第1部 ヘンリ2世 その1

   

   アンジュー伯家の来歴   目次に戻る

 イングランドがアルフレッド大王による統一へと向いつつあった9世紀の中頃、フランス北西地方の森林に、「森男トルチュルフ」なる豪傑が、なかば山賊、なかば狩人のきままな生活を送っていた。彼は後に西フランク王シャルル2世(禿頭王)に従い、ヴァイキングとの戦いに活躍してロアール川流域の広大な土地を獲得した。彼の息子インゲルガーはさらにトゥレーヌ地方からヴァイキングを追い払い、初代アンジュー伯を名乗るに至ったという。(西フランクは10世紀頃から「フランス」と呼ばれだす)

 もっともこのアンジュー伯家の創業物語は後世の吟遊詩人による全くの創作であり、実際の初代アンジュー伯「赤毛のフルク」は、10世紀のフランス王国の支配権をめぐる諸侯の争いに介入することによってその領地と位を得た、北フランスの一豪族であったようである。

 987年、「赤毛のフルク」の曾孫にあたるフルク3世ネラが爵位を継承し、それまで大諸侯ブロワ伯とシャンパーニュ伯の間にあって逼塞を余儀なくされていたアンジュー伯家をフランス諸侯の中でも最も強力な大邦へとしたてあげることになった。

 彼は若い頃には妻を火刑に処し、年老いては息子と激しい戦を交え、忠誠を誓う家臣を謀殺してその所領を奪い、さらには教会の領地を強奪してその悪名を轟かせたが、一方で最後の審判を恐れ、聖地エルサレムに巡礼して殉教者として死ぬことを夢見るという、表面の残酷さと対をなす激しい狂信の持ち主でもあった。(72歳の時に実際に聖地に巡礼し、帰途に亡くなった)

 995年にコンクールーにてブルターニュ軍を破り、1016年には強敵ブロワ伯を大破して勢力を拡大、各地に多くの城や修道院を建設した。フランスの大諸侯たるアンジュー伯爵はあくまでフランス国王の臣下であるが、フルク3世はそのフランス王との友好を得るため、その障害となる宰相のもとに刺客を送り込み、王の面前で宰相を刺殺して、その恐怖を背景とする国王の友情を勝ち取った。

 冷静な戦略眼と苛烈な勇猛さを兼ね備え、高度の政治力を持ちながら家族に対する愛情はないも同然、英主フルク3世こそはその子孫にあたるプランタジネット家の王達に強力な遺伝子を植え付けた偉大な人物であり、本稿の主要な登場人物であるリチャード1世(獅子心王)をして、「プランタジネット家の人々は悪魔の子であり、その獰猛性と喧嘩好きは生まれもっての性癖である」といわしめたのである。

 フルク3世の死後、一時期弱体化していたアンジュー伯家であったが、1109年にフルク5世が立つに及び、再びその勢力を盛りかえすことに成功した。彼はフランス王の忠実な臣下として、王から離反する北フランスの諸侯や、その後ろに控えるイングランド王への謀略を幾度もめぐらせた。

   

   ノルマンディー、イングランド   目次に戻る

 話はかわり時代は戻ってこちらは10世紀初頭のノルマンディー。当時ヴァイキングの度重なる侵入に悩んでいた西フランク王シャルル3世(単純王)は、ヴァイキングの首領ロロに領地を与えることによって彼を手なずけようと考えた。こうしてロロは911年に北西フランスのノルマンディーを貰って西フランク王に忠誠を誓ったのだが……1066年、ロロの子孫ギヨームが7000の兵を率いてイングランド王国を征服、なんと「イングランド王ウィリアム1世」として即位してしまったのである。これが名高い「ノルマン・コンクェスト」である(おぼえておくこと)。

 ややこしいのはここからである。こんなことがおこっても、イングランドがノルマンディーの一部になった訳でも、ノルマンディーがイングランドの一部となった訳でも決してなかった。ノルマンディーはあくまでフランス王国の一部分であり、しかしながらイングランド王国はフランス王国とは別の国である。すなわちウィリアム1世はイングランド国王兼ノルマンディー公となったのであり、ノルマンディー公としてはフランス王の臣下、イングランド王としてはフランス王と同格、という日本人には理解不能の関係になってしまったのでる。

 そして……話を戻すが……イングランド国王兼ノルマンディー公として1100年に即位したヘンリ1世(ウィリアムの子)は、この頃ノルマンディーを狙いだした強敵アンジュー伯を身内に取り込むことによって、その脅威を除こうと考えたのであった。

