メアリ・スチュアート伝 後編

   

   魅惑の女王   目次に戻る

 1561年8月19日、エディンバラの外港リースに2隻のガレー船が到着し、スコットランド女王メアリ・スチュアートが13年ぶりに故国の土に降り立った。カトリックであるメアリの帰国にプロテスタント指導者ジョン・ノックスは警戒心を強めたが、大方の民衆は自分達の女王の帰還を素直に歓迎した。

 メアリはすでに成立してしまったスコットランドの新教会(長老教会)をいまさら覆すつもりはなかったらしく、自身はカトリックでありながらもプロテスタントの権利を保証し、さらにプロテスタントの有力貴族マリ伯(メアリの異母兄)を任用するという度量の広さを示した。プロテスタントの指導者ジョン・ノックスはしばしばメアリのカトリック信仰を批判した(女王がダンス等の享楽に耽るのはけしからん、というつまらない批判もあった)が、メアリは「いいたいことがあれば直接いってほしい」と4回に渡ってジョン・ノックスを宮殿ホリルードハウスに招いて論争に及び、結局物別れに終ったものの、別段彼を投獄するようなこともなく、帰国後数年間は平穏な統治を続けることが出来た。

 フランスの宮廷で最高の教育をうけ、若く美しく、陽気で馬術にもたけたメアリは暇を見つけては王国の各地を巡回した。馬上颯爽と軍勢を率いる彼女の勇姿は人々を魅了してやまず、日頃は反目ばかりの貴族たちも女王の「何か人を魅する魔力」の前に結束した。このことは、大昔から陰謀と権力争いに明け暮れてきたスコットランド貴族にとって、まったく希有な話であった。 

 メアリのスコットランド帰国に従った家来のひとりにシャトラールという男がいた。彼は学問をよくし、得意の詩作で女王を讃美する歌を捧げその寵愛を得たが、さらなる深い関係を望み、大胆にも女王の寝室に忍び込んで捕えられるという事件をおこした。当然彼は不敬罪に問われ、死刑を宣告されたものの、少しの後悔の色もなく、断頭台の上からメアリの宮殿に向って「さらば女王よ! 最も愛すべき女王よ! 最も残酷なる女王よ ! 」と叫んで首を刎ねられたという。

   

   ダーンリ卿   目次に戻る

 ある時、スコットランドの大使がイングランド女王エリザベスに謁見した。エリザベスは大使の前でリュートをひき、数ヶ国語をあやつり、踊ってみせ、金髪を見せびらかし、メアリとの比較を求めた。大使はエリザベスがイングランド第一の美人で、メアリがスコットランド第一の美人であると答えて切り抜けた。エリザベスはなおもふたりのうち、どちらが身長が高いかと聞いた。これは明らかにメアリの方である。しかしエリザベスは負けずにいったという。「では、あの人は高すぎるわけね」(現代教養文庫「世界の歴史7」より抜粋)

 ふたりの女王は表面的には友好をたもち、互いを「お姉様」「親愛なる妹」と呼んで文通を重ねていた(世代的には「おばさま」と「姪」であるが)。しかし、ふたりの間にはこえがたい大きな溝があった。メアリはカトリック、エリザベスはプロテスタント(イギリス国教会)という宗教の違いがそれであり、さらにメアリはいまだにイングランド王位継承権を捨てておらず、イングランド国内のカトリックのなかには、メアリを自分達の国王として担ぎだそうとする動きもあった。

 そして、メアリは未亡人であった。帰国の時点で18歳、あまりにも若く美しい未亡人である。スペイン・オーストリアのハプスブルグ家、デンマーク王、スウェーデン王、フェルラーラ公、ヌムール公等々、求婚者は数知れず、財産はスコットランドまるごと一国というメアリのまわりに大勢の再婚交渉人が訪れた。なかでも最有力な候補は、カトリックの牙城スペインの王子ドン・カルロス(フェリペ2世の子)であるが、イングランドの南北(スペインとスコットランド)をカトリック王に挟まれることを恐れるエリザベスはこの話を極力妨害する一方で、自分の寵臣レスター伯ロバート・ダッドリーをメアリの再婚相手にすすめたりもした。

