北米イギリス植民地帝国史 後編 その3

   

   カロライナの奴隷制  (目次に戻る)

 1685年、フランスのルイ14世が「ナントの勅令(註1)」を廃止し、国内のプロテスタントを圧迫した。プロテスタントは主にドイツ諸国に亡命したが、かなりの数が北米のイギリス植民地へと渡ってきた。特に南部のカロライナ植民地は彼等を歓迎し、フランス流のオリーブや葡萄の栽培法を熱心に学ぼうとした。既に述べたごとくカロライナ南部には男爵とか地方伯爵とか名乗る大土地所有者が建設当初から存在していたが、プランテーションにて色々な作物を試した彼等は90年頃から米に目をつけた。白人入植者は米に関する知識をほとんど持たなかったが、黒人奴隷の中に(アフリカの)ガンビア川流域の米作地帯出身の者が多数おり、おかげで(新世界への挑戦)カロライナ南部には大量の黒人奴隷を用いた米作プランテーションが発達することとなった。米作には人手がかかるため、1708年にはカロライナ南部の黒人人口は白人のそれを上回り、20年には倍となった。ただ、米作の行われる低地の湿地帯では夏になるとマラリアが流行ったため、地主たちは農場を(場合によっては黒人の)管理人に委せてチャールストンの町へと避難した。チャールストンでは少数の大プランターが劇を楽しみ、北米で一番と称される社交界を満喫した。この社交性はフランスのプロテスタントが持ち込んだのだという(アメリカの歴史1)。

 註1 1598年にアンリ4世が発布した勅令。フランス国内のカトリックとプロテスタントにほぼ平等の権利を与えるとのもの。

 その一方でカロライナ北部はあいかわらず小農民の世界が続いていた。南部の首都チャールストンと北部の中心アルベマールは地理的に離れ過ぎている上に社会構造の違いから利害がまるで一致せず、1691年にアルベマールに副総督設置、1712年には完全に別個の植民地となった。現在に続く「サウスカロライナ」と「ノースカロライナ」の分離である。 

 イギリスの奴隷貿易は一応は1672年に設立された「王立アフリカ会社」の独占のもとに置かれていた。これは1712年に解除されたが、それ以前でも密貿易が絶えなかった。別に白人のハンターがアフリカの黒人を拉致して連れてくるとかそんなんではなく(なかった訳ではない)、西アフリカ沿岸部の黒人王国に代償を払って正規に買い取るという方式がとられていた。奴隷として集められるのは、黒人国家同士の戦争で捕虜になった人、犯罪人、負債を返済出来ずに収監された人、等々であった(註2)。奴隷船に詰め込まれた黒人の悲惨さは今さらいうまでもないが、西アフリカの商館に在駐する白人の奴隷商人が現地の風土病に罹って死ぬ確率はなんと90%にも達していたという(新世界への挑戦)。奴隷船内で黒人が反乱を起こすことも多々あり、白人にとっての奴隷貿易は大儲けが望めるだけにリスクも極めて大きいものがあったという訳だ。

 註2 当時の西アフリカにおける黒人国家はかような奴隷貿易を促進・管理することによって中央集権化を押し進めたのである。

 ペンシルヴァニア以北の植民地でも、黒人奴隷はいなかった訳では決してなく、特にニューヨーク市では人口に占める黒人率は10%を越えていた。しかし、それ以外の北部植民地ではそもそも大プランテーションが存在しないことから奴隷労働もほとんど必要なく、少数が家庭内の召使として用いられていたにすぎなかった。この、北部植民地と南部植民地の社会の大きな違いが、19世紀後半の合衆国において「南北戦争」という形で衝突することとなるのである。

 それから、フランスにおける「ナントの勅令廃止」はイギリスには有利に働いたがフランス自身にとっては大変な失策となった。プロテスタントの商人や職人が大量に国外へと流出し、フランスの国力を大幅に減退させてしまったのである。何十年か前にイギリスで迫害されたピューリタンは植民地へと逃れ、当時のイギリス国王は植民地を「辺境の流刑地」くらいに考えて好きなようにやらせていたが、もはや植民地に対する認識はガラリと変わり、そもそもフランス国王ルイ14世は植民地といえども自分の国土にプロテスタントが存在するのを許しはしなかった。