 ヘンリの娘マチルダは、最初神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁いでいたが、1126年に夫をなくしたため実家に戻っていた。ヘンリは以前に王子ウィリアムを海難事故で失い、嫡出の子供はこのマチルダ1人だけであった(嫡出以外は20人もいた)。ヘンリはマチルダをイングランドとノルマンディー双方の後継者と定め、さらにアンジュー伯フルク5世の子「美男子」ジョフロワとの再婚を取り決めた。この公子ジョフロワは、アンジュー伯家の家紋エニシダ(プランタ・ゲニスタ)の枝をその帽子に差していたことから、その家門は「プランタジネット家」とも呼ばれることになった。

       

   マチルダとスティーブン   目次に戻る

 1135年、イングランド国王兼ノルマンディー公へンリ1世が亡くなった。彼は生前甥のスティーブンに跡継ぎマチルダの後見を託していたが、スティーブンはその愛想の良さから人気を集め、先王との約束を無視してマチルダをしりぞけ、自分の方がイングランド王とノルマンディー公の位についてしまった。マチルダは夫ジョフロワの領地アンジューにおちのびていった。

 しかしスティーブンは失政が多く、まずノルマンディー人の信望を失い、続いて弟のウィンチェスター司教へンリ・オヴ・ブロワと対立して教会を敵にまわすことになった。

 39年、マチルダが立ち上がった。マチルダはイングランドを、その夫ジョフロワはノルマンディーをそれぞれ攻略する。イングランドではグロスター伯ロバートが反乱を起こしてマチルダを迎え、41年にはスティーブンを破ってロンドンに入城、マチルダは全イングランドから新女王として迎えられた。

 しかし、高慢なマチルダは従来ロンドン市に認められていた諸特権を無視してその支持をなくし、さらにスティーブン派の反撃にあってオクスフォードの城へと押し込められてしまった。

 48年、マチルダは3人の従者と共に城の裏門から氷結した川を渡り逃走、翌年にはノルマンディーに走った。

   

   ヘンリ2世の即位   目次に戻る

 そのノルマンディーではマチルダの夫アンジュー伯ジョフロアが優勢に戦いを進めていた。1144年にノルマンディーの首都ルーアンからスティーブン派を追放したジョフロワはノルマンディー公を名乗る。1151年9月、そのジョフロアが急死し、彼とマチルダの間に生まれた息子アンリ(後のヘンリ2世)が父の遺産であるアンジュー伯領とノルマンディー公領を相続することになった。

 52年、アンリはフランス南西部の大諸侯アキテーヌ女公アリエノールと結婚して彼女の領地アキテーヌとその属領ガスコーニュ・ギュイエンヌ等の支配権を獲得した。アリエノールは本来フランス王ルイ7世の妃であったが、気性の激しい彼女は敬虔な夫とそりがあわず、たまたま夫の所に臣従の礼をとりにきていたアンリを気に入り、旦那と離婚して11歳年下のアンリに嫁いだのであった。この時アンリ18歳、アリエノール29歳。花嫁は前夫ルイとの間に2人の娘をもうけており、その娘のどちらかをアンリと結婚させるという話もあったのだが……。こうしてフランス王国の西半分はアンリの支配下にはいり、その実力は主家フランス王をはるかに凌ぐものとなった。 アリエノールに離婚されたフランス王は、彼女が電撃的に再婚したことに驚きアンリを攻撃したが、あえなく撃退された。

 ただし、アンリはフランス王との関係には非常に慎重であった。例えば彼はアリエノールと結婚する少し前に(フランスの貴族として)フランス王に臣従の誓いを立てていた。それから、以下はアンリがイングランド王ヘンリ2世として即位した後の話だが……ある時ヘンリ2世はトゥールーズ伯レイモンと戦争になり、その城を囲もうとした。ところがその時、レイモンの義兄であるフランス王が城の中にいることを知ったヘンリは、圧倒的な軍勢を率いていながらもフランス王をはばかって退却したのであった。

 話を戻す。1153年、アンリは母マチルダを助けてイングランドに上陸、ウォリングフォードにてスティーブンの軍勢と対峙した。 これを見たイングランド教会の指導者カンタベリ大司教シオポルドは、両者の仲介に乗り出し、11月にはウィンチェスターにて講和の締結にこぎつけた。スティーブンは王位を認められたもののその子ユースタスが交渉中に病死しており、かわってアンリが次期イングランド国王の冠を約束されたのである。

