北米イギリス植民地帝国史 後編 その1

   

   ニューヨーク  (目次に戻る)

 1664年8月26日、北米ニューアムステルダムの沖に4隻のイギリス艦が姿を現し、降伏を要求した。現地のオランダ総督スタイヴサンドは以前からこのことあるを予測して本国に対し増援を求めていたが、本国は「チャールズ2世は親蘭的」と根拠もなしに考えて何もしようとしなかった(註1)。しかし現実にはチャールズは亡命中にオランダに冷たくされたことから強くこの国を憎んでおり、イギリスの一般世論としてもオランダの世界貿易をなんとしてでも奪取したいものである。さらにチャールズ2世には王政復古で世話になった人が大勢いて、彼等に対する褒美として海外の領地を与えることを考えていた。まず弟のヨーク公にアメリカのオランダ植民地に与えよう。

 註1 ただし、第一次英蘭戦争で打撃を受けた艦隊はきっちり再建されていた。

 ニューアムステルダム総督は降伏勧告を断固拒絶した。しかしこの総督スタイヴサンドは市民に対して厳しい態度で望んでいたことから人望がなく、彼自身の息子を含む市民代表93名からの請願を受けてやむなく降参した。イギリス軍は市民に対して生命と自由と財産を保証した。現地は新しい支配者にちなんで「ニューヨーク」と改名された。メリーランドに次いで北米で2番目の領主植民地の誕生である。その領域は現在のニューヨーク州よりもはるかに広いものであった。

   

   第二次英蘭戦争  (目次に戻る)

 1665年1月、イギリスは正式にオランダへと宣戦布告した。6月13日、北海のローエストーフト沖にてヨーク公率いるイギリス艦隊130隻とオプダム率いるオランダ艦隊120隻が衝突した。これだけ大規模かつ戦力伯仲というのはかなり珍しい話である。しかしオランダ側の司令長官オプダムは本来陸軍軍人であって海に慣れておらず、結果はイギリス側の勝利、オランダは17隻の艦とオプダム以下4000人の死者を出して敗退した。オランダ海軍の司令長官には第一次の英蘭戦争で活躍したデ・ロイテル提督が就任した。イギリスはこの後ペストの大流行とロンドン市を焼き付くす大火に襲われたが戦争遂行の決意は揺るがなかった。

 66年6月11日、デ・ロイテル提督率いるオランダ艦隊80隻とモンク提督提督率いるイギリス艦隊60隻が衝突した。この日のオランダ艦隊は強風のため錨を降ろしており、イギリス艦隊はそこを狙って風上から突進してきたのである。この攻撃の標的となったオランダ艦隊前衛を率いるトロンプ提督はその名が示す通り第一次の英蘭戦争で活躍・戦死したトロンプ提督の息子であり、ただちに錨をあげてイギリス艦隊へと立ち向かった。イギリス艦隊が意外な反撃に戸惑っているうちにオランダ艦隊本隊のデ・ロイテル隊、後衛のエベルトセン隊も錨をあげて戦闘態勢に入り、しばらくの激戦の後夜に入って一旦休止した。翌12日の戦闘も勝敗なし、その翌13日には数に劣るイギリス艦隊が戦場を離脱した。オランダ艦隊が追撃するがなかなか追いつけない。夕方、イギリス側に増援のルパート艦隊23隻が到着し、改めて決戦を挑むこととなる。

 14日、両艦隊が縦陣を布いて平行しつつ砲撃戦を展開した。相手に風上をとられたイギリス艦隊に焦りが生じ、前衛のルパート隊が速度を上げてオランダ艦隊の風上にまわり込もうとした、そこで生じた本隊との隙間にオランダ艦隊が突っ込んできた。結果はオランダ側の大勝、20隻を撃沈し6隻を拿捕、自艦隊の沈没は4隻であった。4日間に及んだ一連の海戦を「ノースフォアランド沖の海戦」または「4日戦」と呼ぶ。イギリスの残存艦隊は霧に紛れて退却した。英仏海峡の制海権はオランダが掌握した。

