ネルソン提督伝 第5部 ナポリ

   エマとの再開   目次に戻る

 アブキール湾の海戦から50日ほど経った9月の22日、ネルソンは旗艦「ヴァンガード」と「カローデン」「アレグザンダー」を連れて中立国ナポリの港に入った。艦の修理と補給のためである。ネルソン自身も、頭部の負傷の後遺症と思われる激しい頭痛と吐き気に悩まされていた。本当ならこのまま本国に帰って長期休暇をとりたいところだが、戦局全体を考えるなら、このまま地中海に踏みとどまってアブキールの勝利をイギリスの勢力拡大へと繋げていかねばならない。ナポレオンがエジプト遠征にかかずらっている間にもイタリア方面のフランス軍が活発に動いており、ローマ教皇領を占領して教皇を拉致したりしていた。フランス軍はさらにスイスを制圧して傀儡政権「ヘルヴェティア共和国」を樹立した。

 フランスの動きに怯えていたナポリ政府はイギリス艦隊の大勝に大喜びしていた。イギリス本国も熱狂に包まれ、議会からネルソンに対し「ナイル男爵」の位と2000ポンドの恩給が授与された。もっと高い位を贈ってはどうかという意見もあったが、議会は「今回の戦闘におけるネルソンの立場は地中海艦隊司令長官のジャーヴィス提督から艦隊の一部を預かっていたというものであり、司令長官でない人間に男爵より上の位を贈った前例がない」と説明した。しかしまぁそんなことは大した問題ではない。さらに海戦に参加した艦長全員に金メダルが贈られ、各艦の副長全員が昇進させられた。ネルソンは戦闘に加わる前に座礁してしまった「カローデン」のトルーブリッジ艦長とその副長がこの措置からこぼれないように手を打ち、捕獲したフランス艦のうち損傷が激しすぎて焼却した艦についても拿捕賞金が貰えるように処置した。拿捕賞金に関する手続きを担当したのは、ケベックにいた頃(アメリカ独立戦争の時)のネルソンの拙速な結婚話を思いとどまらせたアレグザンダー・デイヴィソン氏で、彼は一般の水兵にも大盤振る舞いした。

 そして、ネルソンはナポリで5年ぶりに駐ナポリ英国大使の妻エマ・ハミルトンと再開した。ネルソンとエマは前に会った時からずっと手紙のやり取りを続けており、2ヶ月前にエジプトに向かうフランス艦隊を捜索していた最中のイギリス艦隊がナポリ領のシチリア島に立ち寄った時には、ネルソンはエマに対しナポリ宮廷を動かして欲しい旨を手紙で要請し、そのおかげで艦隊は必要な物資を調達することが出来た(ということになっている。実際にエマの政治力がどの程度のものであったかはよく分からない)。そんな訳もあってアブキール湾の勝利を誰よりも喜んでいたエマはこの時30代の前半、以前に会った時と比べて太ってきてはいたが、その美貌はまだまだ衰えていなかった。

 ここでエマの前半生について簡単に触れておく。彼女は1765年頃にイギリス本国のチェシャー州の鍛冶屋の娘として生まれたが幼時に父を亡くし、12歳頃にロンドンに移り住んで女中の仕事を始めた。貧困階級の出身で言葉に田舎訛りがあり、軽はずみでとっぴなところがあったが、基本的に性格が良く美貌に恵まれていたために周囲の男たちの注目を集め(一説によると売春もやっていたという)、やがてハリー・フェザストンホーという貴族の妾になった。ところがハリーはエマの妊娠が発覚すると彼女を捨ててしまい、エマは今度はチャールズ・グレンヴィルという国会議員の妾になった。エマの生んだ子供は養子に出された。

 エマとチャールズの関係は良好であったが、正式の結婚はしなかった。チャールズはグレンヴィル伯爵家のぼんぼんで、下層出身のエマとは身分が違ったからである。しかもチャールズは貴族とはいっても次男であったことから親の財産を相続する見込みがなかったため、どこかの資産家の娘との結婚を望むようになった。そんな訳でエマの存在が邪魔になってしまったチャールズは、彼女を叔父のウィリアム・ハミルトンに譲ることにした。ウィリアムは数年前に妻と死別しており、チャールズの負債を引き受けるという条件でエマを貰い受ける(妾にする)ことにした。ウィリアムはエマより30歳ぐらいも歳上で、そのとき既に大使としてナポリに赴任していた。