 にもかかわらずルイ14世の宮廷は奢侈を極めて赤字が累積し、重商主義経済のチャンピオンで「大理石の人」と言われた財務総監コルベール(註3)は83年にこの世を去っていた。第二次英蘭戦争に苦戦するイギリスを間接的に救った南ネーデルランド侵入(ネーデルランド戦争)、第三次英蘭戦争に連動して行われた対オランダ戦「オランダ戦争」はともに莫大な出費を要求し、さらにヴェルサイユ宮殿の建設が二十何年にも渡って延々と続けられていた。67年には7万しかいなかった軍隊は88年には29万に増えていた。「陛下、どうか私に次のことを言わせていただきたい。戦時であれ、平時であれ、陛下は支出の決定にあたって、いまだかつて財政のことを考慮されたことはない」。「太陽王」ルイ14世に対してコルベールが述べた言葉である。そして、この国はこれからイギリスとの長く厳しい戦いへと突き進んでいく。

 註3 朝の5時半から机に向って「食卓に向う美食家のように」政務に没頭し、近寄り難い冷たい雰囲気から「大理石の人」と呼ばれていた。

   

   名誉革命  (目次に戻る)

 1685年、イギリス本国でチャールズ2世が亡くなり、弟のヨーク公が「ジェイムズ2世」として即位した。彼は公然たるカトリックであり、宗教上の寛容を強調して、イギリス宗教界の主流である国教会と激しく対立した。ピューリタンは国王の寛容政策の恩恵にあずかりつつもカトリックの復権には断固反対であった。ちょっと御都合主義がすぎるように見えるが、この年フランスのルイ14世(カトリック王)が「ナントの勅令廃止」でプロテスタントを弾圧したことから見ても、カトリック王は信用出来ないと思われたのである。

 ジェイムズ2世には王子がおらず、かわりの王位継承予定者である王女のメアリはオランダ総督オラニエ公ウイレム3世と結婚(註1)してそちらのプロテスタントに染まっていた。その意味で彼女はピューリタンに近いが、イギリス王に即位した場合にはカトリックを弾圧はしないが要職につけるつもりもないとして、この頃激しくカトリックとやりあっていた国教会を安心させた。その辺の事情はメアリの夫ウイレムもよく理解していた。ウイレムにとってイギリスは英蘭戦争の宿敵だが、イギリス国教会もオランダ(カルヴァン派)と同じようなプロテスタントの一派であり、ここで仲直りしてカトリックのフランスに対抗するべきである……。

 註1 チャールズ2世が親フランス政策(親カトリック政策)をとって議会(国教会優勢)の機嫌を損ねたため、姪のメアリをプロテスタントと結婚させてバランスをとろうしたのである。

 88年6月、それまで男子がいなかったジェイムズ2世(55歳)に皇太子が誕生した。しかしその出生には疑惑があり、生まれた現場にはカトリックしかいなかった。国教会や政界の有力者の間に謀議がもたれた。ジェイムズ2世は強力な軍隊を抱えており、これに対抗出来る有力者が探された。

 6月30日、オランダ総督オラニエ公ウイレム3世にイギリス上陸が要請された。宗教寛容を唱えつつも自身はプロテスタントであり、フランス(カトリック)と戦うウイレムは反ジェイムズ戦線の旗頭として理想的であった。

 11月5日、オランダ軍1万2000人を引き連れたウイレムがイギリス本土に上陸した。ジェイムズ2世が直ちに出陣したが、その軍勢はもはや主人を見限っていた。ジェイムズが軍幹部に登用したカトリックにはアイルランド出身者が多く、その部下にされたイギリス(イングランド)人(その大半は国教徒かピューリタン)の不満が高まっていたのである。

 12月末、ジェイムズ2世はフランスに亡命した。ロンドンに入ったウイレムは新しい議会を招集し、その議会は様々な議論の末に、ウイレムとその妻メアリを共同統治者としてイギリス王位に迎えることを決定した。

 2月13日、ウイレムとメアリはホワイトホール宮殿にて戴冠し、名前を英語読みに改めて「ウィリアム3世」&「メアリ2世」として共同でイギリス・オランダに君臨する運びとなった。これが「名誉革命」である。

 

 この報は89年4月4日になってようやく北米植民地に到着した。どのような謀議がもたれたのかは今もって不明だが、ニューイングランドの中心たるボストンにて市民が一斉に蜂起し、ドミニオン総督アンドロス卿を逮捕・投獄した。「アメリカの名誉革命」である。市民はウィリアム&メアリを熱狂的に支持し、ドミニオンにおいて閉鎖されていた植民地議会と以前の総督、さらにタウンの自治が復活した。が、91年に改めて下された勅許状では総督職は住民の選挙ではなく国王の任命によるものとされ、参政権も教会員資格から財産資格へと変更されていた。前者はともかく後者はむしろ時代の変化に沿うもので、初期ピューリタン植民地の宗教的情熱は世代を経るごとに段々と薄れてきていたのであり、以後は「正義への情熱と世間的成功への欲求の間で永遠に引き裂かれている(アメリカ人の歴史)」ヤンキー(註2)植民地へと移り変わっていくのである。