 翌67年、デ・ロイテル提督のオランダ艦隊がテムズ河を遡り、なんとロンドン市を砲撃した(!)。ポーツマス港もプリマス港もオランダ艦隊の封鎖を受けた。チャタム港ではイギリス艦隊旗艦が捕獲された。イギリスとその海軍がここまで追いつめられたのは後にも先にもこれ1回きりのことであり、もはや運命極まれり……と思った矢先、奇跡が起こった。フランス陸軍が南ネーデルランド(ベルギー)に侵入(註1)し、そちらへの対処を迫られたオランダ政府(註2)がイギリスとの講和を求めてきたのである。7月、「ブレダの講和」が成立し、オランダは北米のニューアムステルダムを正式に放棄するかわりに南米のギアナ(註3)の一部を獲得し、さらに「航海条令」の一部を修正してドイツ産の品物をイギリスへと中継する権利を得た。

 註1 南ネーデルランドはスペイン領である。この年スペイン王フェリペ4世が亡くなってカルロス2世が即位したが、フランスのルイ14世は自分の妃がカルロスの姉であることを理由として強引に南ネーデルランドの相続権を主張したのである。

 註2 フランスのような大国と直接国境を接することがあっては困るから。

 註3 1627年から植民開始(それ以前にも計画はあったが失敗した)

 はたして誰が一番トクをしたかはなんとも言えない。オランダは大急ぎでイギリス(昨日の敵)・スウェーデンと同盟を結んでフランスの南ネーデルランド侵攻(註4)に対抗し、結局フランスは占領地の大部分を放棄して講和した。このことでフランスのルイ14世はオランダを深く恨むこととなる。

 註4 この戦争はつまりフランスとスペインの戦争である。スペインはもはや弱っちくて話にならず、ルイ14世は軍の快進撃と一緒に前線に出てきて「宮廷の軍事的散歩」を楽しんでいたのだが……。

   

   ニュージャージー  (目次に戻る)

 さて前述の通り名前のかわった「ニューヨーク」の住民はイギリスから以前通りの生活を保証され、たいした混乱もなく施政の引き継ぎがなされていた。既に土地と財産を手に入れているオランダ人で故国に戻る者はほとんどなく、最後のオランダ総督スタイヴサンドも3年後にはこちらの私有農園に戻ってきて死ぬまで暮らすことになる。

 ニューヨークの支配者ヨーク公は、自分が貰った広大な領地のかなりの部分を友人のジョージ・カートレット卿とジョン・バークリー卿に与えることにした(2人の領主による共同統治である)。これが「ニュージャージー植民地」の始まりである。カートレット卿が本国のジャージー島の出身であったことにちなむ。ただし、植民地分割の決定が現地に伝わるより早く、ニューヨーク政庁がニューイングランドのピューリタンに対してニュージャージー地域に移住することを許可しており、喜んで移ってきた彼等数百名は、その後現地に領主代理としてやってきたフィリップ・カートレットによる事後承諾を受ける運びとなった。この地域には早くからオランダ人の入植も進んでおり、68年には議会も開設されたのであった。

   

   カロライナ  (目次に戻る)

 チャールズ2世は自分の味方になる者にはとにかく気前がよかった。弟のヨーク公にニューヨークをやったのは前述の通り、ニューイングランドでは、個人的親交のあったコネティカット総督ジョン・ウィンスロップ2世とロードアイランドのロジャー・ウィリアムズにそれぞれの植民地を正式に承認する勅許状を与えてやった。この2つの植民地がマサチューセッツから完全に分離したのはこの時である(註1)

 註1 プリマス植民地は何故か動かなかった。

 63年、8人の貴族に対しヴァージニアの南に新しい植民地を与えるとの勅許状がくだされた。その中には歴史家かつ政治家のクラレンドン伯、カリブ海バルバドス島(後述)の大プランターでそちらで過密に達した白人の新たな入植先を探していたコールトン卿、さらに英蘭戦争で活躍したモンク提督の名もあった。モンクはなかなかの世渡り上手で、ピューリタン革命では最初国王に忠誠を誓い、44年に捕虜になった後は一転してピューリタンの味方、第1次英蘭戦争では艦隊を率いてオランダと渡り合って、王政復古では国王の忠臣に戻っていた。

