メアリ・スチュアート伝 前編

   

   父の出陣   目次に戻る

 1542年11月21日、スコットランド国王ジェイムズ5世は身重の王妃マリを残し、約2万の軍勢を率いてエディンバラを出陣した。敵はヘンリ8世治下のイングランド。ジェイムズ5世のスコットランドにとっては、父祖以来数えきれない程の戦を交えてきた宿命の敵国である。ダムフリースシャのロッホバインに到達したスコットランド軍はここでふた手にわかれ、国王ジェイムズ率いる一隊は引潮を待って海岸を進撃することにし、残りの部隊は腹心の武将オリヴァー・シンクレアに預けてイングランド領内へ進撃させるという計画をたてた。

 今回の戦を先にしかけたのはへンリ8世の方だった。自らの離婚問題から宗教改革を押し進めるヘンリは隣国スコットランドの教会を味方につけようとしてうまく行かず、さらにジェイムズ5世との会談をすっぽかされたことに腹をたてて軍勢を動かしたのだった。

 ブリテン島の北部に位置するスコットランドには13世紀以来の伝統的な外交政策があった。この小国の独立は常に南の大国イングランドに脅かされており、代々のスコットランド王達はそのイングランドの敵、つまりフランスと結ぶことによって南からの侵入を防ごうとしてきたのである。

 この基本政策にのっとって、ジェイムズ5世自身もフランスから妃を迎えており、ヘンリ8世からの会談申し入れを無視したのも、ひとつにはフランスとの友好関係の破棄を強要されることを嫌った重臣たちの進言によるものであった。

 しかし、大半のスコットランド人にとって、イングランドは余りにも強大な存在であった。約30年前、ジェイムズ5世の父ジェイムズ4世がイングランドへの侵入をはかって惨敗した(フロドゥンの戦い)という記憶はまだスコットランド人たちの頭に残っており、今回のジェイムズ5世の出陣に際しても、最初はイングランド軍を恐れる兵士たちが進撃を拒否するという事態がおこっていた。この時のジェイムズ5世の落胆は大変なもので、それを見兼ねた枢機卿ビートン等の忠臣の奔走によってようやく国王に忠実な部隊を結集することが出来たのだった。

 そして11月24日、オリヴァー・シンクレア率いるスコットランド軍主力部隊は、イングランド軍の罠にかかってソルウェイ・モスの沼沢地に誘い込まれ、ろくな戦闘もないまま降伏した。先には兵士達に進撃を拒否され、今度は戦いもせずに負けるとは! この知らせを受けたジェイムズ5世は泣く泣くエディンバラに引きあげ、そのまま寝込んでしまった。

 12月8日、ジェイムズのもとに世継ぎ誕生の知らせが届いた。ジェイムズは前年に長男と次男を相次いで失い、次の王子誕生に大きな期待をかけていた。スチュアート朝スコットランド王国の国王達に共通する特徴として、いずれも幼時の即位であるということがあげられる。幼王を戴く貴族達は当然のことのように勝手な政治を行い、後に成人する国王と彼等有力貴族との抗争はほとんど恒例のイベントと化していた。ジェイムズ5世も父王の戦死の時には生後わずか17ヶ月という幼児であり、成人するまでは有力貴族アンガス伯の権勢に屈さなければならなかった。しかし、スチュアート家の国王達は皆強い男であり、ジェイムズ5世も成人後は権臣アンガス伯を国外に追放し、その他の貴族間の私闘に両成敗をもってのぞむ等の精力的な政治を行ってきた。敗戦のショックで寝込んでしまったとはいえ、王子さえ生まれればなんとかなる。

 ところが、生まれたのは王女だった。なにせ当時は16世紀のヨーロッパである。女では、国内各地の貴族達と渡り合っていけないだろうし、結婚という政略によって他国にいいように利用されるのがオチである。ずっと昔にも、スコットランドはマーガレットという幼い女王を戴き、そこに付け込んだイングランドのエドワード1世に滅ぼされかけたという歴史がある。