 註2 「ヤンキー」は、マサチューセッツに居住していたインディアンが、イギリス人を意味する英語のEnglishもしくはフランス語のAnglaisを訛って発音したのが語源とされている。最初はニューイングランド生まれの人を指していたが、後には北部人一般、さらにはアメリカ(合衆国)人全体を指す語となった。

 ついでに、この時プリマス植民地のマサチューセッツへの吸収合併がなされた。抵抗はなかった。コネティカットとロードアイランドは復活、ニューハンプシャーもマサチューセッツとは別の王領植民地であることが改めて確認された。ただし、ニューハンプシャーは規模が小さいことから経済的にマサチューセッツに従属し(註3)、1698年から1741年まではマサチューセッツの総督がニューハンプシャーの総督職を兼任していた。

 註3 初期のニューハンプシャーにはマサチューセッツから飛び出した反体制派が多かったのだが、やはり小規模植民地では自立が難しく、その幹部がマサチューセッツに詫びをいれて仲良くしてもらうということもあった。

 メリーランド植民地は創設当初から支配者のカトリックと住民の多数を占めるプロテスタントの対立が激しかったというのは繰り返すまでもない話だが、「名誉革命」を聞いたプロテスタント系の住民は当然のごとく暴動を起こしてカトリックを支配層から追い出した。ウィリアム&メアリはこれを事後承認し、カトリックへの圧迫が1715年まで続くこととなる。

 それは先の話として……ニューヨークでも「名誉革命」に触発された蜂起が起こった。ジェイムズ2世に忠実な副総督(註4)のニコルソンが酒に酔った状態で「ニューヨークを焼き払う」と発言し、たちまち起こった民衆の蜂起を受けて追い出されてしまったのである。市民は民兵隊の指揮官ジェーコブ・ライスラーを総督代行とし、本国のウィリアム&メアリの意向が届くまでの暫定政府を樹立した。ただしその「暫定」は延々と先に伸ばされることになる。ヨーロッパの情勢が激変して植民地どころではなくなったからである。

 註4 ニューヨークは86年にドミニオン・オヴ・ニューイングランドに編入されていた。

   

   ファルツ継承戦争  (目次に戻る)

 話が前後するが……「名誉革命」が起こる3年前の1685年、ドイツ諸侯(註1)の1人ファルツ選帝侯カールが亡くなった。カールには子がなかったため、その妹の義兄にあたるルイ14世が侯位の相続を主張した。これに激怒した神聖ローマ皇帝レオポルド1世(註2)はスペイン・スウェーデン・オランダ等々に呼びかけて「アウグスブルグ同盟」を結成した。ネーデルランド戦争(第二次英蘭戦争に連携する戦争)及びオランダ戦争(第三次英蘭戦争に連携する戦争)でフランスに対抗したオランダ総督ウイレム3世がこの同盟に参加するのは当然で、さらに彼が「名誉革命」以来「ウィリアム3世」として統治しているイギリスも半年遅れで同盟に加わった。英蘭戦争で間接的直接的に協力していた英仏両国が、他ならぬオランダ人の手によって決裂したのである。

 註1 正確にいうならば「神聖ローマ帝国諸侯」。

 註2 レオポルドは「オランダ戦争(第三次英蘭戦争)」の時にもルイ14世と戦っている。

 こうして1689年に始まるのが「ファルツ継承戦争」である。

 陸戦はフランス軍の連戦連勝、30万の大軍をもってハイデルベリヒ、フリューリス、ネールウィンデにとアウグスブルグ同盟軍を蹴散らした。それから海、ルイ14世は「名誉革命」で追放されたジェイムズ2世に1300の兵を与えてアイルランドに上陸させた。ジェイムズ軍のもとにアイルランド各地からカトリック教徒が馳せ参じてその軍勢は万を越え、ひとまずロンドンデリーの城を包囲した。

 しかしロンドンデリーは包囲100日を過ぎ糧食尽きても気合いで持ちこたえ、そのうちにウィリアム3世自ら率いる援軍が到着した。ウィリアムは偵察中に敵軍の砲弾で負傷し、一時は戦死の報も流れ出た。だが傷はたいしたことなく、翌日の戦闘「ボイン河畔の戦い」ではジェイムズの方が戦意を喪失して海へと退いた。