 新しい植民地「カロライナ(註2)」では他所と同じく植民地議会や宗教の自由が約束され、哲学者ジョン・ロックの助言による「カロライナ基本憲法」も制定された。3000エーカーの土地を購入したものは「男爵」、1万2000エーカーで「首領」、2万エーカーで「地方伯爵」の称号が与えられる。議会は、領主が任命する総督と大プランターからなる「評議会」と、一般の住民からなる「代議会」の二院制である。ただし実際には代議会は承認・否決の権限を持ち常に評議会の権威を否定していた。イギリス植民地はどこでもそうなのだが、貧乏人でも自分の土地を持っていれば議会に投票出来(註3)、カロライナの領主を「貧乏人が身分ある人々を規制する法律をつくっている」と嘆かせた。さらに、「領主」クラスの大プランターの多くは本国に住んでいたため、現地の代理人に「うまくちょろまかされてしまった(アメリカの歴史?)」ことから植民地経営は儲けが少ないと考え、意欲を失ってしまうのである(前掲書)。

 註2 「カロライナ」は国王の名チャールズのラテン語よみ。

 註3 本国では土地を持たない(持てない)人が多かった。植民地では何度も言うように土地の取得が容易である。

 まあそれはもっと先の話として、カロライナへの本格的な植民は1670年から始まった。本国からやってきた100人をかわきりに、カリブ海バルバドス島の狭い面積で土地を得る見込みがなくなった年期明け奉公人等々が集まって「チャールズタウン(チャールストン)」を建設した。材木や毛皮、周囲のインディアン同士の戦争で出た捕虜を買い取って他の植民地に奴隷として売り飛ばすのが最初期のこの町の産業であった。植民者は未来の大プランターを夢見、カリブ海から黒人奴隷をつれてやってくる者もいた。称号を持つ大地主は約40人であった。

 それとは別に、カロライナ植民地の北部にはヴァージニアの年季明け奉公人や自作農が入り込み、海岸部のアルベマール湾地域にて小農民が多数を占める社会を形成した。彼等の産品は主に煙草で、海岸に小船で乗り付けるニューイングランド商人によって海外へと輸出された。ここはカロライナの首都から非常な遠隔のため独自の議会がおかれ、やがては独立した植民地「ノースカロライナ」として「サウスカロライナ」と異なる道へと進むこととなる。

       

   第三次英蘭戦争  (目次に戻る)

 さて、「第二次英蘭戦争」がフランス軍の南ネーデルランド侵入によって中断されたこと、オランダが素早くイギリスと同盟してフランスに圧力をかけ撤収に追い込んだこと、それがもとでフランスは強くオランダを恨んだことは既に見た通りである。フランス国王ルイ14世はイギリスのチャールズ2世に美女を贈って篭絡し、さらに莫大な賄賂を注ぎ込んで70年に「ドーヴァー条約」を結ぶに至った。これはイギリスに年間30万ポンドを与えるかわりにルイ14世の対オランダ戦に協力させるというものである。

 1672年3月、英仏海峡を航行中のオランダ商船が突如イギリス艦隊を攻撃を受けた。イギリスはこの時オランダ船が抵抗したことを理由として三たびオランダに宣戦した。「第三次英蘭戦争」の勃発である。言うまでもなくフランスがイギリス側に立って参戦し、フランス陸軍十数万がオランダ国内へと侵入した。しかし両国とも内心あまり同盟国を信じておらず、特にイギリス議会はチャールズ2世が独断で宣戦したことに不満であった。この頃の議会は国教徒が優勢であるが、チャールズ2世は裏でカトリックを信じていてその意味で同じ宗教のフランスに近く、対蘭宣戦と同時にカトリックとプロテスタント(ここではピューリタンのこと)への統制(註1)を緩和する「信仰自由宣言」を発布して国教徒を不安がらせた(註2)