 また頑張って男の子をつくればいい、と思う程の気力はこの時のジェイムズには残っていなかった。12月14日、ジェイムズ5世は30歳で亡くなった。明らかに心因性の病気によるものであり、跡継ぎメアリはまだ生後6日という嬰児であった。(ちなみに、庶子ならば男の子も何人かいた)

   

   粗野な結婚申し込み   目次に戻る

 スコットランドの貴族たちは大きくふたつの派閥にわかれていた。ひとつは前述したようにフランスに頼って独立を保とうとする勢力であり、もうひとつはすぐ近くの強国イングランドと結ぶことによってその侵入を防ごうと考える人々である。

 幼い女王にかわって国政を仕切る摂政職に就任した有力貴族アラン伯ジェイムズ・ハミルトンは、国内の親イングランド派貴族の筆頭格であった。43年1月末、アラン伯は親フランス派の枢機卿ビートンを監禁し、さらに議会から「王国内で第2の地位に立つ者」という称号を贈られた。もちろんアラン伯はイングランド王へンリ8世の援助を受けていたが、そのヘンリ8世はさらに自分の息子エドワード(後の6世。メアリより5つ年上)と女王メアリとの結婚話を持ち出してきた。

 7月、スコットランド・イングランド両国間にグリニッジ条約が締結され、メアリとエドワードの婚約が取り決められた。しかし、この話の裏には明らかにヘンリによるスコットランド併合の野心が隠れていた。条約締結の直後、アラン伯に監禁されていた親フランス派の筆頭枢機卿ビートンの勢力が反撃にでた。彼等は武力をもって摂政の政策転換を迫ったが、普段から足腰の定まらないアラン伯はすんなり(?)と親フランス派に乗り換え、この後も引き続き摂政職に留まることになった。枢機卿ビートンとアラン伯は12月にはグリニッジ条約の破棄を宣言して女王メアリとエドワードの婚約を取り消し、つづいて起こった親イングランド派の蜂起を鎮めてしまった。

 この報を受けたヘンリ8世のとった行動は強引極まりないものであった。翌44年5月、ヘンリは義弟ハーファド伯エドワード・シーモアに命じてスコットランド南部に侵入させ、リースから国境地帯までの村や畑を焼き払った。このような武力を背景とする反イングランド派への脅迫「粗野な結婚申し込み」とは別に、ヘンリはスコットランド国内の親イングランド派貴族に賄賂を贈って味方につけることも忘れなかったが、こちらの方はフランスから枢機卿ビートンを通じて親フランス派貴族に渡されるお金に押され気味であった。この後しばらくの間、スコットランドの政治は枢機卿ビートンに摂政アラン伯、及び皇太后マリという3人のフランス寄りの有力者によって動かされることになった。(3人は必ずしも結束していた訳ではない)

   

   カトリック対プロテスタント   目次に戻る

 さて、当時のヨーロッパはルター派やカルヴァン派による宗教改革の最中にあった訳であるが、スコットランドにおいても先王ジェイムズ5世の治世当時からカトリック教会の腐敗が激しくなり、国内の貴族たちも次第にプロテスタントに帰依するようになっていた。女王メアリ即位後の政変もひとつにはこのカトリック(枢機卿ビートン・皇太后マリその他)・プロテスタント(摂政アラン伯その他。ただしアラン伯は相当の変節漢であった)の相克という背景があった。しかし、王国一の実力者となった枢機卿ビートンは当然ながら熱心なカトリックであって、46年3月にはプロテスタントの指導者ウィシュアードを捕らえ、さらに火刑に処すという厳しい態度をとった。