 チャールズのことを本気で愛していたエマはこの措置にかなり怒ったものの、やがてウィリアムに惹かれるようになり、1791年には正式の結婚を果たした。妾から正妻に昇格するのは当時としては異例のことであった。ウィリアムがエマのことをそれだけ気に入ったということであり、エマの方も、下層出身の自分を上流階級の貴婦人(大使の妻)という身分まで引っぱり上げてくれたウィリアムに深く感謝した。

 その後のエマはウィリアムに相応しい配偶者になるためにイタリア語やフランス語を勉強し、ナポリの宮廷に出入りして人気者となった。言葉からは田舎訛りが抜けなかったもののナポリの宮廷でイタリア人を相手に喋る限りにおいては全く問題にならなかったし、美貌に加えて歌も上手だったことがナポリ王妃を始めとする多くの人々の心を掴んだのである(イギリスからナポリにやって来た人々だけが陰でエマの田舎訛りを嘲笑した)。
 
 そして……、ネルソンはナポリに着いた直後に過労で倒れたためにハミルトン家の別荘で療養することになり、最初はエマのもてなしに辟易しないでもなかったらしいのだが、やがて親密な仲になってしまった。また、彼はナポリに着いた当初はさっさと(補給と修理を済ませたうえで)エジプトに戻ってそちらのフランス軍を監視している味方に合流するつもりでいたのだが、ナポリ王国政府の要請もあってこのままナポリを活動のベースに定めることにした。マルタ島やツーロンのフランス軍を監視するための命令を発し、さらにナポリ王国政府を親イギリスにつなぎ止めるための手を打つ。(しかし、ネルソンは最初からナポリもしくはシチリアで仕事をするつもりでいたという資料もあり、当サイト管理人にはどちらが正しいのか分からない。どちらにせよ、この当時のネルソンはほとんど誰の束縛を受けることもなく自由に行動していた。通信手段が未発達な時代だったが故である。ジャーヴィス提督の方は11月7日にスペイン領のミノルカ島を攻撃、占領した)

   パレルモ   目次に戻る

 エマは既に述べたようにナポリの宮廷に出入りしており、ネルソンはその伝手からナポリの政界へと首を突っ込んで行った。当時イタリア中部のローマにはフランス軍が駐留していたため、ネルソンはそれを攻撃するようナポリ国王フェルディナント4世を唆した。ナポリが動けば、現在中立のオーストリアも動いてくれるだろう。というより、まずナポリ軍を動かして1勝することでオーストリアを再び対フランス戦にひっぱりこもうというのがネルソンの考えた戦略であった。この話に乗ったフェルディナントは11月に4万の軍勢を動かして見事ローマを占領、しかしたちまちフランス軍に反撃されて敗退した。この時のナポリ軍のあまりの弱さについてネルソンは、「ナポリの軍人はたいして名誉を失った訳ではない。もともと失えるほどの名誉などなかったのだ」と論評した。オーストリアはフランスと再戦する意志はあったが準備不足で動けなかった。

 フランス軍はさらにナポリ領に侵攻する構えを見せた。この事態に驚いたナポリ王家は王国の第2の都市であるシチリア島のパレルモに避難することにした。彼ら王侯貴族と財宝一切の運搬はネルソンの旗艦「ヴァンガード」が担当する。12月16日に乗客と財宝を満載して港を出たところで暴風雨に遭遇した「ヴァンガード」の艦内ではナポリ王子の1人が亡くなり、他の乗客も大混雑の中で恐怖に怯え船酔いに苦しんだ。彼らの間を行き来しては元気づけてまわるエマの気丈な姿を見たネルソンは、もはや彼女なしでは生きて行けないと思う程になった。それに、ナポリ国王夫妻がネルソンに泣きつき、自分たちを見捨てないでくれと懇願した。当時のナポリの支配階級はとても腐敗しており、ネルソンには援助を求めるのに、ネルソンが食糧(ネルソン艦隊用の食糧ではなく艦隊がフランスの手から奪取した小島の住民のための食糧)の補給を頼んでくるとこれに応じるのを渋るという有り様であって、ネルソンを非常に苛立たせていたが、彼は先のローマ攻撃について責任を感じていたし、物事に対して適当に距離を置くということが出来ない性分のため、パレルモから全く離れられなくなってしまった。