 註1 「王政復古」でピューリタン政権が打倒されて国教会が優勢になったため、ピューリタン及びカトリックが圧迫されていたのである。

 註2 もしカトリックとピューリタンが優遇されると国教会の立場が悪くなるから。

 戦地はフランス陸軍の快進撃で幕をあけた。ドイツ方面からはルイ14世に買収されたケルンとミュンスターの司教(註3)の軍が国境を越え、東西と海を敵に囲まれたオランダは危機的状況に陥った。これまでオランダの指導的立場にいたホラント州首相(註4)デ・ウィトはかような事態に立ち至った責任を追及され、市民の暴動にあって惨殺された。相対的にデ・ウィトの政敵オラニエ家を待望する世論が急上昇し、各州はこの年わずか21歳のウィレム3世をオランダ総督(註5)に選出した。

 註3 司教といっても単なる坊さんではなく、広大な領地を持つ、実質的な一国の君主である。ドイツとその周辺は「神聖ローマ帝国」という国に支配されていたがその支配力が弱くて有力貴族の割拠が著しかったことは既に述べた通りだが、1648年の「ウェストファリア条約」によってさらに彼等は独自の立法・課税・外交権まで認められるに至っていたのである。

 註4 正確には州の「法律顧問」という役職である。大商人の支持を集めて地方分権的な共和政体を目指していた。ホラント州は経済的に他の州に優越していたことからその首相がオランダ全体の大商人の代表ともいうべき扱いを受けていた。

 註5 「総督」とは本来は「ネーデルランド(オランダ)連邦共和国」における各州の軍事指揮官のこと。「ホラント州首相」を中心とする大商人の支配に不満な中小商人や農民の支持を集め、中央集権的な国家体制の整備を目指す傾向が強かった。16世紀のオランダ独立戦争の際に活躍したオラニエ家がほとんど独占的に各州の総督職を握り、ホラント州首相と激しく抗争していた。

 ウィレム3世は強気の攻勢策をとった。6月7日、デ・ロイテル提督に率いられたオランダ艦隊がイギリス東岸ソールベー沖で英仏連合艦隊と相対した。オランダ艦隊は90隻、英仏艦隊はヨーク公(ニューヨークをもらった人)の指揮下に95隻である。この「ソールベー沖の海戦」ではオランダ艦隊は敵艦隊を海岸へと圧迫してその座礁を目論んだがなかなかうまくいかず、それよりも小型船に火をつけて放つ焼討ち作戦が結構な威力を発揮した。1588年の「アルマダ海戦」ほど派手な戦果はあがらなかったが、イギリス艦「ロイヤルジェイムズ」が全焼して指揮官の1人が戦死した。フランス艦隊は〜陸軍は派手に戦っていたが〜あまりやる気がなく(註6)、結局英仏艦隊は夜に紛れて退却した。

 註6 そもそもルイ14世が海軍に関心がない。それどころか間違った指令を出して勝利を逃がしたこともある。

 しかし陸ではフランス軍の快進撃が続いていた。ウィレム3世は堤防を決壊(註7)させてフランス軍を分断し、艦隊をもってこれを各個撃破しようとした。しかし大局としてはフランス側の優位は揺るがない。

 註7 オランダは海沿いの低地が国土の大半を占める。オランダは古くから堤防をつくり海を干拓して国土を広げてきた。その堤防を切ったのだからこれは大変な決意である。この作戦は「オランダ独立戦争」最中の1574年にやはりオランダの指導者だったオラニエ公ウイレム1世(3世の先祖)によっても行われている。

 翌73年8月21日、英仏艦隊120隻が姿をあらわした。迎撃に出動したオランダ艦隊は80隻、指揮官は今回もデ・ロイテル提督である。縦陣を組んで進撃する英仏艦隊の左舷側に、横陣を組むオランダ艦隊の船首が一斉に突っ込む態勢である。風上はオランダ艦隊がとっている。オランダ艦隊右翼隊が英仏艦隊後衛を足止めし、そのまま前進する英仏艦隊前衛と主力をオランダ艦隊左翼隊が分断した。やはりフランス艦隊は戦意に乏しく、12隻を大破されたイギリス艦隊は今回も夜に至って退却した。ウイレム3世はさらに神聖ローマ皇帝レオポルド1世を味方に引き込んだ。レオポルドはフランスの強大化を恐れていた……この辺の話は書かない……フランスの主敵はオランダから神聖ローマ皇帝にすり替えられた。