 5月、ウィシュアードの処刑に怒ったプロテスタント貴族はセント・アンドリュースの城に押しかけて枢機卿ビートンを殺し、そのまま城を乗っ取った。決断力の乏しい摂政アラン伯はこの事態に対し何等実効的な手を打てなかった。セント・アンドリュースの城には、後にスコットランドの新教会「長老教会」を創設する改革者ジョン・ノックス等も駆け付け、プロテスタントの拠点として本格的な説法が開始されることになった。さらに、彼等プロテスタント勢力を密かに支援するイングランドがこの隣国の内紛に介入する動きを見せた。イングランドは国王ヘンリ8世の離婚問題から新教会「イギリス国教会」を創設したプロテスタント寄り国家であってスコットランドのプロテスタント派と結びついていた。

 カトリックに立つ皇太后マリは自分の実家フランスに援助を求めた。47年6月、フランス艦隊がスコットランド沖に到着、翌月にはセント・アンドリュース城を攻め落とし、プロテスタントの指導者ジョン・ノックス等をガレー船漕ぎの奴隷とした。フランスはスコットランドの伝統的カトリック勢力の強力な後ろ楯であり、皇太后マリの実家ギース家はパリの宮廷でも一二を争う権門(しかも熱狂的カトリック)であった(この時代にはフランスにもプロテスタントがいたが、対スコットランド政策に関してはカトリックがイニシアティヴを握っていたようである)。スコットランドにおける宗教改革はここでいったん挫折したのである。

   

   ハディントン条約   目次に戻る

 セント・アンドリュース城事件の最中、イングランド王へンリ8世が亡くなった。跡を継いだエドワード6世はまだ9歳の子供であったが、彼の伯父で摂政のサマセット公エドワード・シーモア(「粗野な結婚申し込み」のハーファド伯と同一人物。甥が即位したので彼も伯から公へと出世したのである)はヘンリ8世以来のスコットランドへの介入策を引き継いでいた。セント・アンドリュース城陥落の1ヶ月後、イングランド軍1万6000が国境地帯の支配権奪取を狙って南部スコットランドに進撃し、9月10日にはピンキーの戦いにて摂政アラン伯率いるスコットランド軍を大破した。この外からの侵入に加え、国内の親イングランド派貴族の中には積極的にイングランド軍に協力する者もおり、幼い女王を抱える皇太后マリの頼みはやはりフランス以外になかった。

 再びスコットランドからの援軍要請を受けたフランス王アンリ2世の答えは唯ひとつであった。「(援軍がほしければ)女王メアリをフランスに送り、いずれは(フランスの)皇太子フランソワと結婚させよ」。5年前のヘンリ8世と同じ下心がみえみえだが、フランスはイングランドよりは信用できる(と思った)。48年7月、スコットランド・フランス間でハディントン条約が締結されて女王メアリのフランス行きが決定し、これと引き換えに数千のフランス軍がスコットランド各地の城砦に駐留して、王国南部に居座るイングランドの侵略軍と睨み合うことになった(この1年後にはイングランド軍も本国に撤収した。大陸におけるイングランドの拠点ブーローニュがフランス軍の攻撃を受けたことに関連する動きらしい)。もちろん(笑)この取り引きの後ろではフランスからスコットランド貴族へのプレゼント攻勢が行われ、今や忠実な親フランス派貴族と化した摂政アラン伯にはシャーテルロー公の位その他たくさんの特典が贈られたのであった。

   

   フランス宮廷のメアリ   目次に戻る

 

 1548年7月末、5歳の女王メアリ・スチュアートを乗せたフランス船がダムバルトンの港を出帆した。この船には女王と同じメアリという名を持つ4人の娘「女王のメアリたち」も乗り組んで緊急時の影武者役をつとめていたが、さらにイングランド側の襲撃を避けるためにアイルランドの西側を回るという迂回路をとって、なんとか無事にフランスの港町ブレストへと到着したのだった。

 フランス王アンリ2世はメアリを「小さな女王ちゃん」と呼んで大いに可愛がった。メアリは母方の祖母アントワネット・ギースのもとに預けられ、16世紀のフランス・ルネサンスの影響下、生まれつきの美貌に加えて、ラテン語の読み書き、詩作、刺繍、音楽、ダンス等々の最高の教育を受け、15歳になる頃には「フランス宮廷の華」とうたわれるに至った。宰相の息子ダンヴィル卿をはじめ多くの男たちが彼女に熱をあげ、詩人達も競って讃美の詩句を書きならべた。