 ところが、大方の期待を裏切って、メアリが自分の再婚相手に選んだのは、2歳年下のいとこダーンリ卿ヘンリ・スチュアートであった。

 (この段落はややこしいので読まなくていいです)ダーンリ卿はかつてのイングランド王ヘンリ7世の娘マーガレット・チューダーの孫にあたる人物である。マーガレットはその父ヘンリ7世の外交政略の道具としてスコットランド王ジェイムズ4世に嫁ぎ、後の国王ジェイムズ5世(メアリの父)を産んでいたが、夫ジェイムズ4世の戦死後は有力貴族アンガス伯と再婚しており、そちらで産んだ娘(つまりメアリの父の異父妹)の子がすなわちダーンリ卿である。そして彼ダーンリ卿はメアリと共通の(イングランド王家の出身であるところの)祖母マーガレットを通じ、メアリに次ぐイングランド王位継承権を有していた。ダーンリ卿とその父レノックス伯は実力者アラン伯(久々の登場!)との政争に敗れ、20年間もイングランドに亡命していたが、1565年のはじめに許されてスコットランドに帰国していた。ダーンリ卿の名は以前にもメアリの再婚相手の候補としてあがったことがあり、ここでもしメアリとダーンリ卿という、イングランド王位継承権をもつ、しかもカトリックのふたりが再婚すれば、それはイングランド女王エリザベスにとって、極めて由々しい事態になるはずであった。エリザベスは未婚で当然子供がおらず、したがって最も有力な次期イングランド王候補者はやはりスコットランド女王メアリ・スチュアートをおいて他になかった。そのメアリがさらに、自分に次ぐイングランド王位継承権をもつダーンリ卿と再婚したらどうなるか……。ダーンリ卿は20年もイングランドに住んでいたのに、エリザベスは何故ダーンリ卿のスコットランド帰国を許したのか? これはまったくの謎である。

 それはともかく、メアリは舞踏会の席上でこの「彼女がそれまでにあった人物のなかで、もっとも活発で均整のとれた背丈の高い男」ダーンリ卿をみそめ、たちまち大恋愛におちいった。

 65年7月、22歳のメアリはダーンリ卿と正式に結婚し、ロス伯・オルバニ公の爵位、ならびにスコットランド王位継承権をこの新しい夫に改めてあたえることにした。

   

   リッチョ殺害事件   目次に戻る

 ダーンリ卿の突如の台頭に驚いた有力貴族マリ伯(メアリの異母兄)とシャーテルロー公(もと摂政アラン伯)はこの再婚に反対し、対メアリ・ダーンリ卿の謀反を計画した。彼等はこの機会に女王メアリを自分たちの保護下に置こうと考えたらしいが、メアリは素早くプロテスタントの権利を再確認してその応援を確保し、軍勢を集めて反乱軍を蹴散らした(狩立て事件)。マリ伯はイングランドに、シャーテルロー公はフランスに亡命した。(ふたりとも後に帰国するが、それは本稿の描くところではない)

 ところが、ダーンリ卿は見かけはカッコよかったが、その中身はいたってわがままで優柔不断な、女王の配偶者としては全然相応しくない人物であった。自身が頭のいいメアリはすぐにこの再婚を後悔し、かわって宮廷音楽士のディヴィット・リッチョを寵愛するようになった。

 ダーンリ卿は猛烈な嫉妬にかられた。66年3月9日、ダーンリ卿は仲間の貴族とともにホリルードハウス宮殿に乗り込み、たまたまメアリと会食中だったリッチョを 刺し殺して(56ケ所も刺したという)、その死体を窓から投げ捨てた。メアリは軟禁された。彼女はこの時妊娠6ヶ月であった。 

 当然メアリは激怒したが、すぐにダーンリ卿を手にかけるようなことはせず、まずダーンリ卿をたぶらかしてその仲間から引き離し)自分の夫を「たぶらかす」というのも変な表現ですね)、そのダーンリ卿の手引きで軟禁先から脱出、続いて集めた8000の軍勢を率いてエディンバラに進軍、ダーンリ卿の元仲間たち(笑)を国外に追い払った。鮮やかな手並みであった。この年6月にメアリは王子ジェイムズ(6世)を出産したが、ダーンリ卿への愛情は完全に消え去っていた。(ジェイムズ王子がダーンリ卿でなくリッチョの子供だという確証はない、らしい)

   

   カーク・オ・フィールドの惨劇   目次に戻る

 この頃メアリの前に現れたのがボスウェル伯ジェイムズ・ヘバーンである。彼の家は代々海軍長官の職をつとめ、同時に代々のスチュアート王家の未亡人たち(旦那であるスコットランド王達がみんな若死にするので)と常にねんごろな関係をもってきたという辺境貴族の名門であった。

