北米イギリス植民地帝国史 後編 その2

   

   ペンシルヴァニア  (目次に戻る)

 1681年、ウィリアム・ペンという人物が、ニューヨークの南、ニュージャージーの西、メリーランドの北に位置する地域に関する領主権を獲得した。彼の父は英蘭戦争やジャマイカ攻略にも参加した有名な海軍提督で、チャールズ2世に莫大な金を貸していた。今回の領主権はその代償であった(註1)

 註1 また、国王の側近たちは非国教徒を植民地に追放しようと考えていた。

 ペンはこの頃のイギリスで勢いを増していた「クエーカー派」の熱心な信徒であった。クエーカーは絶対平和主義で知られ、教会や聖職者や儀式を否定して王政復古後のイギリス国教会から厳しい弾圧を受けていた。軍人の1人息子であるペンは少年時代から宗教に熱心で、23歳の時に入信し、何度かの投獄も経験した。父とは喧嘩別れしていたが結局和解し、相続した財産を用いて、厳しい迫害に苦しむ同胞のための新天地の建設を北米植民地に見い出した訳である。植民地は「ペンシルヴァニア(ペンの森の国)」(註2)と命名された。

 註2 これはラテン語。国王チャールズ2世による命名。ペンは自分の名が冠されるのを嫌がったが、国王に「君の父の海軍提督を記念するものだ」とか言われてひきさがった。(アメリカの地名)

 もちろん領主権を得たとはいってもそこにはインディアンが住んでおり、開拓するにもなにをするにも彼等から土地を譲ってもらわなければならない。植民地はインディアンと条約を結び、クエーカーの名誉にかけてこれを遵守した(クエーカー以外の植民者が勝手にインディアンと戦うことはあった)。ただし、インディアンに売ってもらったのは「人間が1日半かけて行けるだけの土地」というもので、植民地側は前もって道をつくっておき、入植者の中で足が早い者3人に全力で走らせた。1人は力つきてリタイアし、1人は川に落ちて溺れ死に、残り1人が1日半の行程を走りに走ってインディアンの土地50万エーカーを獲得したのであった。「歩き(実際には走り)買い」として知られる、とても有名な詐欺のお話です。

 ペンは植民地を広く全ての宗派に解放した。彼は青年時代にヨーロッパ諸国を歴訪して各地で弾圧に苦しむ少数宗派をその目におさめており、その呼びかけに応じてアーミッシュ派(註3)・メノ派(註4)・スコッチアイリッシュ(註5)等々が到来した。その子孫は今でも祖先の教えを守ってペンシルヴァニア州に住んでいる。そのかわり、スコッチアイリッシュのような、別に完全平和主義ではない宗派の移民はペンの意志を無視し、インディアンと土地をめぐっての衝突を繰り返すこととなる。

 註3 21世紀の今日でも現代文明を基本的に拒否し、電灯のかわりにランプを、自動車のかわりに馬車を用いるといった質素な生活をおくっていることで有名。(電池は使うらしいし、バスにのることもあるらしい)

 註4 スイスのチューリヒに起こったプロテスタントの一派。兵役を拒否する等クエーカーによく似た信条を持つ。

 註5 もともとスコットランドからアイルランド北部に移住したプロテスタントの一派。イギリス国教会維持のための増税等により困窮していた。アメリカ独立戦争の時「自由か死か」と唱えて最も強硬にイギリスと対決したパトリック・ヘンリーはこのスコッチ・アイリッシュの出身である。

 ペンシルヴァニア植民地の地域には以前からいくらかの植民者が住み着いて農業を進めており、(おかげでペンシルヴァニアは)食糧に困ったりすることもなく開拓は順調に進んでいった。特にこの植民地にやってきたクエーカーの多くは既に他の植民地に入植した経験があり(そちらでも迫害されていた)、主に小麦を生産して余剰分をカリブ海の植民地に輸出した。寛大な土地配分のもと、勅許状獲得の4年後には人口9000人を数え、首都フィラデルフィア(ギリシア語で「兄弟愛」の意)は北米を代表する都会に発展した。美しい計画都市である。

   

   デラウェア  (目次に戻る)

