ネルソン提督伝 第6部 コペンハーゲン

   対イギリス武装中立同盟   目次に戻る

 さて、ネルソンが放ったらかしにして行ったマルタ島は9月には陥落した。以降のこの島はイギリスの支配下に置かれることになり、ボール艦長が初代マルタ総督に就任した(1809年に死ぬまでこの職をつとめた)。ところが、以前からマルタ島を欲しがっていたロシア皇帝パーヴェル1世がイギリスに対し強い不快感をあらわにした。ロシアは第2回対仏大同盟の主要メンバーの1つであり、イタリア方面に派兵していたが、パーヴェル1世という奴がひどく気まぐれで腰の定まらない人物であった。ロシアは伝統的に地中海に進出したがっており、フランスがエジプトに遠征した時には(ロシアの野心を損なうものと考えて)これに激烈に反発したが、フランスのかわりにイギリスがマルタを占領したらそれはそれでむかつくのである。という訳でパーヴェル1世はまず11月にロシア国内の港湾におけるイギリス商船の出入りを禁止し、さらに12月にナポレオンの要請を入れる形でプロイセン、デンマーク、スウェーデンを誘って対イギリス武装中立同盟を結成した。それらの諸国は第2回対仏大同盟には中立であってフランスと普通に交易していたのだが、フランスに少しでもダメージを与えたいイギリスに対仏貿易を邪魔されて困っていたのであった。だからこれからは力づくでも自分たちとフランスとの貿易を保護するのだ……。今回の中立同盟はアメリカ独立戦争の時に結ばれた同種の同盟と区別するために「第2次武装中立同盟」とも呼ばれている。

 フランス軍の方は6月に北イタリアで発生した「マレンゴの戦い」でオーストリア軍を撃破、イタリアの北半を制圧し、そこに再び複数の傀儡政権をこしらえた。これで一応満足したナポレオンはオーストリアに対して講和を持ちかけたが、オーストリアの方はイギリスの経済援助を頼みとして戦闘を続行した。しかし12月にドイツ方面で発生した「ホーへンリンデンの戦い」もまたフランス軍が勝つ。オーストリアは翌1801年2月の「リュネヴィル条約」でフランスと和睦し、ここに第2回対仏大同盟は解散となった。それでもまだイギリスが対仏徹底抗戦の構えを見せている訳だが、そちらに対しては第2次武装中立同盟の諸国が噛み付いていることであるし、これで一段落ついたと考えたナポレオンは以後しばらく内政に力を入れることにした。税制の改革や産業の振興、「フランス民法典(ナポレオン法典)」の制作に着手する。

   ホレイシア誕生   目次に戻る

 ネルソンの方は、1801年1月1日に中将に昇進、その頃「海峡艦隊司令長官」の任にあったジャーヴィス提督の指揮下に配属となり、120門搭載の戦列艦「サンジョーゼフ」に将旗を掲げた。この艦はサンヴィセンテ岬の海戦の時にネルソン自身が拿捕した「サンホセ」をそのままイギリス海軍の戦列艦として就役させたものである(艦名がスペイン語読みから英語読みに変わっただけ)。艦長はトマス・ハーディである。それからネルソンは海峡艦隊で、少将になっていた旧友コリングウッドと再会している。コリングウッドというのは若い頃のネルソンと親しく付き合い、サンヴィセンテ岬の海戦で奮戦したあの男である。

 この月の30日頃にはエマが女児を出産、ネルソンはその子に「ホレイシア」と名付けた。実は双子だったのだが、片方は死産もしくは産まれてすぐ死んだ(どういう理由でかは知らないが孤児院に入れられたという説もある)。とにかく世間体があるのでホレイシアの誕生は秘密にされ……従って正確な誕生日も分からない……偽の両親の家に預けられることになった。この時期のネルソンはエマとホレイシアのことばかり気にかけて精神的に極めて不安定だったらしく、上司のジャーヴィス提督に「あの男は、いまわたしが占めている地位にすえるのにふさわしい軍人には、決してならないだろう(これ以上出世の見込みはないだろう)」とか論評されている。この頃のネルソンの任務は北フランスの港湾の封鎖とかの退屈な仕事がメインだったため、あれこれ思い悩む時間が多かったと思われる。