 年があけて1799年の1月27日、ナポリ王国領の大半を攻略・制圧したフランス軍はそこに傀儡政権「パルテノペー共和国」を樹立した。この政権はナポリの中産階級やリベラル貴族(フランスの革命思想に共感していた)の支持を集めることには成功したが、一般庶民の多くはパレルモにいる国王フェルディナントにあくまで忠誠を誓うつもりでおり、後者はやがて枢機卿ファブリツィオ・ルッフォに率いられて反共和国・反フランスのレジスタンスを開始した。しかし「レジスタンス」と言えば格好はいいが、彼らは共和国派の町を占領する度に残虐行為を繰り広げた。ネルソンはトルーブリッジ艦長に小戦隊を与え、ルッフォ軍を海から支援させた。

 6月、地中海艦隊司令長官のジャーヴィス提督が病気療養のために本国に帰り、替わって副司令長官のキース提督が司令長官職に昇格した。ネルソンは自分こそが司令長官の任に相応しいと思っていたのでこの人事には機嫌を損ねた。キースの方はナポリでのネルソンの行動を「愚かでうぬぼれきったふるまいで、およそばかげた姿をさらしている」と酷評した。

 ネルソンはパレルモでもハミルトン家所有の屋敷に入り浸りになり、エマとべったりになっていた。それでいながらエマの旦那のウィリアムとも親密にしていたのだからよく分からん話で、いや、それぐらいならともかく、ネルソンは次第に軍務よりもハミルトン夫妻との交遊を重視するようになり、そのことがあちこちで好奇心半分の噂になって語られるという事態に立ち至った。また、ネルソンはそれまでずっと午後10時就寝、午前5時起床で博打にも関心を示さなかったのに、ハミルトン邸で徹夜で行われるパーティーに出席し、エマに付き合ってカード賭博に銭を出したりするようになった。ネルソンとハミルトン夫妻の周囲は怪しげな人間たちで一杯になった。

 これを心配したトルーブリッジ艦長がネルソンを諫言しようとするとたちまち激しい敵意を向けられるという始末である。エマとは肉体関係までは結んでおらず、つまり2人はプラトニックな仲なのだから世間にどうこういわれる筋合いはない、とネルソンは主張した。それはどうやら(1799年の時点では)嘘ではなかったらしいのだが、やがてネルソンはエマの肉体に溺れてしまい、「そなた以外、この世のどこの女もまねのできないあのようなふるまい」とかについて熱っぽく語るようになった。ウィリアムは間違いなく妻とネルソンの不倫を知っていたが、特にそのことについて不満を漏らしたりはしなかった。子供のいないウィリアムはネルソン(ちょうど親子ほどに歳が離れている)のことを非常に気に入っており、ネルソンの方も名門貴族の出身であり火山の研究や美術品の収集で有名だったウィリアム(ゲーテやモーツァルトと会ったとこもある)に憧れていたという。エマとウィリアムの関係も特にこじれることもなく、その点でウィリアムは外交官としての優れた手腕を発揮したのだという皮肉めいた評価もある。しかしネルソンとトルーブリッジの関係はかなり冷却化してしまった。

 その頃、オーストリアがフランスとの戦闘を開始し、その他のヨーロッパ諸国も続々と対仏宣戦を布告、イギリスと結んで「第2回対仏大同盟」を結成した。いうまでもなくアブキール湾でのネルソンの圧勝に勇気づけられたからである。イタリア方面のフランス軍は対仏同盟軍に押されて本国への撤収を開始し、ナポリの旧領はルッフォ軍によってどんどん解放されていった。この情勢に危機感を抱いたフランス政府は(フランス本国の)大西洋沿岸のブレスト港にいた戦列艦24隻その他の大艦隊を出撃させることにした。ブレストはイギリス艦隊に封鎖されていたのだが、フランス艦隊は靄に紛れて封鎖を突破、地中海へと進入した。これに呼応してカディス港に籠っていたスペイン戦列艦17隻も出撃したが、こちらは暴風雨に遭遇したためフランス艦隊に合流出来なかった。