 そして1558年の4月24日、15歳のメアリはフランス皇太子フランソワと共にパリのノートルダム寺院におもむき、パリ中の祝福を受けつつ盛大な結婚式を挙行した。花婿フランソワはメアリよりひとつ年下の14歳であった。

 こうしてメアリはスコットランドの女王でありながらフランス皇太子妃の栄誉をもその手におさめ、その幸福も絶頂に達した(すくなくとも客観的には)訳であるが、実は彼女はこれより以上の栄華をつかみ得る大変な財産を持っていた。それは彼女の体に流れるイングランド王家の血筋である。

   

   メアリとエリザベス   目次に戻る

 説明すればこうである。メアリの父方の祖母マーガレットはかつてのイングランド王へンリ7世の娘であり、スコットランドとフランスの伝統的な友好を裂くために当時のスコットランド王ジェイムズ4世(メアリの祖父)に嫁がされた女性であった(しかし結局はジェイムズ4世はフランスに味方し、イングランドに戦いを挑んで敗死した)。つまりメアリはヘンリ7世の曾孫であるという点においてイングランドのチューダー王家に繋がっており、充分にイングランドの王位を要求できる立場にあったのである。

 これはイングランドにとっては大変な脅威であった。47年にヘンリ8世(ヘンリ7世の子)の跡を継いだエドワード6世は53年に15歳で亡くなっていたが、虚弱な彼は子供をのこしておらず、次の国王候補には異母姉妹のメアリ(メアリ・スチュアートとは別人です。紛らわしいので以後彼女のことをメアリ・チューダーと表記します)かエリザベス以外にいなかった(彼女たちはメアリ・スチュアートの父のいとこにあたる)。そして問題の核心はこの「異母姉妹」というところにあった。彼女たちの父であるヘンリ8世は生涯に6人の妃をもち、うち2人を処刑、1人と死別、2人と離婚(のこりの1人は最後の妃として夫の死を看取った)したという大変な男であったが、このことからメアリ・チューダーもエリザベスも法的には庶子(メアリ・チューダーの母は離縁、エリザベスの母は刑死した)という扱いを受けていたのである。

 嫡子・庶子の区別の厳しかった当時のヨーロッパにおいては、彼女たちのような庶子 が王位を継ぐことは普通にはありえない話であった。その点ヘンリ7世の嫡出の娘を祖母にもつメアリ・スチュアートのイングランド王位継承という話は決して夢物語ではなく、ようするにメアリ(・スチュアート)は、スコットランド女王・フランス王妃・イングランド女王という3つの玉座を手にする可能性があったのである。

 その辺の事情はフランス王アンリ2世もよくわきまえていた。メアリの結婚と同じ年、イングランドで女王メアリ・チューダー(53年に異母弟エドワード6世の死をうけて即位していた。「血のメアリ」である)が亡くなり、かわって妹のエリザベス(1世。「よき女王ベス」である)が即位すると、アンリ2世はただちに「庶子であるエリザベスよりも、ヘンリ7世の嫡流である(そしてなによりフランスの皇太子妃である)メアリ・スチュアートの方がイングランド国王にふさわしい」旨の宣言を発布した(メアリ・チューダーの即位の時には何も言わなかったのか?)。驚いたイングランド議会は「エリザベスはヘンリ8世の嫡出である」との決議を行ってこの突っ込みをかわそうとしたが、メアリはこの後死ぬまで自分のイングランド王位継承権を主張し続けるのである。

     