 ちなみに、ネルソンとエマが手紙のやり取りをする時には立場上ホレイシアのことを書く訳にはいかないため、ネルソンは「水兵トムソン」という架空の部下をでっちあげ、彼の架空の妻と娘がエマのところで世話になっているという設定をこしらえた。で、ネルソンは「トムソンの手紙」を代筆して「トムソンの妻」に送付し、その中で「トムソンの娘」への愛を語るという訳なのである。無論ネルソンはホレイシアだけでなくエマに対しても愛を語ったが、その際には水兵トムソンを通していない。「わたしがいかにあなたを欲しているか、あなたのからだ、それにあなたと話すことの両方をどんなにほっしているか、あなたには容易に想像ができるでしょう。あなたと寝ることを思うだけでどんなにぞくぞくすることか。心に思うだけでもわたしには火がついてしまいますから、現実だとどんなにすごいでしょう。わたしの愛と欲望はすべてあなたに向かっています。もしこの瞬間にすっぱだかの女がここに来たとしても、今の今まであなたのことを考えていたこのわたしのところに来たとしても、わたしの手が触れたとたんに腐り果ててしまえばよいと思います。そうです。わたしの心も肉体も精神も、わがいとしの、最愛のエマと完璧な愛で結ばれています。彼女の真の心の友、すべて彼女のもの、エマのものです」。

   イギリス艦隊出撃   目次に戻る

 2月、イギリス政府は武装中立同盟に対する実力行使を決意した。イギリス海軍は艦艇を建造するための材木や帆布をバルト海沿岸諸国からの輸入に依存していたため、それらの国々が武装中立とかいってイギリスに歯向かってくるのは黙視出来なかったのである。そんな訳でバルト海遠征のために「バルト海艦隊」が新規編成され、司令長官にハイド・パーカー提督、副司令長官にネルソンが就任することになった。パーカー提督は冒険はしない性格だったが経験豊富で、バルト海について詳しく知っていた。ネルソンはこの任務のために、120門搭載の「サンジョーゼフ」から98門搭載の「セントジョージ」に将旗を移した。今回の作戦海域は喫水の浅い「セントジョージ」の方が役に立ちそうだったからである。艦長は引続きトマス・ハーディがつとめることになった。それから、今回の人事はネルソンの能力を高く買っていた海軍本部委員会第1委員スペンサーの手回しによるものであったが、彼はその直後に発生した政権交替に絡んで辞職し、その後任をジャーヴィス提督がつとめることになった。

 3月12日、イギリス艦隊(戦列艦18隻を含む53隻)は本国のヤーマス港を出帆、武装中立同盟のうちイギリスに最も近いデンマークを狙い、その首都コペンハーゲンを目指して北海を東進した。しかし、パーカー司令長官……若き日のネルソンを庇護したピーター・パーカー提督とは別人……はネルソンのことをあまり快く思っておらず、ヤーマスを出港してから数日後まで今回の任務の詳しい説明を伏せていた。ネルソンはデンマークよりもロシアを先に叩くべきと進言したが、これは却下になった。

 さて、デンマーク王国は地図だけ見るとドイツの北に位置する半島国のようにみえるが、その首都コペンハーゲンは実は半島の東に浮かぶシェラン島の東岸にある。このシェラン島とその東のスウェーデン本土に挟まれた「エーアソン海峡」は北海とバルト海を結ぶ海運の大動脈であり、その北の入口のデンマーク側にはエルシノアのクロンボール城、スウェーデン側にはヘルシングボリ砲台が向かい合って防備を固めていた。イギリス艦隊はひとまずクロンボール城の沖に停泊し、コペンハーゲンに使節団を派遣して最後の交渉に入ったが、デンマーク側はイギリスの要求をすべて拒絶した。使節団が帰ってきたのが23日である。ここにイギリス艦隊はデンマーク側の備えを武力でもって突破し、力づくでその要求(中立同盟からの脱退)を飲ませる決意を固めた。しかし、もたもた交渉している間にデンマーク側の防備が進んでしまっていた。ネルソンはクロンボール城なんかよりもコペンハーゲンの目の前に艦隊を停泊させて(デンマークの首都を直接的に威圧して)交渉した方がいいと言っていたのだが……。

   エーアソン海峡突破   目次に戻る

 エーアソン海峡の北の入口にいるイギリス艦隊にとって、コペンハーゲンに乗り込むにはこのままエーアソン海峡を突破して最短距離で突っ込むか、それともシェラン島の西側のストア海峡を回って南から首都を突くかの2策がある。これについてパーカーはかなり悩んだ末に前者を選択した。ロシアやスウェーデンが動き出す前に(出来るだけ早く)デンマークを叩く必要があったからだが、ぐだぐだ悩んでいる間にまた時間が進んでしまい、しかも考えを決めたすぐ後に天候が悪化したりしてさらに時間を喰ってしまった。その間にネルソンは旗艦を「セントジョージ」よりもさらに喫水の浅い「エレファント」に変更した。同艦の艦長はトマス・フォウリー、彼はアブキール湾の海戦の時にイギリス艦隊の先頭艦をつとめた「ゴライアス」の艦長だった男であり、97年のサンヴィセンテ岬の海戦にも参加していた。