 フランス艦隊出撃の報を得たキース提督はそれまで地中海のあちこちに散らばっていた地中海艦隊の各部隊に対しミノルカ島の沖に集結せよとの命令を発したが、ネルソンは自分の指揮下の戦列艦のうち10隻にミノルカに行けと指示したのみで自分はバレルモから動こうとしなかった。エマから離れたくないからである。(ネルソン本人は「自分がパレルモにいなければナポリは危機的情況に陥るから動かないのだ」と説明した)

   醜聞   目次に戻る

 しかし問題のフランス艦隊の目的地がどうやらナポリらしいという情報が入ったため、ネルソンも重い腰をあげて旗艦「ヴァンガード」に乗り込み、とりあえず手許の艦艇をシチリア島の西に集結させた。ルッフォ軍の支援にはトルーブリッジに替えてエドワード・フッド艦長(これまでに登場した2人のフッド氏とは別人)のフリゲート艦「シーホース」をあてる。やがてフランス艦隊はツーロンに入港し、ネルソンのところにはイギリス本国から戦列艦4隻が来援した。ネルソンはそのうち80門搭載の「フドロイアント」に将旗を移した。艦長はエドワード・ベリーである。実は彼はアブキール湾の海戦の後に勝利の第一報を告げるために小型艦で本国に帰る途中でフランス艦に捕まってしまい、その数ヶ月後に捕虜交換で釈放されたところであった。

 ちなみにペリーが不在の間に「ヴァンガード」の艦長をつとめていたのはトマス・ハーディであった。彼は96年のエルバ島撤収作戦に参加し、その時に見せた勇敢な行動でネルソンの目にとまっていたことは本稿でもだいぶ前に説明した。彼(ハーディ)はベリーが戻ってきたので一時本国に帰ることになったが、後でまたネルソンの旗艦の艦長となる。感情の揺れが激しいネルソンと比べてハーディは物静かで芯が強く、しかも大柄で貫禄のある体格であったことからネルソンの目には非常に頼もしく映ったようである。彼と比べれば能力的に見劣りしたべリーは次第にネルソンと疎遠になっていった。(べリーの外見は繊細で華奢、性格は直情径行型で、ハーディとは正反対であった。それから、ネルソンの下で「アガメムノン」や「シーシウス」の艦長をつとめ、サンヴィセンテ岬の海戦やテネリフェ島攻略、アブキール湾の海戦にも参加したラルフ・ミラー艦長は、アブキール湾の海戦の後もエジプト方面にとどまっていたが、99年の5月に事故で亡くなった)

 ナポリ領におけるルッフォ軍の勝利は目前に迫っていた。ルッフォ枢機卿はフランス艦隊が来襲したら厄介なのでその前に戦闘を終わらせてしまおうと、フッド艦長に仲介を頼んで共和国派の生き残りに対し休戦を提示した。速やかに降伏するならフランスに退去させてやる、と。共和国派はこれを受諾したが、その話を聞いたネルソンがやってきた。ネルソンは共和国派を見逃してしまうのは言語道断だと考え、ナポリ国王からは共和国派を反乱者として扱えという命令しか出ていない(無条件降伏しか受け付けない)と言ってルッフォ枢機卿と睨み合った。

 両者の話し合いの結果、共和国派の人々は船に乗せられたので、そのままフランスに亡命出来るのかと思った(ネルソンがルッフォに譲歩したように見えた)が、やがてパレルモのナポリ国王のところに連れて行かれた。結局彼らの大半はフランスに送還されたのだが、その前に約100名が(国王の官憲の手で)絞首刑に処せられた。この件についてネルソンは、共和国派は無条件降伏したのだ(自分はルッフォに譲歩したつもりはないし、共和国派も無条件降伏であることを十分に納得したうえで船に乗ったのだ)と説明しているが、それは全くの嘘でネルソンは最初から共和国派を騙すつもりだった(ルッフォに譲歩したようなそぶりをみせて共和国派を船に乗せた)という説や、ネルソンとルッフォの話し合いを通訳していたウィリアム・ハミルトンがイタリア語の出来ないネルソンを意図的に勘違いさせたのだという説がある。