 ところで、ペンシルヴァニア植民地には「低地3郡」と呼ばれる大西洋沿岸地方が含まれていた。ここは1638年にスウェーデン人が建設した植民地「フォート・クリスティナ」によって最初の(白人による)開拓が始められ、55年にオランダ植民地に敗れて(註1)その領土に併合され、ついでイギリス植民地ニューヨークの一部、さらにペンの植民地の一部へと目まぐるしくその主人を変えていた。しかしスウェーデン人の入植者は完全に根付いてしまっており、ペンシルヴァニアの当局に頼み込んで1704年には別個の植民地議会を持つに至った。「デラウェア植民地」の起源である(ただし総督職はペンシルヴァニア総督の兼任)。「デラウェア」とは初代ヴァージニア総督デラウェア卿にちなむ命名で、最初は湾のみを「デラウェア湾」と呼び、後に近くの川を「デラウェア川」と呼び、やがてこの地域全体を「デラウェア」と呼ぶに至ったのである。もちろんスウェーデン人やオランダ人は違った名で呼んでいた。もうひとつ余談、スウェーデン人は本国から丸太小屋を持ち込んでおり、これが北アメリカの開拓地における最も一般的な住居となったのである。

 註1 1655〜60年にスウェーデン・デンマーク間に行われた戦争に際してオランダがデンマーク側に加担したのである。ちなみにかのデ・ロイテル提督もスウェーデン軍と交戦した。戦争そのものはスウェーデン国王が急死したため休戦した。この戦争は「北方戦争」と呼ばれ、もっと有名な1700〜21年のスウェーデン・ロシア間の「北方戦争」の方は「大北方戦争」と呼ぶことが多い。

   

   ドミニオン・オヴ・ニューイングランド  (目次に戻る)

 

 当時のヨーロッパ諸国の経済政策の基本はいわゆる「重商主義」に置かれていた。これはつまり、外国製品の輸入を極力おさえた上で国内の産品をなるべくたくさん輸出する、というものである。ここではまず植民地貿易から他国の商船を排除(註1)し、植民地の産品を本国経由で他国に輸出、植民地で必要とされる物資は本国のものを買わせる、という方策がとられることになる(註2)。この点で最も本国の望みにかなっていたのはヴァージニア等の煙草植民地、及びカリブ海の砂糖植民地であって、そのような商品作物を欠くニューイングランド植民地は最初あまり本国の注目を受けていなかった。それから、本国で生産される重要品目、例えば羊毛製品や帽子や靴は植民地で生産してはならないとされていた。これはもちろん本国の産業を保護するためで、植民地が外国製品を入手する場合に際しても、本国の税関を通ったものしか買ってはならないのである。輸出に際しても、煙草や米は本国にしか売ることは出来ないとされ、つまりこれは本国からの植民地に対する収奪以外の何者でもない。人口が増えて色々な産業が発展してきた植民地は、もっと手広く商売し安く買い高く売りたいのであって、本国の利益のみを考える「重商主義」は大きな足枷となりつつあったのである。

 註1 つまりイギリス商船のみにイギリス本国〜イギリス植民地の貿易を独占させるのである。イギリス植民地の船舶もイギリス船としとて扱われ、これのおかげでニューイングランドの造船業が大いに発展した。

 註2 もちろん色々と抜け穴がある。

 対して、ヴァージニアあたりは自前の船がないので基本的に商品の売り買いを本国商人に頼むしかない(もちろん他国の密輸船が来ることもある)のだが、ニューイングランド商人とかは平気な顔で密貿易を続けていた。

 1677年、「フィリップ王戦争」の後始末にかかろうとしていたマサチューセッツ植民地に、イギリス本国からエドワード・ランドルフ卿という収税官が着任した。昨今のニューイングランド諸植民地は密貿易が著しいとのランドルフ卿の詰問に「当地における国王陛下の臣民は(本国の)国会に代表を送っていません。従って我等は、我等の貿易に関して国会の制約を受くべきものとは考えていないのであります」。正論だが結果は当然のように無視である。

 次の段落だけちょっと話がそれるが御容赦のほどを。

 プリマス植民地や創設当初のマサチューセッツ植民地の上部団体であった「ニューイングランド評議会」は、1622年にジョージ・メイソン卿とフェルナンド・ゴージス卿という2人の貴族に現在のメイン州とニューハンプシャー州に相当する地域を与えてこれを開拓せしめていた。このうちメイソン卿の出身地名をつけたのが「ニューハンプシャー植民地」である。ニューハンプシャーは1635年に放棄されるがかわりに南からマサチューセッツ植民地の主に反体制派が移住してきてタウンを建設した。もちろんマサチューセッツはこの地域の領有権を強硬に主張していたが、ニューイングランドへの統制を強めた本国政府はここを1680年にマサチューセッツから独立した王領植民地として承認し、つまり具体的にマサチューセッツの勢力を弱める工作に出たのである(註3)