 そして3月30日、ネルソンの指揮する艦隊前衛がようやくのことでエーアソン海峡への突入を開始した。海峡入口デンマーク側のクロンボール城……16世紀のデンマークが生んだ大天文学者ティコ・ブラーエが設計した城……がただちに砲撃を開始、しかしスウェーデン側のヘルシングボリ砲台は何故か沈黙をまもり、おかげでイギリス艦隊はスウェーデンよりの進路をとってデンマーク軍の砲撃を避けることが出来た。

 コペンハーゲンはシェラン島の東岸に位置する港町であり、港のやや沖合には「ミッデルグラウンド」という大きな砂州(船舶の航行は不可能)が広がっている。デンマーク軍は港とミッデルグラウンドの間の水域「王の水路」に南から北へと軍艦や浮き砲台(巨大な筏の上に大砲を並べたもの)を並べた単縦陣をしいて港町を守る防壁とした。さらに縦陣の北端の部分には「王冠砲台」と呼ばれる強大な人工島がある。艦隊(軍艦と浮き砲台)の指揮はオルフェルト・フィッシャー提督がとり、その将旗は戦列艦「ダンネブロウ」に翻った。港の守備隊まで含めたデンマーク軍全体の総指揮官は王太子のフレデリック王子であるが、フィッシャー提督は王太子以外に「防衛委員会」という組織にも報告義務を持たされていた。また、艦隊の全部がフィッシャーの直接指揮下にあった訳ではなく、一部の艦はシューテン・ビレ提督の指揮を受けることになっていた。

 30日午後にコペンハーゲンの沖20キロに到達したイギリス艦隊で開かれた作戦会議では、当初は王の水路の北側からの進入が企図されていたが、ネルソンの提案によって南側からの突入が決定した。そちらの方がデンマーク軍の防備が手薄だと判断したからである。ただし全艦隊が突入するという訳ではない。イギリス艦隊はネルソン隊とパーカー隊に分割され、前者のみが水路に突入し、後者は王の水路の北側に展開して敵軍を牽制するという手筈となった。この頃にはパーカーとネルソンの仲は(ネルソンが愛想良く振る舞ったので)かなり打ち解けたものとなっており、パーカーは今回の作戦の作成・指示については全てネルソンに一任することにしたのであった。

 4月1日、ネルソン隊はそのとき吹いていた北風を利用して(ミッデルグラウンドの東を通って)南下し、とりあえずミッデルグラウンドの南端に到着、停泊した。ここから針路を90度変更して王の水路の南側の入り口へと突入する訳だが、そのためには風向きが変わってくれるのを待たねばならない。それから、王の水路は岩礁だらけなのだが、座礁の危険を示すブイの類はデンマーク軍によって残らず撤去されてしまっていた。そこでネルソンは密かに測量班を送り込んで岩礁の位置を探り、ブイを設置させた。風については4月2日の未明のうちにおあつらえ向きの南風に変わってくれたのだが、ということは速やかに突入を開始せねばならないため、ブイの設置作業は中途半端のままで切り上げざるをえなくなってしまった。

   コペンハーゲンの海戦   目次に戻る

 4月2日午前9時30分、ネルソン隊が動き出した。「コペンハーゲンの海戦」の始まりである。戦列艦12隻とフリゲート艦5隻、その他19隻が単縦陣をしいて王の水路へと突き進む。隊の先頭はマリ艦長の戦列艦「エドガー」、その後ろに「アガメムノン」が続くが、後者……艦長時代のネルソンが乗組んでいた艦……はたちまち座礁、無事に水路に入った「エドガー」に向けてデンマーク軍が砲撃を開始したのが10時50分である。「エドガー」とそれに続いて水路に入った3番艦「ポリフィマス」はあまり水路の奥に入らずに(3年前の「アブキール湾の海戦」の時と同じように)錨を降ろして腰をすえ、その2隻の右舷側(ミッデルグラウンドの側)を後続の戦列艦がすり抜けて水路を北上していくが、小型艦のかなりの部分は海流の関係で水路に突入出来なかった。

 しかも戦列艦「ベローナ」「ラッセル」が相次いで座礁し、ネルソン隊は本格的な戦闘を開始する前に戦列艦3隻を失ってしまった。だが、いまさら後戻りは出来ない。「アガメムノン」はその後の戦闘に全く参加出来なくなってしまうが、「ベローナ」と「ラッセル」は何とか艦砲の射程内に敵艦を捉えることが出来た。ただし、「ベローナ」のトンプソン艦長は座礁したのとほぼ同じ瞬間にデンマーク軍の砲弾を喰らって片足を失った。彼はテネリフェ島攻略やアブキール湾の海戦でネルソンと一緒だった。

