであり、これこそが世にいう「ピューリタン(清教徒)革命」の勃発である。

 註1 チャールズ1世の父ジェイムズ1世はもともとスコットランド国王であったが、イギリス(イングランド)王エリザベス1世の親戚であったことからその後継者に選ばれ、以後イギリス・スコットランド両国は同君連合となっていた。ちなみにスコットランドのカルヴァン派は「長老派」と呼ばれている。

 戦闘は当初国王派の優勢であった。しかし議員の1人オリヴァー・クロムウェルが兵士1人1人にピューリタン精神を注入して「聖者の軍隊」に鍛え上げた「鉄騎隊」が登場するに及んで議会派の志気も上昇した。45年、鉄騎隊を中核として指揮系統を再編した議会派「新型軍」が「ネーズビーの戦い」において国王派を撃破、ピューリタンの勝利を確実のものとした。

 49年、国王チャールズ1世が死刑に処せられ、「共和政」が宣言された。これにてピューリタンの勝利が最終的に確定した。この一連の戦いの間、ニューイングランド植民地は本国の同胞に同情しつつも中立を堅持し(帰国した者もいる)、チェサピーク湾とカリブ海の植民地は主にオランダを相手にして好きなように商売していた。その中でヴァージニアは国教会が優勢だったことからチャールズ1世の刑死を深く悲しみ(註2)、本国から脱出した王党派を広く迎えている(註3)。そのせいかどうか本国共和政府の遠征軍がやってきて無理矢理いうことを聞かせられることになる。

 註2 「ピューリタン革命」に際して、ニューイングランドはピューリタン派(議会派)に同情し、ヴァージニアは国王派を支持したという思い出は、後のアメリカ合衆国の南北分裂、そして「南北戦争」の勃発の一因となった、という話がある。

 註3 合衆国第4代大統領マディソン、第5代モンローの先祖はこの時アメリカに渡ってきたのである。

 それはともかく……イギリスの本国商人の目は、そのヴァージニアのお得意先のオランダへと向けられていた。

 スペイン「無敵艦隊」を破ったとはいえイギリスの海軍力はまだまだ貧弱なものであった。エリザベス1世は非常な緊縮財政をとっていたことから余程の非常時以外には海軍費は大して出さず、それに続く国王たちは海軍にあまり興味を示さなかった。

 その結果、1640年頃のイギリス海軍にはたった42隻の軍艦しか存在しなかった。対してこの頃盛んに海上勢力を増強していたのがオランダである。オランダ本国は穀物生産が不足気味だったことから、他国から穀物を買ったり魚をとったりするための船舶運用が早くから重視され、さらには他国の物産を安値で買い入れてはそれをまた違う国に高く売る中継貿易で巨万の富を得たのである。オランダ商船は1595年には東南アジアのジャワへ、1600年には日本に到達した。オランダは全ヨーロッパの商船のうち4分の3を握って(註4)全世界へと盛んに進出し、42年頃には150隻の艦隊を保持して一大海洋帝国の名をほしいままにした。そもそもオランダは海運業で栄える都市貴族が動かす共和国であり、ピューリタン革命前のイギリスのような、王様が恣意的な政治をする国よりもはるかに商売第一で行き易かったのであろう。

 註4 これはいくらなんでも大袈裟だが、もっと誇張して、オランダの商船数は全ヨーロッパの船舶数に匹敵する、とか色々言われていた。

 ここで舞台をかえて、北アメリカ大陸の現ニューヨーク地域……。

   

   ニューアムステルダム  (目次に戻る)

 この地域に最初に現れたヨーロッパ人は、伝説によれば中世のヴァイキングであるが、1500年前後にニューファウンドランド島を訪れたイギリスの船乗りたちがこの付近にまで足を伸ばしたと考えられている。はっきりした記録としては、1524年4月にフランスからやって来たジョヴァンニ・デ・ヴェラザーノ(註1)の一行がニューヨーク(註2)湾に侵入しつつも植民地を築くには至らなかった。

 註1 彼自身はイタリア人だが、雇い主はフランス王。

 註2 「ニューヨーク」という地名がつくのは1664年。

 その次に登場するのがオランダ人である。1609年、ヘンリー・ハドソンがやはりニューヨーク湾を訪れ、翌年毛皮を積んで帰国した。そして1624年、オランダは内陸部のフォート・オラニエ(現在のオルバニー市)に30家族を入植させ、翌年インディアンから24ドル相当の商品でマンハッタン島(註3)を買い取った(註4)。こうして出来たのが「ニューアムステルダム」植民地である。この植民地の港は北のニューイングランドと南のヴァージニアという2つのイギリス領を結ぶ中継連絡点としていつも賑わっており、さらに一部のインディアン部族との毛皮(主にビーバー)取引を熱心に行った。しかし植民者はインディアン全部と仲良くしていた訳ではなく、それどころか一部の部族との戦闘を繰り返したため、常にその反撃に怯えなければならなかった(註5)。インディアンや野獣の襲撃を防ぐために造られた城壁(というほど大したものではない)は現在も「ウォール(壁)・ストリート」という地名としてその痕跡を残している。「ブルックリン」「ハーレム」もオランダ起源の地名である。