 この戦いの前後、英仏海峡のビーチヘッド沖で大規模な海戦が出来し、その戦闘ではフランス艦隊が勝利した。交戦したのはハーバート提督率いるイギリス・オランダ連合艦隊70隻、ツールヴィユ提督率いるフランス艦隊90隻であった。エヴェルトセン提督率いるオランダ艦隊がフランス艦隊に包囲されて苦境に立っているにもかかわらず、イギリス艦隊のハーバート提督は「優勢なる敵艦隊に出会した場合には、決戦を避けて軍艦を保全することが最良の策である」として逃走したのであった。 

 だが、艦隊を保全したこと自体は間違いではなかった。ハーバート提督は裁判で無罪となり、とりあえず本国には艦隊がいるから大丈夫となったウィリアム3世は大陸に渡ってベルギー方面に転戦、ナムールで勝利を得た。ルイ14世は今度は(アイルランドではなく)イギリス本土に直接遠征軍を送り込むべく3万の兵と500隻の輸送船を準備した。護衛の艦隊も各地の港から総動員する。しかしその動きはすぐにイギリス側にキャッチされた。

 1692年5月13日、英仏海峡に浮かぶワイト島の沖にてイギリス・オランダ艦隊が勢揃いした。ラッセル元帥率いるイギリス本隊43隻、アルモンド提督率いるオランダ艦隊50隻、さらにアシュビー提督率いるイギリス後続部隊41隻、合計131隻という大艦隊である。

 対してフランス側では各艦隊の出動が遅れており、ブレスト港から出てきたツールヴィユ艦隊57隻のみが英仏海峡を東へと進んでいた。両軍は19日未明に至って相対する。その時点ではフランス艦隊は敵戦力を正確には掴んでおらず、風上の利を占めた勢いでそのまま突進しようと艦列を整えた。夜明け、視界が開けた仏将ツールヴィユは敵が百数十隻の大兵力を揃えていることに気付き驚愕としたが、せっかく掴んだ風上の利を活かしてそのまま戦闘することにした。なるべく長い縦陣を組んで前後からまわり込まれないようにする。この「ラ・ハーグ沖の海戦」初日は丸一日熾烈な砲戦に終始しつつも勝敗は決さず、フランス艦隊はどうにか沈没ゼロ、イギリス艦隊は2隻を失った。夕方、濃霧の訪れと共に一旦戦闘は休止した。

 翌20日、フランス艦隊は悪天候に紛れて退却に移ろうとした。イギリス艦隊の追撃は執拗で、4方向にわかれて逃走するフランス艦隊はそのうち15隻を失うという打撃を受けた。これで、イギリス本土上陸作戦も水泡に帰したのであった。

 ところが、イギリスはこの勝利を過大に捉え過ぎてしまった。一海戦に勝ったとはいっても、別にフランス艦隊を全滅に追い込んだ訳ではないのである。6月、それまで敵艦隊を恐れて身動きがとれないでいたイギリス商船400隻が一斉に出帆したが、たちまち繰り出してきたフランス残存艦隊の猛撃を受けて100隻が失われるという大打撃を被った。94年6月にイギリス艦60隻を動員して行われたブレスト港上陸作戦も失敗に終った。ただ……1660年代以降、フランス海軍は急速に充実してはいたのだが、肝心のルイ14世御自身があまり関心を示していなかった。それどころか艦隊に対してまるで無意味な指示を出すことすらあり、艦艇はいいのだが、どうにもこの国の海軍はイギリス海軍ほど活躍することなく終ってしまうのである。

   

   ウィリアム王戦争  (目次に戻る)

 で、北米である。イギリスもフランスもヨーロッパ方面の戦いに手一杯で、とても北米に大遠征軍を送り込む余裕を持っていなかった。この方面の戦闘は、基本的に、双方の植民地が独自に持つ兵力を主力として行われることとなる。「ファルツ継承戦争」の植民地における戦争は国王の名をとって「ウィリアム王戦争」と呼ばれている。これが、その後100年以上に渡って断続的に続く「第二次英仏百年戦争(註1)」の始まり(註2)である。

 註1 「第一次英仏百年戦争」は言うまでもなく1339年〜1453年に行われた、いわゆる「百年戦争」のことである。

 註2 通常この呼称は「ウィリアム王戦争」「アン女王戦争」「ジョージ王戦争」「フレンチ・インディアン戦争」及びそれらに関連するヨーロッパやインドにおける戦争、さらに「アメリカ独立戦争」「ナポレオン戦争」を総称して用いられる。ただし本稿では後2者については触れないことにする。