 11時30分にはネルソン隊の残りの戦列艦すべてが水路に入って戦列をしき、デンマーク艦隊と約500メートルの距離をとって激烈な砲撃戦を展開した。普通ならイギリス艦隊の指揮官たるものはもっと敵に近寄って戦うのを好むのだが、各艦に乗組んでいた水先案内人たちが座礁をひどく恐れたため、あんまり近寄れなかったのである(しかし実際には敵に近いところの方が水深があって座礁の可能性が低かった)。デンマーク軍の砲撃は相当のもので、ネルソンは「激戦だね。一瞬にして今日のこの日が、われわれの誰にとっても、最後の日になってもおかしくはない」と述べた。「しかしいいかね、千万金を積まれたって、ここは離れたくはない」。ある艦では食糧をいれた籠に砲弾が命中して中身が飛び散ってしまい、水兵たちはそれを拾って食べながら砲撃を続行した。

 水路の一番奥(北の入口)に位置する王冠砲台に対しては戦列艦3隻をあてる予定であったが、その3隻が座礁して動けなくなるという非常事態のため、エドワード・ライオウの率いる率いるフリゲート艦部隊が(独自の判断で)挑みかかった(彼らに与えられていた任務は「状況を睨みながら独自に行動せよ」というものであった)。ライオウは前日にブイの設置作業を担当していたため、僚艦が座礁したことに責任を感じていたと思われる。デンマーク側では旗艦「ダンネブロウ」が早々と炎上、フィッシャー提督は他の艦に将旗を移した。

 ちなみに「ダンネブロウ」を撃破した戦列艦「グラットン」のウィリアム・ブライ艦長は、ハリウッド映画で有名な小型艦「バウンティ」の艦長だった人物である。彼は1789年に海尉艦長の身分で「バウンティ」を指揮して南太平洋のタヒチやトンガに出向いた際に部下の反乱にあって艦を乗っ取られたが、そこから(反乱に加わらなかった部下18名と共に)無蓋のボートに乗って41日に及ぶ航海の末に難所トーレス海峡を突破、(部下を1人も失わずに)ポルトガル領のチモール島に辿り着き、無事にイギリス本国まで帰ってきた。反乱事件の責任を問われて軍法会議にかけられるも無罪となり、90年に勅任艦長に昇進、その後ずっとフランスとの戦いに参加し続けていた。

 彼はハリウッド映画で強調されているような横暴な艦長ではなかった(では何故に反乱を起こされたのかというと、これがはっきりしない)のだが、しかし好人物という訳でもなく、今回のコペンハーゲンの海戦が終わった後に公式の席でネルソンに「ダンネブロウ」撃破の件で褒められた際に、その言葉を文書で示してくれ(感状をくれ)とか言って相手を辟易させたという。以下はネルソンが他人に送った手紙の一節。「ブライ艦長は感状がほしいと言ってきた。そんなものはまったく必要のないものだが、断ることも出来ない。ブライの今回の殊勲は、わたしから感状をもらったからといって、それで名誉が増すわけでもないのに」。

   16番の信号旗   目次に戻る

 話を戻して……、戦闘開始後約2時間が過ぎた午後1時、デンマーク側の戦力いまだ衰えずを見たパーカー提督は、これ以上の戦闘は味方の損害を増すばかりであると判断、ネルソンの旗艦「エレファント」に向け艦隊信号第39番の旗を掲げた。これは「撤退セヨ」の意である。これを確認した「エレファント」の信号担当海尉がその旨をネルソンに報告したが、聞こえなかったようなのでもう一度報告しようとした。ところがネルソンは「それには及ばん。ちゃんと了解しているよ」と返事し、続けて「私の16番はまだ掲げているだろうな。絶対に降ろすなよ」と言った。16番とは「交戦セヨ」の意である。ネルソンは撤収する方が危険であると判断したのである。その時ネルソンの周囲にいた人々は、ネルソンの右腕の切り株がピクピク動いているのを見た。極度に興奮するとこうなるのである。

 さらにネルソンは信号担当海尉に向かって「君は39番を知っているよな。ところで、何で私が退却せないかんのかね」、旗艦艦長のフォウリーに向かって「私は片目だよ。時には盲にもなろうさ」、そして失明している方の目に望遠鏡を押し当てて、「何ィ、艦隊信号だと。私には本当に何も見えんぞ」「16番は釘付けにしておけ。それが私の応答信号だッ!」とのたまった。この時のパーカーの信号が「明確な命令」だったのか、それともある程度の自由裁量を許すものだったのかははっきりしない。とりあえず、ネルソンは海戦が終わった後もこの件に関しての責任を問われることはなかった。