 註3 ゴージス卿が開拓したのが「メイン植民地」である。メインの語源は英語の「continent(大陸)」という意味で「mainland(本土)」という語を用いたという説、フランスのメーヌ県という地名を持ち込んだとの説があり、どちらが本当かは不明である。メインはたいして植民が進まないままマサチューセッツに買収されてしまい、1820年までその一部であった。1820年当時の合衆国では南部の「奴隷州」と北部の「自由州」の対立が激しく、南部に新しく出来たミズーリ州を奴隷州として認めるかわりに自由州マサチューセッツの一部をさいて「メイン州」を創設したのである。

 そして84年、本国はマサチューセッツの勅許状を剥奪し、同じく勅許状を取り上げたロードアイランド・コネティカット・ニュージャージーとひっくるめて1人の総督が支配する王領植民地「ドミニオン・オヴ・ニューイングランド」に再編した。ちょうどこの頃はフランスの勢力がカナダからミシシッピー河流域へと拡大しつつあった時期(後述)であり、本国としては経済面での引き締め以外にもフランス植民地に対する防備面での再編成という思惑が存在した。ドミニオン総督アンドロス卿はピューリタンの町であるボストンに国教会の礼拝を持ち込んで憤激を巻き起こし、タウンの自治を禁圧した。それまで植民者に対する課税は植民者代表の総会によって決定されていたにもかかわらず、総督アンドロスはこれを行政命令として行った。ニューイングランドは暴動寸前の状態となった。

   

   ヌーヴェル・フランス  (目次に戻る)

 北アメリカ大陸のフランス植民地は「ヌーヴェル・フランス(新フランス)」と総称される。1604年にポート・ロワイアルが、8年にケベックが建設されて現在のカナダ地域への植民が始まったことは既に述べた通りである。ケベック総督シャンプランはセントローレンス河流域の毛皮産地の確保に全力を尽くす方針をたて、商品作物の栽培といったことには一切目を向けなかった(気候的に無理という事情もある)。フランス植民地の防備や規模は全く微弱なもので、1628年までは農耕すらしておらず、毛皮もヒューロン族やモンタネ族を通して入手していた。しかし毛皮の確保にしても本格的にやろうと思えば恒久的な交易拠点がいくつも必要な訳であり、そのための農業(食糧確保)の必要性が考えられるに至ってきた。

 フランス植民地は「百友会社」という組織によって運営されていた。この会社はオランダ植民地やイギリス領のメリーランドと同じく、一定数の植民者を用意した人に、領主としてそれ相応の土地(農地)を与えるという制度を導入した。領主の下で小作人として働く植民者たちから地代を徴集し、たまに領主のための奉仕活動をさせるのである。

 しかし、農業の振興はさっぱり進まなかった。若者たちは奥地でのビーバーの毛皮の採集に夢中な「森の放浪者」と化し、冬の間カヌーを操って狩りや罠かけをしてまわり、春になると山のような毛皮を抱えて町に戻ってきた(註1)

 註1 ただし、イギリス人も現カナダ地域の毛皮に無関心だった訳では決してない。1670年にハドソン湾沿岸に「ハドソン湾会社」を設立し、そこから熱心に毛皮採集にあたっていた。

 それから、フランス植民地にやたらと多かったのがカトリックの僧侶である(註2)。彼等は熱心にインディアンへの布教を行った。これは相当な成功をおさめて多くのインディアンをフランス贔屓に染めることが出来た。しかもフランス人は農業に不熱心だったことからイギリス人のようにインディアンの土地を侵食することがなく、おかげで周囲のインディアンと結束出来たフランス植民地は人口的な劣勢にもかかわらずイギリス植民地との互角の戦いを続けることが可能となるのである。ま、それは後世の話。

 註2 この時点のフランス本国ではプロテスタントも認められていたのだが、ヌーヴェル・フランスにおいてはカトリックの絶対優勢で、初期にかなりいたプロテスタントは追放・処刑されてしまう。