 ちょうどこの頃の北米では、8月7日にオランダ艦隊がニューヨークを攻撃し、1600人の陸兵でもってこれを占領、いや奪回した。海戦で痛打を受けたイギリスはそもそも今回の戦争にかんしてはフランスの口車にのっただけであり、74年2月にオランダと「ウェストミンスターの和約」を結んで戦線から離脱した。立場的にはまだフランスと戦闘中のオランダの方が不利であり、ニューヨークからの撤収、賠償金の支払い、貿易上の譲歩等を飲まされたのであった。オランダはその後もプロイセンやスペインを味方につけての対フランス戦を続行し、78年になってようやく講和を実現した。フランスはオランダに占領地を返還したがドイツやスペイン方面において大きな領土を獲得した。オランダの誇る名将デ・ロイテル提督はフランス艦隊との戦いにおいて戦死を遂げていた。

 かように、オランダ人は戦場では極めて意気軒昂たるものを持っていた。しかしその経済は既に限界に達していた。オランダの経済は都市部の大商人による中継貿易偏重であり、相次ぐ戦争で貿易が途絶したりするのは全くもって致命的な打撃であった。しかもイギリス等がオランダの中継ぎによらず自分で貿易を始めたことがさらにオランダ経済の衰退に拍車をかけていくのである。

   

   カリブ海植民  (目次に戻る)

 ここで話の舞台をかえて……もうあちこち飛びまくってるけど……北米植民地と極めて深い関係を持つカリブ海の島々の様子を見てみよう。

 かなり前の話だが、ウォルター・ローリー卿がベネズエラからギアナへの黄金探しの植民をはかって失敗したというエピソードを思い出して頂きたい。ジェイムズ1世はこの試みにあまり積極的に賛成しようとはしなかった訳だが、ローリー卿以外の人物による、煙草栽培のための南米植民計画が認可されたことは何度かあった。例えば1604〜6年と1609〜12年のギアナ植民がそれで、両者とも酷暑と風土病のため壊滅してしまっている(27年にようやく軌道にのる)。

 その一方でジェイムズ1世はブラジルのアマゾン河流域に植民するという計画にも勅許状を下していた。アマゾンには以前からイギリス船が入り込んでおり、小さな植民地がいくつか建設された。

 1622年、それまでアマゾン河流域にいたイギリス人トマス・ウォーナがカリブ海の小アンティル諸島サン・クリストバル島に来航した。ここは形式的にはスペイン領であったが実際には放置状態であり、島で6ヵ月過ごしたウォーナは一旦本国に戻って(国王の許可を得ないまま)煙草栽培の仲間を20人ほど連れて来ることにした。23年、島に砦を築いたイギリス人たちは現地民のカリブ族と戦闘になり(註1)、たまたま島にやってきたフランス船(実は海賊船)の船長に「島を分割しよう」といって味方につけて防備を強化した。島は「セント・キッツ島」に改名された。

 註1 カリブ族を酒宴に呼んで油断させた所を攻撃したのだという。

 25年9月、煙草栽培を軌道にのせたウォーナは、この年即位した国王チャールズ1世からの正式の植民地建設許可を得た。チャールズ1世は外交政策を大転換してスペインとの戦争を発動しており、8月にはスペイン本土攻撃のための艦隊派遣まで行っていた(失敗した)。

 それはともかくカリブ海のイギリス植民地はセント・キッツの南の無人島バルバドスにも建設され、29年までに年季契約奉公人を中心として両島あわせて約5000人が植民した。その29年にはセント・キッツ島にスペイン艦隊がやってきて煙草畑を焼き払ったが、住民には危害を加えなかったため、畑の方もすぐに回復した。ただし、はるか南のアマゾン河流域にいたイギリス人は、31年までにポルトガル(註2)によってすべて追放された。