 ともあれ、このエピソードのせいで後世、「臆病なパーカー、勇猛なネルソン」という評価が定着してしまうのだが、この海戦までのパーカーの経歴は至極立派なもので、アメリカ独立戦争の時にはフリゲート艦の艦長として奮戦し、ベンジャミン・フランクリン(18世紀のアメリカを代表する政治家兼外交官兼物理学者兼気象学者兼著述家)の設計した防御施設を突破したり、ハリケーンで沈んだ艦からほとんどの乗組員や物資を救い出すことに成功したこともある。のだが、今回のコペンハーゲン攻撃作戦の総指揮を仰せつかった時には既に60歳を過ぎていて気力衰え、任務の重大さに押し潰されそうになって不眠症に苦しんでいたという。

 また話が逸れてしまった……、ネルソン隊の全部が水路の中に踏みとどまった訳ではなかった。隊の一番北(つまりパーカー隊に一番近いところ)にいたライオウのフリゲート部隊が「我々のことをネルソンはどう思われるだろう」と言いつつもパーカーの信号旗に従って撤収しようとしたのである。が、彼らは周囲の様子を見ようと、砲撃を停止して砲煙がひくのを待つという大失敗をおかしてしまった。それまではもうもうたる砲煙で艦の姿がうまく隠されていたのに、やがて煙がひいて丸見えになったライオウの乗艦「アマゾン」は針路を変えたところでデンマーク艦からの正確な縦射の的にされ、ライオウを含む多数の将兵の戦死という犠牲を払ってしまったのである。「縦射」とは、大砲で相手艦の艦尾から艦首へと撃ち抜くことである。当時の軍艦は戦闘時には砲手の行動や命令伝達を敏活にするために艦内の隔壁を全部取り払っていたため、艦尾からぶちこまれた砲弾は何ものにも遮られないまま(艦内にいる乗組員を片端からなぎ倒しつつ)艦首部まで飛んでいってしまうことがあったのである。

 ちなみに「隔壁を外す」というのは、敵の砲弾を喰らった時に(隔壁の)破片が飛び散らないようにするという意味もあった。粉々になった木の破片が周囲の乗組員に突き刺さる(下手すれば死ぬ)ことがよくあるからである。しかし隔壁を外したら外したで砲弾を遮る遮蔽物がなくなることになるのだから難しい話である。戦闘中は邪魔になりそうなものは残らず喫水線より下の船倉に片付けるかボートに積み込んで艦の後ろに曳航し、時間がなければ海中に投棄した。艦内で飼っている家畜が海に放り出されてそのまま溺れ死ぬこともあった。

   休戦   目次に戻る

 この海戦において、水路内で戦列をしくことが出来たイギリス側の戦列艦は9隻(とフリゲート艦5隻その他)、対してデンマーク側の戦列艦も9隻(とフリゲート艦14隻その他)であった。王の水路の北側にいたパーカー隊は、風向きの関係でなかなかネルソン隊を支援することが出来なかった(この日の風向きはネルソン隊が水路に南から突入するためにはバッチリであったが、水路の北にいたパーカー隊にとっては逆風になるので具合が悪い)。デンマーク軍の砲術はネルソンの予測を越える優れたものであったし、(デンマーク軍は)いくら死傷者が出たところで、陸上の陣地からただちに補充を仰ぐことが出来、小型艦の中にはネルソンの旗艦「エレファント」の艦尾真下にまでもぐり込んでくるものもあった。しかし艦の大きさと乗組員の練度ではイギリス軍の方が優勢であったし、デンマーク側の補充要員は数は多かったが練度が低くてあまり役に立たなかった。そんな訳で、デンマーク艦隊の砲撃は午後1時45分頃には衰え出し、イギリス艦に降伏する艦も出てきた。デンマーク艦隊のフィッシャー提督はまたしても乗艦を失い、王冠砲台に移動した。ネルソンの上にはパーカーしかいなかったが、フィッシャーの上には王太子と防衛委員会がおり、ビレ提督の隊に命令する権限もなかったため、ネルソンとくらべて実に不自由な采配しか振るえなかった。

 しかし、イギリス艦隊に降伏の意志を示した(軍艦旗を降ろした)デンマーク艦の中には、それにもかかわらずその後も引続き砲撃を続ける艦も存在した。これは、陸地からどんどん補充されてくる新兵が状況をよく理解出来ないまま夢中で戦闘を続行してしまったということであったらしいのだが、とにかくそんな状況ではまずいと判断したネルソンは午後2時頃、デンマーク政府に対し休戦を勧告する書状を送ることにした。休戦に応じなければ降伏艦(軍艦旗を降ろしている艦)を全て焼き払う、その際には負傷者を救出する余裕はない、という脅し文句を挿入する。無論それは本気ではないし、「その場合それらを守ってきた勇敢なデンマーク人を救う手だてはありません」、と、相手の情に訴える書き方をした。書状はデンマーク語を話せる艦長に託され、彼はとりあえずビレ提督のことろに向かったが、ビレは陸地の王太子のことろに行くよう指示した。