 ボスウェル伯はすでに妻帯していたにもかかわらず、その不敵な態度と豊かな教養でもってメアリを強烈に惹き付け、その寵を一身に集めるようになった。弱々しいフランソワやカッコだけのダーンリ卿と異なり、彼ボスウェル伯こそは真にメアリの好みにあった、荒々しい野性味溢れる男らしい男であった。メアリはすっかりのぼせあがり、気がついた時にはおなかにボスウェル伯の子を宿していた。(妊娠だけでも問題だったが、実はこの恋愛はメアリからの一方的なもので、ボスウェル伯はメアリよりもその王冠の方に興味があったらしい。確かに不敵で野性味溢れる奴である)

 1567年1月22日、グラスゴーの城で病気療養中のダーンリ卿はメアリの誘いをうけ、エディンバラ郊外にあるカーク・オ・フィールドの屋敷にやってきた。ダーンリ卿はひさしぶりにメアリと会ったことを喜んだが、メアリの方は「宮殿で舞踏会があるから」とダーンリ卿を屋敷にのこし、2月9日には自分の宮殿ホリルードハウスに帰ってしまった。

 ダーンリ卿の病気が宮殿の人々にうつると困るというもっともな理由であった。

 翌2月10日午前2時頃、未明のエディンバラの町を揺るがす大爆発がおこった。びっくりして外に飛び出した町の人々は、無茶苦茶に破壊されたカーク・オ・フィールドの屋敷と、そこに横たわるダーンリ卿の死体を見い出した。ダーンリ卿の死体は黒焦げになっていたという話と、爆発に驚いて逃げ出したところを絞殺されたという話の2バージョンがあるが、いずれにせよこれは計画的な犯行であり、だれがやったかは一目瞭然としていた。

   

   祝福されざる結婚式   目次に戻る

   

 実際にはこの事件の真相は今もって不明である。メアリにもボスウェル伯にも一応のアリバイがあり、ダーンリ卿に反感をもつ有力貴族ダグラス伯の仕業だという説もある。しかしメアリがなんらかの形でダーンリ卿暗殺の陰謀に加わっていたのは事実らしい。

 このあたりのメアリの行動は不可解というか何というか、いかにも(世間的に見て)疑わしい。メアリが事件の直前にダーンリ卿に会ったのは、 自分のおなかの子(実はボスウェル伯の子)が正式の夫ダーンリ卿の子供であるというアリバイ(?)をつくるためであって、それさえ済ましてしまえば、後に生まれてくる子供がその出生を疑われることはない(一応)。しかしそれならボスウェル伯と正式にくっつく(再々婚する)のは事件のほとぼりがさめてから、せめて子供が生まれてからにすればいいのに、メアリは事件の後たった3ヶ月でボスウェル伯と再々婚してしまうのである。やっぱり「子供の父親はボスウェル伯である」としたかったのか ?  もしメアリが男なら、正式の配偶者以外の子供をつくっても、当時の価値観からいっても何等たいした問題にならないが、メアリは女性であるが故にそれが出来ず、実は王位を狙っていたボスウェル伯の野望の踏み台にされてしまったのである。

 さらに、イングランドのエリザベスのように、周囲を寵臣でかためながらも一生を独身で押し通すようなこともメアリには不可能であった。エリザベスが冷徹なリアリストとして、男性とのつきあいは恋愛遊戯だけにとどめ、つまり女王としての自分の絶対性を決して他に移譲しなかった(性格的に恋愛できなかったという可能性も充分ある。親父と姉貴が結婚ということに関して無茶苦茶な人だったから)のとくらべ、メアリはすぐに自分の激情に身をゆだねてしまい、スコットランド女王としてのつとめもそれに必要な長期的な見通しも失ってしまう。しかも、後になって後悔するのに、である。為政者としては全くの失格という他ないが、エリザベスからみれば、このようなメアリの、いってしまえば自分中心の行動は、とてつもなく羨ましくもあり、また妬ましくもあった。

 事件の捜査はろくに行われず、一応犯人に関する情報には2000ポンドの賞金が約束されたものの、嫌疑をかけられた者はメアリの手引きでこっそり亡命する有り様で、イングランド女王エリザベスやフランス王母カトリーヌ・ド・メディシス(亡夫フランソワの母)からの「犯罪者をしかるべく処罰するように」との忠告の手紙もほとんど無視された。