 註3 アルゴンキン・インディアンの言語で「岡の島」。

 註4 当時マンハッタン島に定住するインディアンはいなかったというのだが……。

 註5 インディアンと戦うためにニューイングランド人の指揮官を招聘したこともある。

 1624年、「荘園地主に対する特権の特許状」が発行された。50人以上の人間を連れてきた者に「荘園地主」として領地を与え、漁業・狩猟の独占権、民事裁判権等を与えるとのものである。これらの特権を持つ「荘園地主」は、この植民地がイギリス領となって以降、さらにアメリカ合衆国独立後、1840年代まで存続することになる。ただし、オランダ本国人はイギリス本国人ほどには経済的・宗教的な圧迫を感じていなかったため、移民は少数に限られ、1660年頃でやっと5000人程度であった。ちなみに合衆国第8代大統領ヴァン・ビューレンの祖先はオランダ植民地の借地人であり、2人の大統領を出すルーズベルト家はもともとオランダ系の小売商人としてニューアムステルダムに居住し、18世紀になって大商人に出世したのであった。

   

   航海条令  (目次に戻る)

 1651年、イギリス議会に「航海条令」が提出された。「イギリス及びその植民地の産品はイギリス船でなければ輸出出来ない」「イギリスに輸入する貨物はイギリスまたはその産出国の船でなければ入港を許さない」「イギリス近海で取れる魚類及びその製造品はイギリス船でなければ輸入を許さない」 「この規定に反する船は貨物とともに没収する」……。要するに、オランダの中継貿易をイギリスから全面的に締め出し、かわりにイギリス海運業をバックアップしようとの目論みである。 軍の指導者クロムウェルは同じプロテスタント国であるオランダと事を構えるのを嫌ったが、この条令は彼の留守中に可決されてしまった。その史的背景はともかく、 「航海条令」なるものを具体的にどのような勢力がどのような具体的な見通しのもとに推進したのかは現在でも謎のままである。ともあれ、イギリス官憲はたちまち200隻のオランダ商船を拿捕し、さらに英仏海峡を航行する他国の軍艦にイギリス艦への敬礼を義務付けた。 イギリス側ではピューリタン革命の際に海軍がおおむねピューリタン側に立っていたことから共和政府は海軍増強に力を入れていた。それまで戦闘用の船といえば商船に重武装を施していたものを、 戦闘のためだけに建造した専用の軍艦が登場してくる時代である。

   

   第一次英蘭戦争  (目次に戻る)

 1652年5月13日、両国の小艦隊が衝突した。オランダ艦隊がイギリス側に敬礼しなかったためである。16日、トロンプ提督率いるオランダ艦隊42隻がイギリスのドーヴァー港に入泊した。これは天候の変化によるもので、別に戦争をするつもりはなかった。しかしオランダ艦隊はイギリス側からの敬礼要求を拒否し、一挙に緊張が高まった。イギリス側は北のダウンズ港から8隻、南のライス港から15隻を出撃させてオランダ艦隊に圧力を加えることにした。19日、オランダ艦隊がドーヴァー港を出港し、洋上でイギリス艦隊と相対した。イギリス艦隊は3回空砲を発して敬礼を促すもオランダ艦隊はこれに応じず、逆に実弾の一斉射撃をお見舞いした。「ドーヴァー沖の海戦」である。戦闘は全くの乱戦で、大した犠牲もださないまま双方撤収した。

 ともあれかくして「英蘭戦争」の火蓋は切って落された。6月12日イギリスのアイスキー艦隊が英仏海峡を航行中のオランダ商船隊を攻撃して6隻を拿捕した。北海ではブレーク艦隊がオランダ漁船100隻を拿捕し艦艇12隻を撃沈もしくは拿捕した。