 その時に死刑になった人々の中に、フランチェスコ・カラッチオーロという提督がいた。彼は95年のジェノヴァ湾の海戦の時にナポリがイギリスに味方して派出した戦列艦を指揮していたという人物である。裁判で絞首刑を宣告された彼はネルソンに対し、軍人らしく銃殺刑にしてくれと頼んだが、ネルソンはこれを取り合わなかった。ネルソンがこの件に関してどの程度口出し出来る立場だったのかはともかく、このような厄介で気の滅入るような問題に深く関与したことは彼の名声を深く傷つけることになってしまった。ナポリの人々の間には、いまだにネルソンに対する感情的なしこりが残っているという。

   ナポリ戦の終結   目次に戻る

 ナポリ領での戦いはまだ終わっていなかった。共和国派は片付いたが、フランス陸軍がいくらか駐留し続けていたのである。ネルソンはトルーブリッジ艦長に1000名の水兵を与えて上陸させ、ナポリ軍(国王軍)によるフランス軍攻撃に協力させた。トルーブリッジは味方のナポリ軍について、「国民として堕ちるところまで堕ちたこの連中」とか「とんだ食わせもの、悪人ぞろいで、いっしょにいるのも苦痛」とか言いたい放題言っている。

 やがてツーロンからフランス艦隊が出撃してきた。キース提督はこれと対決するためにネルソンに自分のところ(キースはその頃ミノルカ沖にいた)に来るよう命じたが、ネルソンは3隻の戦列艦を派遣したのみで自分は相変わらずパレルモに留まり続けた。トルーブリッジの水兵たちがナポリ領の内陸奥深いところに出向いていたため、彼等を急には呼び戻せなかった(艦を動かす人員を揃えられなかった)からである。

 ネルソンはこの不手際について海軍本部の叱責を受けた。まぁ結局フランス艦隊は積極的な行動はせずに母港のブレスト(大西洋沿岸)に帰投し、トルーブリッジとナポリ軍の方はなんとかフランス軍を降伏させて戻ってきた。これでナポリ領での戦いは終結した訳であるが……、しかしネルソンはフランス艦隊が母港に帰ってしまったことについて、キース提督が無能だったせいで捕捉出来ずに逃がしてしまったのだと思った。キース提督の方は、ネルソンが自分の命令を遵守しないことやパレルモで遊んでいることを不快に思いつつも、大目に見てやっていた。その一方でナポリ国王がネルソンに「ブロンテ公爵」の位と、年間3000ポンドの利益を生むという領地を賜った。位はともかく領地というのは実は辺鄙な荒れ地で3000ポンドとかいうのは大嘘だったようだが……。

 8月23日、エジプトに孤立していたナポレオンが少数の部下を率いて小型艦に乗り込み、イギリス艦隊の監視をかいくぐってフランス本国へと舵を向けた。もちろんエジプト遠征軍の大半は置いて行かれた訳で、それらは1801年6月30日にイギリス軍の軍門に降るまでしぶとく戦い続ける訳だが、とりあえずナポレオンは10月19日には無事フランス本国に到着した。当時のフランスはナポリ以外の戦線でも絶不調で対仏同盟軍に連敗を続けており、たとえばナポレオンが第1次イタリア遠征の時にこしらえたイタリアの傀儡諸国はどれも崩壊していたが、それに対処すべきパリの政府は内部抗争に明け暮れて民心を失っていた。軍勢をエジプトに捨ててきたナポレオンはそのことについては全く糺弾されず、むしろこの危機的情勢を打破しうる英雄として大いに期待された。アブキール湾の海戦でネルソンに負けたとはいってもナポレオン自身が直接戦って負けた訳ではなかったし、むしろ彼は(エジプトでの)陸戦では何度も輝かしい勝利をおさめており、かつてのツーロンの戦いやイタリアでの戦勝の数々もまだ色褪せてはいなかった。