 註2 1580〜1640年の間、スペイン国王がポルトガル国王を兼任していた。

 一方、フランスのカリブ海への進出は前述のセント・キッツ島の分割から開始されている。ピエール・デュナンビュクが本国の宰相リシュリューから植民地設立公書を得たのが1625年、その後のカリブ海におけるフランス植民地の拠点となるマルティニーク島とグアドループ島に植民地を建設したのが35年である。イギリス領の島では土地は入植者個人個人で取得していたが、フランス領では大貴族が広大な土地を獲得してそれを植民者に払い下げるという方法をとっていた。最初は煙草を栽培していたがイギリス植民地産のものに負けたために砂糖キビに切り替え、その結果、製糖場を持つ一部の大プランテーション(註3)に土地が集中した。労働力には主に黒人奴隷が用いられ、1700年には現地人口の3分の2が奴隷によって占められるに至る。フランスの記録では奴隷は農繁期には1日18時間の労働を強いられ、いくらでも補充がきくことからその死亡率にはまったく注意が払われなかったという。

 註3 煙草の栽培や製品化にはそれほどの技術を必要としない(手間はかかる)が、砂糖は大変である。

 ただ、イギリス領の島でも煙草をつくり過ぎたことから価格が下がってしまい、やはり砂糖キビへの転換がはかられた。この頃の世界最大の砂糖生産地はポルトガル領ブラジルだが、1624〜54年にかけてオランダ人が侵入して砂糖生産を行い、結局ポルトガル勢に負けてイギリス領やフランス領に逃げてきた彼等が製糖技術を伝授したのだという(略奪の海カリブ)。

 ともあれイギリス領の島でも大プランテーションが発展し、プランターが贅沢な生活を楽しんだ。ここも当初はヴァージニアと同じく年季契約奉公人が導入され、特にピューリタン革命の際に大量の反革命派(特にアイルランド人とスコットランド人)が奉公人として流されてきた。彼等は所定の年限がすぎれば自由になるという以外は奴隷とかわらず、「ここは世界中で最も富裕な所のひとつだが、同時にイギリスが、屑を捨てる糞だめでもある」とすら言われていた。また、砂糖を用いてラム酒が製造されたが、島では酒乱が横行し、外部から来た商人に「この島で彼等の泥酔の元凶となっているのはラム酒、別名、悪魔殺しだ。これは砂糖きびを蒸留してつくられる、強烈で、極悪で、恐ろしいアルコール性飲料だ」と書かれる有り様である。

 その後のカリブ海イギリス植民地での労働力が白人奉公人から黒人奴隷にかわっていったのは、大プランテーションで必要な大量の労働者を得るには、本国で奉公人を募集するよりも、奴隷船が運んでくる大量の黒人を一括購入するほうがてっとりばやかったからだと考えられている。 

 また、オランダも1630年にはサンマルタン島に、32年にはトバゴ島に植民した。主なる産業は製塩で、北大西洋でとれる鱈の保存に利用した。

 54年、共和政時代のイギリス本国にてカリブ海のスペイン植民地奪取のための「西方計画」が発案され、ペン提督の艦隊と2500の陸兵がバルバドス島に派遣されてきた。現地で5000人の男たちを徴募したイギリス軍はひとまずエスパニョーラ島を攻略したがこれは無惨な失敗に終ってしまう。上陸地点がスペイン陣地から遠すぎた上に上陸軍と艦隊との連携が上手くいかず、通報を受けて駆けつけてきたスペイン騎兵隊に蹴散らされてしまったのである。おまけに疫病と大雨とで総計1000人の死者が出た。

 このままでは本国に申し訳が立たない。イギリス軍は防備の乏しいジャマイカ島を新たな目標に定め、今度は全く戦死者をださないままこれを占領した(註4)。これが54年5月のことである。イギリスの別の艦隊はスペイン本国のカディス港に入ろうとしていたスペイン輸送船団を襲撃し、植民地から運んで来たお宝を根こそぎ奪い去った。