 1154年10月、スティーブンが亡くなり、アンジュー伯兼ノルマンディー公兼その他諸々フランス各地の公・伯・副伯領の支配者アンリ(それでも一応フランス王の臣下)はただちにイングランドに渡ってイングランド国王へンリ2世(ヘンリはアンリの英語よみ)として即位した。イングランドとフランスの西半分をおさえる大帝国の出現であり、アンジュー伯家の家紋にちなんでプランタジネット朝と呼ばれる新王朝がここに成立したのである。

   

   ヘンリ2世のイングランド統治   目次に戻る

 こうして登極したヘンリ2世であったが、彼はその広大な所領を一括して支配するつもりは全くなく、公文書にもイングランド王・ノルマンディー公・アキテーヌ公・アンジュー伯という称号を併記し、それぞれの地域の慣習を尊重して、それらの実情に即した統治体制を確立する方針をとった。

 とくに力をいれたのが、マチルダとスティーブンの争いが十数年に渡って続いたイングランドの復興である。

 イングランドの諸侯は、フランスのそれよりもはるかに弱体であった。フランスの諸侯はそれぞれの領地の歴史と伝統を背負い、フランス王といえども諸侯の中の第1人者にすぎなかったが、イングランドの諸侯の大半はかつてのノルマン・コンクェストの際にウィリアム1世がノルマンディーから連れてきた連中であり、その領地も飛び地になってあちこちに分散していた。仮に反乱を起こしたところで、狭いイングランドではすぐに国王直属軍が動いて鎮圧されてしまうであろう。

 しかし、マチルダとスティーブンの内乱時代、彼等は勝手に城を築き、騎士を集め、旅人を襲い、支配地の村から各種の税を搾り取った。住民のなかで少しでも金持ちと見られた者はただちに城の拷問部屋や土牢に放り込まれ、その財産のありかを白状させられた。

 ところが新しいイングランド王へンリ2世は、自身がフランスの半分を領する大諸侯であり、その強大な武力をいつでも呼び寄せることが出来るとあっては、元来大した力を持つでもないイングランドの諸侯(国王から直接土地を授けられた者を直接授封者、その内の有力者を諸侯と呼ぶ)には抵抗のしようもなかった。ヘンリは諸侯が無許可で築いた城の破壊を命じ、その弱体化をはかる様々な政策を打ち出した。

 ヘンリは、海外(具体的にはフランス)での軍事行動に参加しないイングランドの領主に、「軍役代納金」の支払いを命じることにした。この収入は傭兵の雇用につかわれたため、ヘンリは戦争に際し諸侯の軍事的な支援を必要としなくなった。領主たちの方も、わざわざ海の向こうに戦争しにいくよりも、お金を払って済ませる方を好んだ。こうしてイングランドの貴族たちは馬上槍試合にうつつを抜かし、暇な時には領地の経営に精を出す様になった。これだけ書くとヘンリにもイングランド諸侯にも良いことずくめの様だが、実際にはこの方法は諸侯の軍事力を低下させるという効果をうむことになった。

 また、1181年には「武装条例」を定めて全ての自由民(領主に地代だけ払えばすんだ人、これに対し、「農奴」は、領主の直営農場で強制労働し、移住の自由もなかった)に鎧・鎖かたびら・槍等の所有を義務付けた。これは後の民兵制度の起源となるものであるが、ヘンリは彼等を自由に動員することにより、有事の際に諸侯や傭兵だけに頼らずにすむようにした。

 各州の州長官職はその州内の有力諸侯が独占し、その特権を濫用する弊害が甚だしかった。ヘンリは1170年から「州長官に対する査察」を行い、州長官の不正を徹底的に調査した。後には長官職には国王に忠実な、身分の低い役人をあて、それも短期間で交代することにした。

   

   法と秩序   目次に戻る

 さらにヘンリは、イングランド諸侯からその領民に対する裁判権を奪い取ろうした。ヘンリは領内各地を巡回し、重要と思われる事件には自ら判決を下した。ヘンリはいつでも馬にのって移動出来るように短い上着を身に付けており、領民から「短いマントの領主」と呼ばれていた。しかしこの「国王裁判所」は常に移動してどこにあるかわからなかったため、訴訟人の中には裁判所を追いかけて5年も走り回る者もいた。

 そこでヘンリはウェストミンスターに数人の判事をおいて裁判を処理させることにし、さらに、1166年から「巡回裁判」を導入した。この別名「大巡察」において、ヘンリの判事達は毎年それぞれの受け持ち地区を巡回し、その裁判管轄はイングランドのすべての重罪犯におよんだ。領主の管轄は軽犯に対するもののみとなった。また、判事たちは収税官でもあり、彼等の徴収する罰金は国庫を豊かなものとした。