 エディンバラの街角には「ここに王(ダーンリ卿)の殺害者あり」と落書きされたボスウェル伯の似顔絵が貼り出され、(真相が何であったにせよ)人々はこの事件の犯人はボスウェル伯と女王メアリにちがいないと噂しあった。この説を裏付けるように、メアリはダーンリ卿への服喪もテキトーに済ませてしまい、ボスウェル伯の領地を加増したりした。亡夫への哀惜をしめすこともなく、次第に自分にかけられてくる嫌疑をはらすための何らの処置をとるでもない。

 一方のボスウェル伯もまた考えなしである。彼は仲間を集めて自分と女王の結婚を要求する署名を提出し、メアリが(何故か)即答を避けると、手勢を率いて彼女を強奪(!)、ダンバーの城に連れ込んで結婚を承諾させた。ダーンリ卿爆死事件からたったの2ヶ月後である。

 しかしボスウェル伯はすでに妻帯者である。ただちに離婚手続きをとり、エディンバラのコミサリ裁判所が気の毒なボスウェル伯夫人の味方をしたのも無視し、他の裁判所から「あの時の結婚は法的に問題があった」との理屈で正式な離婚許可をとりつけた。こんな無茶をして、元々から野心満々で陰謀好きな他の貴族達が黙ってみていると思ったのであろうか?

 そして5月15日、メアリとボスウェル伯は、新郎の宗旨にしたがってプロテスタント式の結婚式を挙行した。ダーンリ卿の死から3ヶ月、現在の感覚でも早すぎる再々婚。しかもダーンリ卿の死には疑惑がつきまとっている。エディンバラ市民もローマ教皇もいい顔をしない、祝福されざる結婚式であった。

     

   メアリ廃位   目次に戻る

 思った通り、ボスウェル伯の行動は他の貴族達の大顰蹙を買っていた。結婚式の約1ヶ月の後、不平貴族がスターリングの城に集まり、プロテスタント・カトリックをとわない広範な反ポスウェル・メアリ戦線を結成した。メアリとボスウェルもただちに軍勢を集めてシートンまで進出したが、再々婚に反感を持つ兵士達が戦闘を拒否、メアリとボスウェル伯はあちこち逃げ回ったあげく、6月15日にカーバリー・ヒルにて再々婚反対派の軍勢に降伏した。「売春婦を焼き殺せ!」「 亭主殺しを焼き殺せ!」メアリは民衆の罵声を浴びつつエディンバラに連行され、ついでロッホリーヴンの城に幽閉の身となった。

 7月24日、まだ24歳のメアリ・スチュアートは退位を強制され、その5日後の29日、生後13ヶ月の息子ジェイムズがスターリングで国王の冠を戴いた。ジェイムズ6世である。(カーバリー・ヒルから逃走したボスウェル伯はオークニー諸島に渡って海賊の頭目となり、その後ノルウェー海岸でデンマーク艦に囚われてドゥラグスホルム城の牢獄にぶち込まれ、12年後に狂死したという。また、彼とメアリの間にできた子供は流産したとも生後闇に葬られたともいう。ついでながら、この事件においてメアリに味方しようとした貴族もいるにはいた。ジョン・ハミルトン卿〜フランスに亡命中のシャーテルロー公の次男〜はそのひとりで、メアリ軍に合流しようとして果たせなかった。彼はメアリとの結婚をたくらんでいたようである)

     

   ロッホリーヴン脱出   目次に戻る

 さて、ロッホリーヴンの城に囚われたメアリであるが、彼女は決して女王復位を諦めず、この三方を水に囲まれた湖畔の城から脱走の機会をうかがっていた。(もっとも、ボスウェル伯とのことは後悔していたらしい)メアリの魅力は決して衰えていなかった。ロッホリーヴンの城には監視役として有力貴族ダグラス伯とその家族が詰めていたが、ダグラス伯の長男ジョージとその親戚ウィリアムはメアリの美貌を慕い、その脱獄を助けることにした。

 計画実行の当日、メアリはジョージとウィリアムの用意した洗濯女の衣装を纏い、湖中の城と陸地を往復する出入り業者(?)のボートに乗り込んだ。ところが、この試みはメアリの洗濯女とは思えない白い華奢な手のためにあえなく発覚し、ジョージは父ダグラス伯の怒りをかって追放されてしまった。