 註4 ただし、ゲリラ戦はその後数年継続した。

 スペインは完全にやられ役に転落し、70年にはイギリスによるジャマイカ領有を認めることになる(マドリード条約)。同じ年にはバハマ諸島もイギリス領に編入された(註5)。「マドリード条約」ではカリブ海に巣食いスペイン植民地を襲うイギリス人の海賊に対しイギリス植民地当局が肩入れすることを禁じていたが、これには1年間の猶予があり、その間に海賊ヘンリー・モーガンがパナマ市を攻略して徹底的な破壊を行った。一方フランス人もトルトゥーガ島やサント・ドマング島西部へと植民地を拡大する。スペイン本国はその植民地が他国と貿易するのを厳しく統制していたが、そのせいでかえってスペイン植民地の住民は英仏蘭の植民地との密貿易を歓迎し、イギリス人等の海賊がスペイン船から奪った商品をスペイン入植者に売り捌くという無茶苦茶な無法行為が堂々と行われていた。昔はカリブ海といえばスペインの海だったのが、17世紀末頃にはその支配にとどまっているのはキューバ島にプエルトリコ島、サント・ドマング島の東部だけになってしまったのである。

 註5 ここはその後も長い間海賊の巣窟となった。

 そして次の舞台は北米のヴァージニア植民地、時代は「王政復古」のしばらく後である。

   

   ベーコンの反乱  (目次に戻る)

 ヴァージニア植民地では、沿岸部の大半は大プランテーションによってほほ独占され、年季の明けた貧しい白人はそれに押し出される形で西部のインディアンの土地へと入り込んでいた。ヴァージニアの沿岸部は川や湾が入組んでおり、大プランテーションで生産された煙草が各農園ごとの船着き場から売りに出されることは既に述べた通りだが、船が遡れない西部の上流地帯「ピードモンド」は小規模農民を主流とする世界が構築されつつあったのである(註1)

 註1 ヴァージニア東部はプランテーション中心の世界、西部は小規模農民の世界、という構図は19世紀まで持ち越される。「南北戦争」に際して東部が南軍の中心の1つとなったのに対し、西部はヴァージニア州から分離して北軍に参加し、「ウエストヴァージニア州」を組織するのである。

 とにかく自分の土地が欲しい年期明けの奉公人や西部のプランターにとって、インディアンは「害虫」であった。総督バークレー卿はインディアンの土地を保護して毛皮取引を進めようとし、さらに、王政復古の時に選出された植民地議会の議員が自分に忠実だったことから延々と会期を延長し、14年間の長きに渡って選挙をしなかった。

 1675年夏、3人の植民者がインディアンに殺害され、ヴァージニアとメリーランドから民兵が出動した。ヴァージニア隊の隊長は前に出てきたジョン・ワシントン中佐、メリーランド隊の隊長はトマス・トルーマン少佐である。後者は合衆国第33代大統領……とは残念(?)ながら関係ない。とにかく彼等はインディアンの代表と話し合いを持ち……誰の責任かは不明だが……殺してしまった。ここにヴァージニア植民地とインディアンとの大規模な戦争が出来した。

 総督バークレーは積極的な攻撃を控え、防御に徹しようとした。このことが西部のプランターや小さな農園をつくっていた年期明けの元奉公人を怒らせた。「総督は自分たちをインディアンから守ってくれない」「それはインディアンとの毛皮取引の方が大事だからだ」。2年前に移民してきたばかりのプランター(ということは西部に農園を持つ)であるナサニエル・ベーコン(註2)という人物が群集に担がれ、勝手にインディアン討伐軍を組織して大勢のインディアンを虐殺した。総督バークレー卿は最初は怒ったがベーコンの勢いを見てその行動を事後承諾し、正式に対インディアンの宣戦布告を行った。新しい議会も招集された。

 註2 哲学者・政治家として知られるフランシス・ベーコンの従兄弟。

 しかし結局総督には本気でインディアンと戦う考えはなかった。「裏切られた!」と叫んだベーコンは同調者400人を率いてジェイムズタウンに進撃、町を焼き払って総督を追い出した。ベーコンは総督を本国で裁判にかけようと考え、各地で総督派の部隊との戦いを続けたが、76年10月に赤痢に罹って死亡した。その軍隊は四散した。