 そして11月9日、ナポレオンはクーデターを起こして政府を打倒、独裁的権力をその手におさめたのであった。

   マルタ島攻略   目次に戻る

 その頃のネルソンの仕事はマルタ島の攻略であった。マルタ島はナポレオン軍がエジプトに攻め込む途中に占領、それ以降はヴォーボア将軍の率いる約5000名のフランス軍部隊が守備しており、これをボール艦長の率いるイギリス軍の小戦隊が封鎖していた(後にトルーブリッジも参加)。封鎖はもう16ヶ月も続いていたが、ネルソンはここ4ヶ月の間マルタ島に近寄ろうともしなかった。ただしこれは単純にサボっていたとかそういう訳ではなく、占領してしまいたくても陸軍が上陸作戦用の兵力を出すのを渋ったり、補給に関してアテにしていたナポリ政府がまるで非協力的だったりしたからであった。

 やがて、キース提督がパレルモまでやってきた。彼は嫌がるネルソンを無理矢理マルタ沖に引っぱっていったが、そこに偶然フランス側の小規模な増援部隊が(ツーロンから)やってきた。この部隊はネルソンがアブキールで取り逃がした戦列艦「ジェネルー」を含んでおり、それをネルソンの乗組む「フドロイアント」が補足、見事に拿捕した。

 この時のネルソンはそれまでの失態を挽回するかのようなエネルギッシュな采配をみせた。降伏する直前の「ジェネルー」が放った砲弾が「フドロイアント」の帆を打ち抜いたが、ネルソンは側にいた士官候補生の頭をぽんぽん叩き、冗談めかした口調で「なかなかいい音楽(砲声)だろう」と言った。候補生が戦闘の恐怖に怯えているのを見て取ったネルソンは、中世の「百年戦争」の時にイギリスを破ったフランス国王シャルル7世の逸話を持ち出し、シャルル7世は初めて大砲の音を聞いた時には逃げ出したが、後には「偉大な王」と呼ばれたのだよと語った。「したがって、将来の君にも大いに期待しているのだよ」。(フランス嫌いのネルソンが何故そんな例を持ち出したのかは謎)

 この勝利を見届けたキース提督は別用で北イタリアに行くことになったが、その前にネルソンに対し、このままマルタ沖に留まるのが望ましいと語った。マルタの港にはこれもアブキールの生き残りである戦列艦「ギヨームテル」が潜んでいたため、それを拿捕出来ればアブキールの輝かしい勝利に最後の総仕上げが出来るよという親心(?)である。

 ところがネルソンは、体調不良を理由にさっさとパレルモに帰ってしまった。一応「フドロイアント」はネルソン不在のままマルタ沖に残して「ギヨームテル」の拿捕には成功したのだが、それにしてもこの態度はキース提督にとっても本国の海軍本部にとっても腹立たしい限りであった。そんな訳で海軍本部委員会第1委員のジョージ・スペンサーはネルソンに対し、本国でしばし療養してはどうかとの私信を送ってきた。スペンサーとしてはネルソンをパレルモの悪い環境から引き離したいと思った(ネルソンのことを心配した)が故の手紙であったが、その手紙と入れ違いにネルソンの方も本国召喚を願い出る書状を本国に送付した。キース提督の下で働き続けるのが嫌だったのと、その頃ウィリアム・ハミルトンが健康上の理由から駐ナポリ大使の任を解かれてエマともども本国に帰ることになったため、ネルソンも彼らと一緒に本国に戻りたいと考えたのである。マルタ島はもはや陥落寸前となっており、トルーブリッジたちは是非ネルソンに降伏の儀式に立ち会ってもらいたいと考えたが、その思いはネルソンには届かなかった。

   ドイツ旅行   目次に戻る

 1800年6月1日、ネルソンとハミルトン夫妻は本国への帰路についた。まずパレルモから船でイタリア中部まで行き、そこから陸路でドイツを経由するというルートである。本当はネルソンは「フドロイアント」で帰りたかったのだが、キース提督が戦列艦を手放すのを嫌ったのと、たまたまナポリ王妃が実家のオーストリアに帰るところだったので、途中まで彼女と一緒に行くためにも陸路を選択したのであった。ちょうどその頃、ナポレオンが「第2次イタリア遠征」の軍を起こして北イタリアへと侵攻してきていた……戦史に名高い「ナポレオンのアルプス越え」はこの時のエピソードである……ため、ネルソンを引き止めようとする声もあったし、エマとの関係について批判する人も多かったが、基本的にネルソン一行はどの町でも大歓迎を受けた。特にウィーンではオーストリア皇帝に歓待され、高名な作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンにも会って意気投合、プレゼントを交換し、歓迎のコンサートに招待されたりした。その席ではエマがハイドンのひくピアノにあわせてカンタータを歌っている。