 8月、オランダの商船隊60隻が英仏海峡に進入した。海外貿易はオランダの生命線であり、たとえ戦争中でもこれだけは止める訳にはいかないのである。イギリスからアイスキー艦隊40隻が出撃してきたが、商船隊にはデ・ロイテル提督率いる30隻の艦隊が護衛についていた。「アルマダ海戦」の頃には海戦というのは、あまり統制のとれていないグループごとに適当に目標を決めて突っ込んでいくという有り様だったのが、次第に、艦隊をいくつかの隊に明確に分割して、艦隊司令官から分統司令官へ、そこから各艦長へ、という指揮系統の整備がなされつつあった。そして今回の「プレマウス沖の海戦」ではオランダのデ・ロイテル提督は艦隊を3つに分けてイギリス艦隊の猛攻をよくしのいだ。双方とも相手に決定的な打撃を与えることはなかったものの、オランダ側の商船隊が無事海峡を通過したのでこちらの勝ちである。

 商船隊は地中海に向うことになっており、これを見送ったオランダ艦隊はさらに別方面から本国に帰ってくる商船隊を護衛して英仏海峡に再突入した。今回はいくらかの商船を拿捕されたが、やはりその大半を守りきることに成功し、名司令官デ・ロイテル提督の名は全ヨーロッパに轟いた。

 オランダは正式に宣戦布告した。9月、「ノースフォアランド沖の海戦」が出来した。イギリス艦隊の一部が浅瀬に乗り上げて混乱する一幕があったものの、オランダ艦隊では司令官ウィットに人望がなかったことから全力を出し切れず、多くの死傷者と艦2隻を失って退却した。英仏海峡の制海権は一旦イギリス側の手に落ち、商船が動かせなくなったオランダは窒息の危機に見舞われた。

 12月、オランダから300隻の商船隊が出帆した。護衛するのはトロンプ提督率いる73隻である。イギリスからはブレーク艦隊37隻が出撃してきてこれを叩こうとした。この時の風向きはイギリス艦隊に有利であり、オランダ艦隊が1ケ所に固まっていなかったにもかかわらず、何故かイギリス艦隊でも後衛が遅れて少数しか戦闘に参加出来なかった。結果はイギリス側の敗北、5隻を失った上に商船隊には無傷で海峡を突破され、さらに別方面からオランダ本国目指して帰ってきた商船250隻を邪魔することも出来なかった。

 この「ダンジネス沖の海戦」で戦闘に参加しなかったイギリス艦の指揮官は査問会送りとされたが、司令官ブレーク提督は政府の特別の慰留によって現職に留まり、引き続き海軍の増強に努力することとなった。

 翌53年2月28日、アジアから帰ってきた商船250隻を護衛するトロンプ提督のオランダ艦隊90隻と、これを待ち受けていたブレーク提督のイギリス艦隊80隻が衝突した。「ポートランド沖の海戦」である。名誉快復の念に燃えるブレーク提督が直属の12隻を率いてがむしゃらに突進し、一時はオランダ側のトロンプ直属隊とデ・ロイテル隊の反撃を受けたものの、順次後続の隊が到着して大乱戦となった。ブレーク提督は腹部に重傷を負い、トロンプの旗艦は乗組員の3分の2を失い、デ・ロイテルの旗艦はマストをへし折られた。戦闘は夜になって一旦休止した。イギリス側の沈没はなんとかゼロ、オランダ側は7隻を失った。

 翌日の戦闘ではオランダ側はさらに8隻の艦と十数隻の商船を失った。やはり商船隊を守りながらの戦闘は困難で、一時はトロンプとデ・ロイテル両提督の旗艦のみでイギリス艦隊の猛撃を引き受ける有り様である。 その翌日の戦闘でもイギリス艦隊は執拗な攻撃を繰り返し、オランダ艦17隻と商船5〜60隻を撃沈もしくは拿捕した。イギリス艦隊はオランダ側の先頭を押さえて一網打尽にしようとしたがさすがに果たせず、 オランダ側はやがてたれ込めてきた濃霧に紛れて本国の港に逃げ込んだ。3日間に渡った「ポートランド沖の海戦」はイギリス側の勝利に終ったが決定的なものにはならなかった。戦史的には、なるべく沢山の軍艦を1列縦隊に並べて1門でも多くの大砲を敵艦隊に向ける「縦陣」が実用化された最初の海戦として知られている。この縦陣をいくつも編成したり、ひとつの縦陣を前・中・後の隊に分けてそれぞれに分統司令官を置いたりして巧みに運用するのである。

 

 両国は海軍の増強に意を注いだ。オランダ商船隊は英仏海峡ではなく北海を北進してスコットランドの北を迂回するルートで貿易を続けた。イギリス艦隊は北海の警備を厳重にしたがこちらは英仏海峡より広いのでなかなかオランダ船団を捕足することが出来ない。その一方でオランダ艦隊もイギリス艦隊撃滅を狙って行ったり来たりし、ようやく6月12日に至って相対した。「ノースフォアランド沖の海戦(第2次)」である。イギリス艦隊はモンク提督指揮下の105隻、オランダ艦隊はトロンプ提督指揮下の100隻である。