 しかし、城中にはまだウィリアムがのこっていた。彼はダグラス伯のお気に入りであり、父親の詰問を受けたジョージの方も、ウィリアムの名前だけは決して口に出してはいなかった。ウィリアムはジョージと連絡をとり、再び脱走の手筈を整えだした。

 1568年5月2日の夜、ダグラス伯一家と会食していたウィリアムは頃合を見計らって部屋の外へと忍びだし、まえもって盗んでおいた鍵をかけてダグラス一家を閉じ込めた。城をめぐる湖にはボートを漕いでメアリの部屋のそばへと乗り付けるジョージの姿があった。ウィリアムとメアリはメアリの部屋の窓からジョージのボートに乗り移り、暗闇に紛れて町とは反対側の岸へと漕ぎ去った。

 メアリ脱走の報はたちまちスコットランド全土に広まった。「非運の女王を助けろ!」1年前にはメアリを売女よばわりしていたのも忘れ、たちまち6千の軍勢が集まった。メアリ軍はひとまずダンバートンの城に拠点を設定し、ラングサイトの丘にて押し寄せる敵軍(新国王ジェイムズ6世の摂政はメアリの異母兄マリ伯)を迎え撃った。

 しかし、メアリ軍は所詮は寄せ集めであって有能な指揮官を欠き、敵軍の攻撃の前に簡単に敗れ去ってしまった。メアリはわずかな従者とともに戦場を離脱し、思いきってイングランドのエリザベスを頼ることにした。

     

   イングランドのメアリ   目次に戻る

 エリザベスにとって、メアリの亡命は実に迷惑な話であった。エリザベスは自分の女王(絶対君主)という立場から、同じ女王である(女王であった)メアリがスコットランドの貴族達に裁かれるのを黙視できなかったし、かといって、いまだにイングランド王位継承権を捨てず、さらにカトリックであるメアリの亡命を認めれば、イングランド国内においてエリザベスの宗教政策に反対するカトリック勢力に、強力極まりない錦の御旗を与えることになりはしないか?

 あれこれ考えた後、エリザベスはメアリを名誉ある軟禁状態に置くことにした。メアリは女王としての待遇と年金を与えられ、以後の19年の余生をイングランド各地の城ですごすことになった。

 1569年のイングランド北部の大反乱、70年のカトリック教徒リドルフィの陰謀、72年のノーフォーク公トマス・ハワードの陰謀、83年のスロクモートンの陰謀、イングランド国内や他国のカトリックの、国教王エリザベスへの反逆事件において、メアリはほとんど常にカトリックの象徴として担ぎだされた。これらの陰謀はどれも成功しなかったものの、メアリは常に言い逃れ、エリザベスの方もあまり厳しく追求しようとはしなかった。

 

 なぜエリザベスはメアリを追求しなかったのか? 今となっては彼女の真意はわからない。親戚の女性を手にかけるのを人道的にはばかったのか、同じ女王としての立場によるものか、それとも単にメアリを生殺しの状態にしておくのを楽しんでいたのか……。なんにせよ、もはやメアリが主体的に動くことはなく、外部の陰謀に利用されるだけの存在に成り下がっていた。スコットランドの国王である息子ジェイムズはプロテスタントとして育てられ、囚われの母に対しなんの関心も示そうとしなかった。かつて自分の激情によってスコットランド一国をかき回し、自分の感情に正直であるためには破滅することも辞さなかったメアリにとって、籠の鳥でしかない19年もの生活は耐え難い空虚で孤独な日々であったろう。この幽閉の日々がエリザベスによる刑罰であったとするならば、かつてメアリの奔放さを妬み、嫉妬に燃えたエリザベスにとって、これぼど残酷な仕打ちは他に思い付きもしなかったであろう。しかし、イングランドの重臣達は、メアリという危険人物をいつまでも生かしておくつもりは全くなく、何とかしてメアリ(とその味方)のエリザベス打倒計画の確証を掴もうと躍起になった。

 1586年、メアリのもとに、かつて自分の近侍であった青年貴族アンタニ・バビントンからの手紙が届いた。バビントンの部下により極秘裡に持ち込まれたその手紙には、カトリック教徒によるエ リザベスの暗殺と、その後のメアリを擁しての反乱計画が記されていた。ここ1年間外部との接触をたたれていたメアリは大喜びで同意の書状をしたためた。そのしばらく後、突然メアリの居室にイングランドの司直が乱入し、家宅捜索をおこなってバビントンからの手紙を押収した。バビントンの一味はすでに逮捕・処刑され、メアリのサインのはいった書状も発見されたという。