   メアリの帰国   目次に戻る

 1559年7月、フランス王アンリ2世が馬上槍試合の最中に事故死した。息子フランソワの即位(フランソワ2世)にともないメアリもフランス王妃となった。国王とはいえ病弱なフランソワにかわり、メアリの母方の一族ギース家(フランスの有力貴族)が宮廷の権力を掌握した。ところが、メアリにとって不幸なことに、というかこれが不幸の第一歩なのだが、夫のフランソワは即位後わずか2年で病死した。たったの16歳だった。ふたりの間には子供がなく、かわってフランソワの弟シャルル(9世)が10歳で即位した。夫を亡くしたメアリは王妃の地位を失い、ついでにギース家の権勢も後退した。ここで摂政となったのが王母(フランソワとシャルルの母。つまりメアリの姑)カトリーヌ・ド・メディシスである。メアリはどうもカトリーヌとそりがあわなかったらしく、61年8月には故郷スコットランドに帰ることにした。しかし、長い間パリの宮廷ですごしてきたメアリにとって、スコットランドはどうにも魅力の乏しい後進国であり、彼女が幼児の頃からもっているスコットランド女王という位にしても、失ったフランス王妃の位とくらべれば、とても大した値うちがあるようにも思われなかったのであった。

 そのスコットランドでは大変な騒ぎがおこっていた。(以後、話はメアリのフランス渡航直後に戻る。記述に若干の重複があるのは御容赦願いたい)

   

   スコットランド宗教戦争   目次に戻る

 話は10数年前にさかのぼる。メアリのフランス渡航後、女王不在のスコットランドは摂政シャーテルロー公(もとアラン伯)とその一族を中心とする勢力によって統治されていた。

 しかし、フランスの宮廷はシャーテルロー公よりももっとフランス寄りに立つ皇太后マリを摂政職に擁立しようと企んだ。1553年にメアリが11歳になった時、パリの高等法院はシャーテルロー公の摂政位の期限が切れたとの見解を示し、翌年には皇太后マリの摂政職就任が実現した。

 皇太后マリの親フランス政策に基づき、フランスのスコットランド駐留部隊の強化、フランス人の国家官吏登用等が行われたが、これはスコットランド人の愛国心をいたく傷つけるものであり、しだいに国内における親イングランド派の勢力を増幅させるようになっていた。

 さらに宗教の問題がある。53年、イングランドで狂信的なカトリック女王メアリ・チューダーが即位し、父ヘンリ8世以来の宗教改革を廃止して国内のプロテスタントへの処刑・追放政策に乗り出していた。スコットランドの皇太后マリはカトリック教徒ではあったが、ここであえてイングランドのプロテスタント達を匿うことは、この敵国を分裂させる良い材料になると考えた。

 このプロテスタント融和政策によって、6年前(47年)のセント・アンドリュース城陥落以来フランスに囚われていたジョン・ノックス(49年釈放。その後スイスでカルヴァンの教えを受けた)等プロテスタント指導者もスコットランドに帰国し、公然と説教を行うようになった。国内のプロテスタントは急速にその数を増やし、57年にはモートン伯・アーガイル伯・グレンケアン伯等のプロテスタント貴族が「信仰盟約」を結び、スコットランド独自の新教会の創設を提議するに至った。

 しかし、1558年にイングランドでカトリック王メアリ・チューダーが亡くなり、その妹でプロテスタント寄りのエリザベスが即位すると、スコットランドでは最早プロテスタントを認める必然性がなくなった(イングランドの主流派に戻ったプロテスタントの仲間を自国に置いておいてもイングランドを分裂させることにはならない)ため、皇太后マリはプロテスタントへの弾圧策を再開した。

 しかしプロテスタントの側も黙っていない。59年元旦、国内の修道院の扉にカトリックを弾劾する怪文書「乞食の呼び出し状」が貼り出され、続いて指導者ジョン・ノックス等の扇動による宗教暴動が中部スコットランドの全域に広まった。

 6月末、プロテスタント勢は王国の首都エディンバラに入城し、指導者ジョン・ノックスは首都の牧師に任命された。各地のカトリック教会や修道院が暴徒による破壊と略奪にさらされた。