 この時代の艦船は当然ながら帆船であってその運用は風に強く左右されていた。特に戦闘の際には敵艦の風上をとった方が圧倒的有利であり、自艦の帆で風をふさいで敵艦の帆が風を受けられないようにしたり、 風下の危険地帯に追い込んで暗礁や砂州に乗り上げさせたりする作戦が可能となる。そもそも、風下にいる艦が風上に向けて大砲を撃った場合、黒色火薬のいがらっぽい煙が艦内に充満してなかなか外に出ず、次の弾の装填や照準が困難になったりするのである。今回の「ノースフォアランド沖の海戦」で最初に風上をとったのはイギリス艦隊であったが、オランダ側のデ・ロイテル隊が上手く風上にまわり込んでイギリス側ローソン隊を攻撃した。しかし戦闘が全艦隊に及ぶ前に風向きが変わって戦局は一転イギリス側の有利となり、トロンプ提督の旗艦「プレデロード」にも斬り込み隊が殺到した。トロンプは旗艦の火薬庫に火を放って脱出したが、 旗艦の爆発を見た味方艦は「提督戦死」と誤解して甚だしく戦意を沮喪した。逆にイギリス側にはブレーク艦隊18隻が来援してますます意気あがる。ブレークは先の「ポートランド沖の海戦」で受けた傷が癒えたのである。これを見たオランダ艦隊は本国への撤退を開始し、追撃を受けてさらに犠牲を出した。オランダ艦隊は十数隻が沈没もしくは拿捕され、死傷者は不明だが捕虜にされた人員は艦長6人を含む1350人を数えていた。イギリス側の死傷者は262人、沈没はゼロであった。

 8月5日、オランダ艦隊80隻がマース港を出撃した。指揮官は今度もトロンプ提督である。マース港を見張っていたイギリス艦隊が追撃したがトロンプは性急な戦闘を避け、8月8日にはテクセル港から出撃したウィズ提督の艦隊と合流してその戦力合計106隻を揃えるに至った。司令長官トロンプの指揮下にエヴェルトセン、デ・ロイテル、ウィズの3提督が付き従う。ただし、あちこちから集まってきたイギリス艦隊も同じく106隻、指揮官も前回と同じモンク提督である。

 10日朝、この「スケヴェニンゲン沖の海戦」も前回の海戦と同じくイギリス艦隊が風上をとった。トロンプ提督は艦隊の先頭にたって指揮をとり、敵艦に肉迫したところを銃で撃たれて戦死した。デ・ロイテルの旗艦も穴だらけになって100人あまりの死傷者を出す。「ポートランド沖の海戦」「ノースフォアランド沖の海戦(第2次)」と連敗したオランダ艦隊はもはや負け癖がついていた。午後3時、勝手に退却する艦があらわれ、遂に全艦隊本国へと敗走した。イギリス艦隊の沈没は3隻、オランダ艦隊の沈没は14隻であった。

 かくしてオランダは海戦において3連敗を喫し、戦争の全期間において多数の商船を拿捕され志気的にも経済的にも危機的状況に陥った。イギリスの方も同じプロテスタントの国と長々と戦うことを好まず、1654年4月15日において「ウェストミンスターの和議」成立が実現した。オランダはイギリスの「航海条令」を承認し、イギリス艦への敬礼を義務付ける等の譲歩に同意した。ただし、オランダは戦後ただちに海軍の再編に着手し、ホラント州(オランダの中心)首相ヤン・デ・ウィトの尽力によって貿易もすぐに回復した。再戦の到来は確実であった。

   王政復古  (目次に戻る)

 第一次英蘭戦争が終結した4年後の1658年、イギリス共和政の、そしてピューリタンの指導者クロムウェルが亡くなった。息子のリチャード・クロムウェルが政権を引き継ぐがもちろん父親ほどの能力も人望もなく、急激にかつての国王派が息を吹き返した。

 5月29日、革命で処刑されたチャールズ1世の子チャールズ2世が亡命先からロンドンに帰還し、「王政復古」が実現した。彼はピューリタン革命がもたらした混乱(ここでは詳述しない)の収拾を第一に置き、チャールズ1世処刑に関する報復は、なかった訳ではないがそれほど大勢には追及しなかった。長いこと苦労した反動なのかそれとも何か学ぶところがあったのか、陽気に調子よく振る舞って「愉快王」と称されることになる。宗教的には国教徒の王を自認しつつも他宗に寛容であろうとしたが、議会は少しづつピューリタン弾圧へと傾斜していき、その一方で実はチャールズは影でこっそりカトリックを信じていた。

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