 書状は30分ほどかけて王太子に届いたが、デンマーク艦隊はこのわずか30分の間に急激に崩壊してしまった(その理由は手許の資料に書いてなくてよく分からないが、どうやらパーカー隊が遅ればせながら戦闘に加わってきたから、らしい)。その様子を見た王太子は、とりあえず自分の副官を派遣してネルソンの意向を詳しく聞き出した。ネルソンは「自分の目的は人道にあり、これ以上無益な流血を避けたいのだ」と明言した。しかしこの言が陸地に届く前(午後3時頃)に王太子は戦闘中止の命令を下し、休戦旗を掲げた。

 これでひとまず24時間の仮休戦が成立した。座礁した艦艇を引き出す作業が夜を徹して行われ、デンマーク艦の負傷者も陸地へと搬送された。この「コペンハーゲンの海戦」におけるイギリス艦隊の戦死者は255名、負傷者は650名、艦艇の喪失こそ無かったものの、3隻が座礁する(仮休戦が成立した後にさらに3隻が座礁)という大きな損害を出した。デンマーク側は戦列艦6隻を拿捕され、死傷者は1600〜1800名を数えていた。ネルソン曰く「艦が何隻も座礁し、割り当てられた海域で仕事ができなかったので、わが軍の勝利はわたしの意図していた完璧さにはとどきませんでしたが、このような具合の悪い状況の中で、神さまのおかげで、まあ、あれだけのことができました」。

   武装中立同盟の崩壊   目次に戻る

 海戦の翌日、ネルソンはすぐさま出帆してロシアを叩きにいくべきことを主張したが、パーカーはデンマークとの正式の休戦協定を結ぶのが先だと唱え、結局そのまましばらくコペンハーゲン港に滞留することになった。デンマークは海軍に関しては大損害を出したとはいっても陸軍はまだ無傷なため、その気になれば戦いを再開することが可能であった。そうなってしまうとイギリス艦隊にはデンマークの国土を制圧してしまえるような兵力はないので非常に困るのだが……、交渉を担当することになったネルソンはコペンハーゲン市街への砲撃をちらつかせて休戦交渉を有利に運ぼうとした。対してデンマーク側には、ここでイギリスに有利な休戦協定を結んでしまった場合、武装中立同盟の頭目であるロシアに痛い目にあわされるのではないかという危惧があった。ところが数日後、ロシア皇帝パーヴェル1世がクーデターで暗殺され、息子のアレクサンドル1世が即位したというニュースが飛び込んできた。アレクサンドルは父親と比べれば反イギリス的ではないと思われた。

 そんな訳で4月9日、デンマークが折れる形で正式の休戦条約が締結された。デンマークは「武装中立同盟からの離脱」「各港をイギリス艦隊に対して開放する」「再軍備の禁止」を約束させられ、そのかわりイギリスはデンマークの海岸線の安全を保障してやった。ただし、その当時デンマークの領土であったノルウェーやその他の海外植民地についての安全保障はしなかったので、これは極めてイギリス有利な取り決めであった。イギリス本国政府はネルソンの爵位を男爵から子爵にひきあげ、年金1000ポンドを追加した。

 4月12日、イギリス艦隊はコペンハーゲンを出港、ロシア艦隊の停泊するレヴェル港を目指してバルト海の奥深くへと進入した。ロシアは皇帝が変わったとはいっても武装中立同盟から抜けると表明した訳ではなかったし、スウェーデンやプロイセンの動きも気になったので、これらに対し何らかの手を打っておかねばならないのである。パーカーは例によってもたもたしていたが、彼は5月6日には本国に召喚となり、かわってネルソンがバルト海艦隊の司令長官に昇格した。パーカーは「撤退セヨ」の信号旗のせいで海軍本部の不興を買ったらしく、その後は海上勤務から外されて冷や飯を喰うことになる。

 ロシア海軍はイギリス艦隊との戦闘を避けて港に引き蘢った。しばしの交渉を経た6月17日、ロシアの新皇帝はネルソンと戦うこともなく武装中立同盟を解散、イギリスと和解した。これで万事解決と言いたいところだが、ネルソンはバルト海にいる間に健康を崩し、同月19日にはそそくさと司令長官職を辞して本国に帰って行った(後任の司令長官職にはコール提督が着任した)。エマが他の男と会っているという情報が入ってきていたため、そのことが凄まじく不安でもあった。しかもその「他の男」というのが(イギリスの)ジョージ王太子(後のジョージ4世。女好きのギャンブル狂いだった)であったのだからネルソンが一刻も早く帰りたくなるのも無理は無い。