 ウィーンではさらに元コルシカ総督のギルバート・エリオットと再会した。エリオット(その頃公務でウィーンに滞在していた)はエマに関してあまりいい顔をしなかったが、「女にうつつを抜かしているからといって、大活躍している英雄を責めたり、冷遇したりするのはむずかしい。なにしろ、その女ときたら、一介の提督よりももっと賢明な者たちをたぶらかす手練手管の持ち主なのだから」と論評した。ナポリからイギリスまで普通に行けば2〜3週間の距離なのだが、ネルソンとエマはウィーンで5週間半ものんびりし、さらにプラハとドレスデンに1週間滞在、その次は川船で観光しながらエルベ川を下った。ゴシップ誌の記者たちはエマが以前よりもさらに太ってきたことを面白可笑しく書き立てたが、彼女が実はネルソンの子供をみごもっていることに気付いた奴は当事者以外にはいなかったようである。

   ファニーとの別離   目次に戻る

 11月6日、ネルソン一行はイギリス本国のヤーマス港に到着した。アブキールの英雄を迎えた市民たちの歓迎は凄まじく、港に停泊する艦船は全て満艦飾、ヤーマス市長はネルソンに対し名誉市民の称号を贈呈した。ロンドンでは大祝賀会が開催され、市議会は感謝状と、ダイヤを嵌め込んだ黄金の柄の剣を贈呈した。しかし……一般大衆は単純素朴にネルソンを尊敬したが……国王ジョージ3世をはじめとする上流(貴族)階級の人々の多くは、愛人をつれてのんびり帰ってきたネルソンに対して軽蔑の色を隠すことが出来なかった。

 そして、正妻のファニーなのだが……、ネルソンは別にファニーを捨てるつもりはなく、彼女と自分とハミルトン夫妻の4人で一緒に暮らせばいいなどと虫のいいことを考えていた(ファニーもウィリアム・ハミルトンのような「大人の態度」をとってくれると思った)し、エマもファニーに対し愛想良く振る舞った。しかしファニーの方は、エマを受け入れようとはしなかった。

 結局、ネルソンとファニーは別居することになった。この時ファニーが具体的にどういう態度を示したのか……激怒したのか冷静に別れ話を持ち出したのか……は諸説あって不明である。ネルソンはファニーに収入の半分を分け与えたものの、その後の2人は二度と会わなくなった。ネルソンはもともと子供好きだったので、自分の子供を産んでくれなかったファニーよりも、しっかり妊娠してくれたエマの方に情が移ってしまったという事情もあったのだが、ファニーの方はネルソンに対する愛情を完全に失うことはなかったという。また、正式の離婚は最後までしなかった。当時のイギリスの法律では、夫婦間に暴力行為がなければ離婚は認められなかったからである。

 ファニーの連れ子のジョサイアは……、実は彼もエマにのぼせており、義父に対する嫉妬と母親のための義憤のせいでネルソンのことをひどく苦々しく思うようになってしまった。それでもネルソンの方は義理の息子の将来を気にかけてやって、わずか20歳で勅任艦長に昇進させてやったが、もともと海軍の仕事に向いていないと思っていたジョサイアは22歳で休職、その後は実業界で活躍するようになった。

 エマはやがて、ネルソンがファニーと手紙のやり取りをするのも駄目だとか言い出した。ネルソンはファニーが寄越した最後の手紙に「ネルソン卿が誤って開封したが、読まれてはいない」という代理人の裏書きを添えて突き返した。さらにネルソンは、自分の親族たちに対して、どんな形であれファニーと接触することは裏切りと見なすと言い出した。親族たちはファニーとエマとどちらを選ぶか悩んだ末に、1人また1人とファニーを見捨てていった。親族の中で最後までファニーを捨てなかったのはネルソンの父のエドマンドだけであった。しかし、ジャーヴィス提督をはじめとする海軍の知人たちの中にはその後もファニーとの親交を保ち続ける者がいたことは彼女にとって不幸中の幸いであった。

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