 1689年10月、フロントナック伯がカナダのケベックに総督として着任した。彼はイギリス領の辺境地帯をゲリラ的に襲撃してまわる「小戦争(プティット・ゲール)」という作戦を採用し、200人のフランス兵と友好的インディアンとで遠征隊を組織した。基本的に、フランス軍もイギリス軍もインディアンの道案内がついていなければまともに戦争出来なかった。

 90年2月8日、フランス軍の最初の勝利。村ひとつ全滅させられたイギリス側植民地は「ニューヨーク総督代理」ライスラーを中心としてただちに対策を協議し、コネティカット植民地軍が川から、マサチューセッツ植民地軍が海からカナダに攻め入る計画をたてた。しかしこの遠征軍は途中まで進んだところで天然痘の流行に見舞われ、やむなく撤収した。

 この間、イギリス本国ではニューヨークに新総督を送ろうとしたがなかなか船が集まらず、90年11月になってようやく4〜5隻からなる小艦隊が新総督スローターを乗せて出帆した。だがこの艦隊は途中でバラバラになってしまい、インゴルズビー少佐率いる部隊を乗せた小型艦1隻のみがニューヨークに到着した。インゴルズビー少佐は現地の「総督代理」ライスラーに対し直ちに全権を引き渡すよう要求したが、ライスラーはこれを拒否し、新総督スローターの艦が到着するまで待つよう主張した。実は本国政府は前年の7月の時点で「ニューヨークに関しては現時点で権力を握っている者が植民地政府を引き受けるべし」との命令を発しており、確かに権力を握っていたライスラーは自分の勢力がそのまま認められることを期待していたのである。

 しかしインゴルズビー少佐は現地の反ライスラー派(註3)と連合し、ライスラーを包囲・攻撃した。戦いに敗れたライスラーは死刑を宣告され、縛り首に処せられた。ちなみにライスラーはその後市民の嘆願によって名誉を回復され、八つ裂きにされた屍体も埋葬し直してもらうことになる。20世紀に2人の合衆国大統領を輩出する名門ルーズベルト家から初めて政界に進出したニコラス・ルーズベルトはこのライスラー派の市会議員だったのであった。

 註3 反ライスラー派というのは実は親ジェイムズ2世派であった。ウィリアム&メアリに派遣されたインゴルズビーが彼等と結んだのは実に高度な政治的判断である。

 それはともかくとして……。フランス軍によるイギリス植民地辺境への攻撃はかなりの成果をあげていた。89年の夏から秋にかけて、イギリス領の北端に位置するニューハンプシャー植民地の沿岸地帯はほとんどフランス・インディアン軍に占領されてしまった。これはニューイングランドの中心であるマサチューセッツ植民地にとって黙視し得ない事態である。

 マサチューセッツ当局は、広大な辺境地帯に兵力をばらまくよりも、艦隊を送って一挙にフランス側の根拠地ケベックとポート・ロワイアルを叩くという作戦をたてた。90年4月、ウィリアム・フィリップス卿(註4)率いる艦隊が出撃、見事にポート・ロワイアルを占領して、山のような分捕り品を抱えて戻ってきた。

 註4 貧しい漁民の出だが、カリブ海で財宝を満載した沈没船をひきあげて巨万の富を得た人物。沈船ひきあげ事業の出資者であった当時のイギリス国王ジェイムズ2世(出資者はなんと8000%の配当を受けた)からナイトの位を賜った。

 ここで満足すればよかったのに、調子にのったマサチューセッツ植民地は今度はケベックを占領する計画をたてた。9月、今回もフィリップス卿の率いる4隻2200人の艦隊が出撃した。しかし、フランス側の指揮官フロントナック伯は敵軍の戦略を読んでいた。彼は乏しい兵力をケベックのみの防御に集中し、上陸してきたフィリップス軍を撃退した。フランス軍はポート・ロワイアルを奪回し、それまで中立を保っていたいくつかのインディアン部族を味方に引き入れることに成功した。

 この後しばらく、両軍は不毛な消耗戦に終始した。こんな時期に、マサチューセッツ内部ではさらに陰鬱な事件が起こっていた。92年、セーラム村で少女グループが年配女性に魔法をかけられたとしてこれを告発し、19人が死刑となったのである。

 ヨーロッパ方面の戦闘は1697年の「ライスワイク条約」によって終結した。勝敗はつかなかったが双方ともに10年近い戦争で疲弊しており、フランスは占領地の大半を返還してウィリアム3世のイギリス王位を認めるという譲歩に同意した。しかし、北米での決着は現地の裁量に任され、その後2年間もズルズルと戦い続けた。ニューイングランド史にいう「悲惨な10年」は本当にふんだりけったりであった。

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