 そして7月1日、ネルソンはイギリス本国のヤーマス港に到着、以後しばしの休暇を楽しむことになった。この時の彼はハミルトン夫妻と3人仲良く平和に暮らすことだけを考えており、このまま海軍を退役して、以前にナポリ国王に貰った領地に隠遁したいとか言い出した。そこならさすがの王太子も追いかけて来ることはあるまいという訳だが、肝心のエマがそんな辺鄙なところは嫌だと反対したため、とりあえずロンドンの郊外に土地を買ってそこに住むことにした。

   侵略阻止軍司令長官   目次に戻る

 ところが、コペンハーゲンの海戦でネルソンのことを見直していたジャーヴィス提督が、「侵略阻止軍司令長官」というポストを用意して軍務復帰を促した。その頃ナポレオンが英仏海峡沿いの地域に陸軍の大部隊や輸送船を集めてイギリス本土侵攻の構えを見せていたため、それを阻止する責任者の役を是非ネルソンにやってほしいという訳である。

 しかしナポレオンの行動は実のところ単なるハッタリで、全く本気ではなかった。武装中立同盟の崩壊にショックを受けたナポレオンはここいらで態勢立て直しのためにイギリスと休戦したいと思うようになり、そのための下準備として(休戦交渉を有利に運ぶために)イギリスを恫喝しておくのが望ましいと考えたのである。そしてその効果はてきめんで、イギリス国民は非常にビビって侵略恐怖症に陥ってしまったため、彼等を安心させるためにはネルソン……もはやイギリス海軍を代表する英雄……に出てきて貰うしかないとジャーヴィス提督は考えたのであった。

 ネルソンはしばらく渋った末にこの話を受けることにした。エマとはしばしの別れである。「侵略阻止軍」というのはフランス軍のイギリス上陸作戦用輸送船団を蹴散らすための小型艦をたくさん集めた部隊で、ネルソンは32門搭載のフリゲート艦「メドゥーサ」に将旗を掲げた。ネルソンはさっそく「メドゥーサ」で北フランスのブーローニュ湾に偵察に出てみたところ、そこにいるフランス軍が実は張り子の虎にすぎないことをたちまち見破ってしまった。他の港湾も見て回ったが、やっぱり同じである。ネルソンからジャーヴィス提督に宛てた手紙に曰く「例の侵略とやらはどこから来るのでしょう?」。しかし、一般のイギリス国民の侵略恐怖症はなかなか払拭されなかった。どの程度の恐怖感だったかというと、子供が言うことを聞かない時に「黙らないとナポレオンが来るよ」「むしゃむしゃと食べるよ」と脅していたほどであったという。かような状況の打破(国民を安心させる)を狙うネルソンはブーローニュに対する攻撃を企図した。

   ブーローニュ攻撃   目次に戻る

 フランス軍はブーローニュの湾口に小型艦を並べた防御壁を構築しており、その小型艦はケーブルで堅く繋ぎ合わせていた。ネルソンはこの防御陣に対し、まず砲撃を加えてみたが、効果はなかった。そこで次に5つのボート隊を編成し、そのうち4隊が防御壁に接近してケーブルを切断、もう1隊は小型砲を搭載して他の4隊を援護するという作戦を立てた。ボート隊が進発したのは8月16日の夜である。

 ところがブーローニュのフランス側司令官のラトゥーシュ・トレヴィル提督という男がなかなかに優れた人物であった。由緒ある海軍一家の出身で七年戦争やアメリカ独立戦争に従軍し、革命後は反革命派との繋がりを疑われて投獄されたが、1799年に全権を掌握したナポレオンによって海軍に呼び戻されたという経歴の持ち主である。彼はイギリス側の指揮官がネルソンであるとの情報を入手するやその過去の戦法を研究し、アブキール湾の時みたいに隙間を突破されたりしないよう小型艦と小型艦の連結を強化、さらに防御壁の外海側に見張りのボートを配置し、自分は湾口を見下ろす丘の上に陣取って指揮をとった。

 そこに突っ込もうとしたイギリス側のボート隊は序盤から猛烈な砲撃を受けた。しかも潮流の関係で前に進めなくなるボートが出たために各隊バラバラとなり、そこをフランス軍によって各個に撃破されてしまった。戦死者45名、負傷者128名、イギリス軍の惨敗である。この作戦ではネルソンは現場に出ていなかったため、「自分が直接関わっていない状況で攻撃を開始することは、もう2度とふたたび行わないことにします」と反省した。ネルソンはその後死ぬまでこの決意を裏切らなかった。(話がそれるが、この頃のネルソンの部下にスケフィントン・ラトウィッジ少将という人物がいた。彼は若い頃のネルソンが北極探検に参加した時の上官だった人物である。上下関係が逆になってしまったことで感情的にこじれる可能性なきにしもあらずだったのだが、ラトウィッジは何の不平不満も漏らさず、こころよくネルソンをサポートした)