 一説にメアリの始末を望む重臣ウォールシンガムの陰謀ともされるこの事件の裁判は異例のスピードで進展した。判決はもちろん死刑。エリザベスはこの期におよんでもメアリの死刑執行令状へのサインを躊躇い、サインした後もその令状を刑場に送るのを躊躇った。

 そして結局、業を煮やした枢密院がエリザベスに無断で手筈をととのえ、メアリの斬首に踏み切った。

   

   メアリの最期   目次に戻る

 1587年2月7日、メアリのもとにイングランド政府の使者が訪れ、彼女に対する死刑執行令状を読み上げた。メアリは立ち会いの僧侶にカトリックのそれを呼ぶことを望んだが、使者はこれを拒絶して国教会の僧侶を呼ぶことを彼女に告げた。メアリはきっぱりと断った。

 メアリは従者たちに金品を分け与え、彼等の保護をフランスの親類に頼む手紙を書き、自分はその所持する中で最も豪華な衣装を着て刑場に向かうことにした。

 翌8日、真紅のビロードで縁取りした黒絹の下衣に繻子の上衣を纏い、カトリックであることを示す象牙の十字架を頸にさげ、うしろに6人の従者をしたがえたメアリの姿が刑場にあらわれた。

 黒い布で覆われた刑場には約200人の見物人が集まっていた。刑吏が死刑執行令状を読み上げ、国教会の僧侶がメアリに対しカトリックからの改宗を勧告した。メアリはここでも己の信仰を貫き通し、伝統的なラテン式の祈祷を行った。人々の見守るなか、メアリはまず自らの霊魂のために祈り、ついでエリザベスのために、スコットランド・フランス・イングランドのために、最後に息子ジェイムズのために祈り、そして従者の手をかりて黒の上衣とヴェールとを脱ぎ去った。下衣の紅い縁取りが人々の眼を奪う。女王に相応しい、威厳と美しさに満ちた最期の舞台。刑吏に促されるまでもなく、メアリは自ら断頭台の上へとその首を差し出し、刑吏が彼女の両手をしっかりとつかまえた。大斧は3度ふり降ろされた。享年44歳。亡骸はピータバラ寺院に葬られ、後に息子ジェイムズの意向によってウェストミンスター・アベイへと移された。メアリの最期の地となった刑場フォザーリンゲー城はこの時のジェイムズの命により、跡形も名残も残さず破壊されたという。

 1603年3月24日、イングランド女王エリザベス1世が70歳で亡くなった。生涯独身を貫いた彼女には当然子供がおらず、自分の後継者についても何等の意向ももらしてはいなかった。しかし、晩年の彼女がスコットランド国王ジェイムズ6世に送った手紙にはイングランド王位継承をほのめかすものがあり、その意を受けた宰相セシルもジェイムズとの極秘交渉をはじめていた。

 そしてエリザベスの崩御、特使ロバート・ケアリーが3日3晩馬車を飛ばしてエディンバラに向かい、ジェイムズのイングランド王位継承決定を報告した。イングランド国王ジェイムズ1世の誕生である。この日からスコットランド・イングランド両王国は同一人の国王を戴く同君連合となり、それ以後現在に至る400年、王朝は幾度かかわれども、ふたつの国の国王は常にジェイムズ1世の子孫がつとめている。現在のイギリス王家は処女王エリザベスの血ではなく、断頭台にたおれたメアリ・スチュアートの血を受け継いで今日に至っているのである。

                       

おわり

   

   参考文献

『スコットランド王国史話』 森護著 大修館書房

『スコットランド絶対王政の展開』 G・ドナルドソン著 未来社

『イギリス史1』 青山吉伸著 山川出版社

『イギリス史』 大野真弓著 山川出版社

『イギリス史1』 トレヴェリアン著 みすず書房

『イギリス国民の歴史』 グリーン著 篠崎書林

『図説英国史』 石川敏男訳 NCI社

『世界の歴史7』 赤井影著 社会思想社

『通俗世界全史10』 坪内逍遥監修 薄田斬雲編述 早稲田大学出版

『世界悪女物語』 澁澤龍彦著 河出書房新社

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