 総督バークレーはベーコン派の幹部23人を処刑した。本国から艦隊と調査委員会が到着してバークレーを本国に召還した。バークレーは本国についてすぐに病死した。国王チャールズ2世はむしろベーコン派に同情を示し、「おいぼれの馬鹿(註3)めが、奴は朕の父を殺した者の処刑(註4)よりももっと多くの人を殺してしまった」と呻いたという。今回の反乱ではベーコン側に年季明け奉公人が多く参加していたため、プランターたちは年季が明ければ自分たちに対抗してくる白人の年季契約奉公人よりも、基本的に死ぬまでその身柄を拘束出来る黒人奴隷の獲得の方が大局的に都合がよいと考えるに至ったといわれている。

 註3 バークレーは70歳だった。ちなみにベーコンは28歳。

 註4 「朕の父」とは「ピューリタン革命」で殺されたチャールズ1世のこと。「父を殺した者の処刑」とは王政復古の際のピューリタンへの報復を指す。

   

   フィリップ王戦争  (目次に戻る)

 ところで、「ベーコンの反乱」の直接の契機となったのはインディアンとの土地をめぐる抗争だが、全く同じことは同時期のニューイングランドでも起こっていた。1675年6月25日、これまで土地を侵食され続けてきたワンパノアグ族の首長メタコム〜イギリス人は「フィリップ王」と呼んだ〜がプリマス植民地を攻撃し(註1)、前者はニプマック族やナラガンセット族を、後者はマサチューセッツ植民地とコネティカット植民地を引き込んでの大戦争を開始した。世にいう「フィリップ王戦争」である。おそらく宗教上の事情(ピューリタンが苦しむのは国教会としては好都合)から本国は援軍を派遣せず(ヴァージニアのベーコンの反乱の時にはちゃんと艦隊を送っている。到着したのは反乱鎮圧後だが)、ニューヨーク総督はこの機会にニューイングランドの一部を削りとろうとさえした。インディアン軍は当時90存在したタウンのうち12を破壊し40を攻撃した。ニューイングランド始まって以来の危機である。

 註1 先に攻撃したのは白人の方だという説もある。

 ただし、インディアン側の足並みも揃っていなかった。ピークォット族とモヒカン族は植民地の味方につき、そもそもフィリップ王のインディアン軍は奇襲攻撃でタウンを破壊するという以外にこれといった作戦や遠大な戦略目標といったものを有していなかった。対して植民地側の総督たちの中には本国の「ピューリタン革命」の時にクロムウェルのもとで戦った経験を持つ者もおり、11月19日には1000の兵でナラガンセット族の本営のある「恐怖の沼地」を攻撃し、2000人を殺すという戦果をあげた。この戦闘はたったの3時間でケリがついた。植民地軍はその日の朝から18マイルの雪道を歩いてここまで進軍し、その日のうちに出発点に帰っていった。植民地側の戦死者は80人、ニューイングランドの歴史中最大の激戦である(註2)

 註2 アメリカ独立戦争の時もニューイングランドではそれほどの激戦はなかった。南北戦争の戦火はここには及んでいない。

 戦闘はなおも続いたが、大局は既に決していた。76年4月3日、インディアン軍の指導者の1人カノンチェットが逮捕・処刑された。死刑の宣告に対し「それは結構だ。わしの心が挫けたり、わしに相応しくないことを言ってしまう前に、わしは死んでいくのだ」。4ヵ月後の8月12日にはフィリップ王ことメタコムが戦死を遂げた。

 「フィリップ王戦争」全体における白人の死者は約1000人。その報復として、捕虜になったインディアンは奴隷としてカリブ海植民地に売り飛ばされた。ニューイングランド南部のインディアン人口は1500人程度に落ち込んだ。敵対部族も友好部族も指定集落に押し込められ、やがては白人社会の中に埋没していったのである(註3)

 註3 ただし、メイン地方に住むアブナキ族は最後までイギリス人と互角に戦い抜き、条約を結んだ上で停戦した。彼等は後の英仏植民地戦争の際にフランスに加担することとなる。

前編その4へ戻る

その2へ進む

戻る