   マートンの新居   目次に戻る

 ブーローニュ攻撃の数週間後、イギリス政府はフランスとの講和交渉に着手した。やっぱりフランス軍は強いと思ったのと、一般国民が長々と続く戦争にいい加減疲れてきていたからである。むろん、ブーローニュの守備隊がネルソンの攻撃を撃退したからといってフランス軍にイギリス本土上陸能力がある訳では全くない(フランスの海軍力はイギリスのそれに遠く及ばないし、そもそも今のところナポレオンにその気がない)のだが、とにかくもう疲れたし財政的にも厳しすぎる(イギリス政府は戦費調達のために増税につぐ増税を続け、インフレにも見舞われていた)のでこの辺で講和がしたくなったのであった。

 その話を聞いたネルソンは、また健康状態が悪化してきたこともあり、休暇をとりたいと言い出した。その頃エマが新居を探していたので、自分もそっちへ行きたいとも思った。もう戦闘もなさそうだし、ここらへんで仕事をきりあげて愛しい人のところに帰りたくてたまらなくなったのである。ジャーヴィス提督が引き止めようとすると、ネルソンは「ジャーヴィスが自分をエマから遠ざけておくために無理矢理今の現場に留めようとしているのだ」と無根拠な疑いを抱いた。しかも、かつての部下のトルーブリッジ艦長がこの頃は海軍本部委員会で(ジャーヴィス提督の下で)働いていたため、トルーブリッジ……もともとネルソンとエマの関係に批判的だった……もジャーヴィスとつるんでいるのではないかと勘ぐる始末である。ネルソンはその後、トルーブリッジとは何らかの形で和解したらしいのだが、ジャーヴィスとの関係は2度と修復しなかった。

 そして10月22日、講和交渉がどうにかまとまりそうだと判断した政府はネルソンの休暇願いを受理した。ネルソンはハミルトン夫妻とともにサリー州マートン村の新居に入った。これは新築ではなく屋敷付きの地所を購入したもののであった。マートンはロンドンの南西に位置する田舎村で、イギリス海軍の拠点のひとつであるポーツマスに通じる街道に近かったが、不動産鑑定人の評価は極めて低かった。しかし「田舎に家を持つ」ということにステータスを感じていたネルソンはわざわざ借金までしてこの家を購入し、その後の生活のベースとした。屋敷や庭園はともかく調度の類はあまり趣味がよくなかったらしく、ある時マートンを訪問した旧友エリオット・ギルバート(元コルシカ総督)などは「やたらと派手で、場違いだ」と論評している。(ネルソンはファニーと円満だった時代にもサフォーク州の田舎に家を買っているが、ファニーと別居してしばらく後に売却した)

   アミアンの和約   目次に戻る

 年が明けて1802年3月、「アミアンの平和条約」が締結され、1793年の開戦以来10年ぶりにイギリスとフランスの和睦が実現、両国はそれぞれの占領地を返還しあった。それまでフランスと同盟してイギリスと戦っていたスペイン等もこの条約に参加したことにより、ヨーロッパから完全に戦乱の火が消えたのである。

 これでネルソンも久々にのんびり長い休職となる。たまに外出してみれば、すぐに大勢の人々が英雄ネルソンの姿を見ようと群れ集ってきた。ネルソンを描いた肖像画が飛ぶように売れていたので、どこに旅行に行ってもすぐに誰かに「ネルソンだ!」と騒がれてしまうのである。そういう有名税を支払う(?)ことについてはネルソン自身もまんざら嫌ではなく、友人宛の手紙に「わたしの仕事にみなが喜び感謝してくれるのは、わたしの努力への十分な報酬です」とか書いている。

 ネルソンはマートンの新居にたびたび兄弟姉妹や甥姪を招待して泊めてやった。どの甥も姪も優しい伯父さんを慕ってくれた。また、ネルソンは「マートン村の名士」という役割を演じるのが好きで、近在の貧しい人々に対して慈善を施すのを怠らなかった。ただこの年4月、ネルソンの父のエドマンドが亡くなった。ネルソンの一族のほとんどはネルソンの正妻のファニーを見捨てていたが、エドマンドは自分の名誉にかけてファニーと懇意にし続け、ファニーもそれにこたえて義父が亡くなった時に最後まで看病していた。そのせいで、ネルソンは父……この親子の関係は決して悪いものではなくむしろ良好だったが……の葬儀に出席しなかった。その一方で翌年4月にウィリアム・ハミルトンが73歳で亡くなった時には、ネルソンはその手を握ってやっていた。ウィリアムは事前に作成していた遺言でエマの細密画をネルソンに遺してやっていた。「わたしが出会ったなかでもっとも有徳にして忠誠、真に勇敢な人物であるネルソン閣下への深甚なる尊敬のしるしに」ということであった。

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