 ところが、このプロテスタントの勢力は結局は烏合の衆であった。かれらはすぐにバラバラになってしまい、皇太后マリ傘下のカトリック勢とフランス軍とがエディンバラの外港リースを回復し、ここからプロテスタントに反撃する姿勢を見せた。(この頃フランスでアンリ2世死去。メアリの夫フランソワが即位してスコットランド・フランス間がさらに緊密化した)

 プロテスタントの方も勢力の再結集をはかる。11月には前摂政シャーテルロー公を味方につけ、フランス軍の拠点リースを攻撃するがこれは失敗、12月にはフランス軍が逆襲にでてスターリングを占領、さらにファイフ地方に進撃してきた。少数ながらもよく訓練されたフランス軍の勢いは凄まじく、例によって優柔不断なシャーテルロー公もプロテスタントを見捨ててフランス王への忠誠を誓おうとする有り様であった。

   

プロテスタントの勝利   目次に戻る

 プロテスタント勢はイングランドのエリザベスに援助を求めた。エリザベスは最初はプロテスタントへの加勢を躊躇った。一説によると彼女は、イングランド女王である自分が同じ女王であるメアリへのプロテスタントの反逆(正確には皇太后マリへの反逆)を助けるのを潔しとしなかったというのだが……、しかし最終的には寵臣セシルの献言をいれ、海陸からのスコットランド遠征軍派遣を決意した。

 翌1560年1月、ウィンター提督麾下のイングランド艦隊がフォース湾に到着し、フランス軍をスターリングからリースへと押し戻した。

 3月、グレー卿率いるイングランドの別働隊8000が国境を越え、スコットランドのプロテスタント勢とともにリースを包囲した。リースのフランス軍はしぶとく抵抗し、時には夜襲にでて包囲軍を悩ませた。この戦いはほとんど「イングランドとフランスの戦争」であり、スコットランド人が血を流すことはあまりなかった(なんじゃそりゃ)。ここでフランス側に援軍がくれば、ふたたび反撃にでてプロテスタント勢(この場合はイングランド軍か)を蹴散らす可能性が大である。

 ところが、ちょうどその頃、フランス本国で内紛がおこり、外国への介入どころの話ではなくなった。4月、フランスの使節がイングランドに送られ、フランス・イングランド間の和平交渉が始まった。

 6月11日、スコットランド皇太后マリが病死した。これが大きな転機となり(フランス軍を呼び込んだ本人が死んだから)、7月6日にはエディンバラ条約が締結されて戦争が終結した。フランス・イングランド両国はスコットランドから軍勢を引き上げ、今後両国は軍事的に事を構えないことを承認した。また、メアリは自分の紋章にイングランド王位継承権を示す意匠をこらしていたが、今後はこの紋章も使用を禁止され、フランスはエリザベスのイングランド王位に対する権利を認めることとなった(もちろん、エリザベスはとっくの昔から正式のイングランド王である。フランスが意地でもそれを認めなかったのである)。しかし、この条約はスコットランドを除外してフランス・イングランド2国間のみで締結されたものであり、メアリ本人も生涯批准しようとしなかったのである。

 7月10日、エディンバラで身分制議会が開会した。8月17日、カルヴァン主義の教義にもとづく「スコットランド信条」が通過し、さらにスコットランドにおけるローマ法皇の権威が否定され、スコットランドにおけるカトリックは少なくとも法的には一掃された。ここで宗教の話を長々とすると筆者の勉強不足が露呈するのでこれ以上の記述は避けるが、とにかくスコットランドの宗教戦争はプロテスタントの勝利のうちに終結した、ということを覚えておいてください。ただし、旧来のカトリックをかたく守る貴族もまだ多く、それでいながら、翌61年に帰国する女王メアリ・スチュアート〜彼女はカトリックとして教育されている〜に忠誠を尽くすか否かは宗教とは関係なく、貴族達個々人の利害得失によって決定されていくのである。

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