 フランス本国では1643年にルイ14世が即位した。ルイはまだ5歳の子供であり、摂政のマザランが国政を主導した。マザランは後世「我々の艦隊を港で腐るにまかせた」と言われるほど海軍や海外植民地に興味がなかった。

 しかしケベック植民地は、同時期のヴァージニアやマサチューセッツほど頑丈ではなく、一人歩きをするには早すぎる状態であった。まず、この頃ニューヨーク(ニューアムステルダム)を支配していたオランダと結ぶインディアンがいくらかいる。ニューヨークの西にいるイロクォイ連合(註3)はオランダ植民地との同盟を固く保持し、48年にはオランダ人から買った鉄砲の威力のもとに親フランスのヒューロン族を征服、そこにいたフランス宣教師を殺害した。これは白人と取引きする毛皮産地を確保するための動きであり、「ビーバー戦争」と呼ばれている。イロクォイ連合の勢力はセントローレンス河に達し、フランスの毛皮輸送ルートを断ち切ってしまった。フランス人17人(とインディアン5人)の遠征隊がイロクォイ軍700人と戦って全滅するという事件も起きた。

 註3 16世紀はじめ頃に結成された5部族の連合体。

 1661年、本国で摂政マザランが亡くなり、国王ルイ14世の親政が始まった。ルイは財務長官コルベールとともに植民地の活性化に乗り出した。63年、フランス本国政府はヌーヴェル・フランスを王領植民地に改変し、65年に初代軍政総督としてトラシー侯爵を送り込んできた。彼は移民としてカリニャン・サリエール聯隊1100人を伴っており、国王からの持参金付きで送られてきた「国王の娘」たちとの結婚を斡旋した。現在のフランス系カナダ人の多くは、自分たちはこの「国王の娘」と兵士の幸せな結婚から生まれてきたと主張しているのだそうだ。

 イギリスと同じく……いや、こっちの方が本家か……フランスの経済政策も「重商主義」に立っていた。フランス植民地産の毛皮を保護するために他国の毛皮に高率の関税を課し、国内のものになりそうな産業を特権的に保護して国際競争力をつけさせた。しばらく放置状態にあった海外植民地の改革を行ったのもそのためである。これは当然イギリスとの衝突を招くことになり、そもそもオランダと戦った理由の1つもこれである。まあ現段階のイギリス国王チャールズ2世は親フランスなのだが……。

 66年、フランス植民地軍と友好的インディアンからなる1300人の軍勢がイロクォイ連合の勢力圏へと遠征し、大した戦果は得られなかったものの敵の動きをその後20年間に渡って封じることに成功した。フランス人はその後ミシシッピー河の流域にまで入り込むことになる。

 その点で最も活躍したのがロベール・カヴァリエ・ド・ラサールである。彼はまず79年に五大湖周辺を探索し、81〜82年の探険ではインディアン諸族と友好関係を結びつつミシシッピー河の船下りを行った。82年4月9日には彼はミシシッピー河口、つまりメキシコ湾に到達し、ミシシッピー河及びその支流の全流域の占領を宣言した。国王ルイ14世の名にちなむ「ルイジアナ」の誕生である。もちろんこれは現在の合衆国ルイジアナ州だけではなく、合衆国の中部二十数州にまたがるとてつもなく広大な地域である。報告を受けたルイ14世は最初、そんなものを貰っても仕方がないと思ったが、ちょうどこの頃敵対していたスペインの植民地を牽制するのに便利ではないかと考え直し、ラサール本人に艦隊を与えて改めてミシシッピー河口を確保させたのであった。

 ヌーヴェル・フランスでは、植民者たちは自分たちの代議機関といったものを持つことは一切なかった(註4)。本国ですら、議会(三部会)は1615年をもって停止されていたのであり、これはイギリス植民地・本国との大きな違いであった。イギリス植民地では禁止されていた拷問も情け容赦なく行われ、そのうち宗教の自由も存在しなくなる。本国政府はどちらかといえばヨーロッパでの勢力伸長に力をいれており、それらの理由からフランス植民地は移民を惹き付ける魅力というものが薄かった。1672年の時点で、ヌーヴェル・フランスの植民者人口はたったの8000人にすぎなかったのである。

 註4 スペイン植民地では地方都市の市参事会に関しては土地所有者の選挙によって選出されていたが、本国の財政難によって植民地への締め付けが強化されたこと等から任命・競売制に変化していった。

その1へ戻る

その3へ進む

戻る