 毎年の大巡察において、各州の長官は、その州の領主・村長・自由民からなる会議を召集し、その会議はさらに州内の郡・都市から「陪審員」を選出した。陪審員は彼等の地区内の重罪犯もしくはその疑いのある者すべてを告発する義務を負った(これを告発陪審という。現在の陪審員とは性格が異なる) 。

 また、民事訴訟(土地や財産に関する紛争)においても、以前は決闘によって解決されていたものを、当事者の一方が「令状」を入手すれば、正式の裁判によって公正な裁きを受けられるものとした。

 この様な裁判の判例はしだいに集積・整理され、地方によってまちまちだった慣習法を統合する全イングランド共通の法、すなわち「普通法」の成立を促すことになった。

 これらの改革はすべてヘンリの強力なイニシアティブのもとに行われたのであるが、その実行機関としての中央行政機構の整備もまた急速なものであった。いうまでもなくヘンリの領国はイングランドだけではなく、その35年の在位期間中、イングランドにいたのは約13年だけであったが、彼の不在中にも、行政長官を中心とする財務府による代理統治が滞りなく行われており、そのことはアンジューやノルマンディーにおいても同様だったようである。

   

   トマス・べケット   目次に戻る

 ヘンリ2世のイングランド王即位の際、カンタベリ大司教(イングランドにおける聖職者の代表)シオポルドが、新しい国王の側近として、トマス・べケットなる人物を推薦してきた。べケットはロンドンのシティーの大商人の子として生まれ、若い頃にはパリに遊学し、さらに貴族の家に出入りして騎士道を身につけていた。一時は父ギルバードの死により窮迫したが、父と同郷のシオポルドにその才能を見い出され、後にはイタリアのボローニャ大学に留学してローマ法を学んだという英才であった。

 ヘンリはべケットを重用し、カンタベリの大執事からさらに国璽尚書にとりたてた。べケットは聖職者でありながら途方もない派手好きであり、日々の生活の豪奢さは国王をも凌いだ。豪華な衣装を揃え、大勢の騎士を養い、その邸宅でのぶどう酒と料理には定評があった。べケットは英仏海峡を渡るための完全武装の船6隻をもっていたが、ヘンリは1隻しかもっていなかった。出かける時には武装した騎士200人を従え、糧食や衣服を満載した車8台にそれぞれ猛犬をつなぎ、書物や食器を負わせた馬には猿を乗せていた(昔の人のやることはわからん)。暇があれば狩りを行い、日々の鍛練を欠かさなかった。ヘンリがトゥールーズを攻略した際には、ベケットは家の子の騎士700人に金で雇った騎士1200、さらに4000の兵卒を率いて出陣し、フランスの騎士と一騎討ちして相手を落馬させた。普通ならとんでもない生臭坊主というところだが、ヘンリはべケットの磊落さを愛し、共に狩りやスポーツを楽しんだ。

 さらにべケットは外交にも秀でていた。1158年には豪勢に着飾った250人の供を連れてフランス王ルイ7世に謁見し、ヘンリとアリエノール(ルイの前妻)の結婚以来気まずくなっていた両国関係を修復した。ルイと家臣たち、パリ市民にまでプレゼントをばらまき、ルイの娘とヘンリの息子を婚約させることに成功したのである。(その「ルイの娘」はアリエノールの子ではないので念のため)

 ただ、ヘンリがあまりにもベケットを頼りにし、親密にしたことにより、ヘンリと王妃アリエノールの関係が冷えていったのだが……。

 100年前のノルマン・コンクェストの際、ウィリアム1世は、諸侯に対する押さえとして教会の勢力を利用しようと考え、聖職者に関する訴訟は教会裁判所によってのみ処理されるとの法律を制定した。しかし、この教会裁判所は刑罰が甘かった(身分格下げ・破門等、死刑はなし)ため、この特権を悪用する者があとを絶たず、重罪を犯した凶悪犯の中には、自分が教会の関係者やその門番であることを主張して教会裁判所に逃げ込み、死刑を免れようとする者が大勢いた。

 もちろんヘンリはこの様な弊害を除こうとしたが、大司教シオポルドの存命中は、彼がイングランド国王即位の際に尽力してくれた恩義から、教会改革の実行といったことは控えなければならなかった。

 そして1162年、シオポルドが亡くなり、ヘンリは後任のカンタベリ大司教に腹心の部下トマス・ベケットを任命した。これが間違いだった。

   

   カンタベリの大司教   目次に戻る

 べケットはカンタベリ大司教の職を固辞しようとした。べケットは言った。「まもなく陛下には、私を愛してらっしゃるのと同じくらい私を憎む様におなりでしょう」。カンタベリ大司教にとって最も大切な問題は、イングランド教会の純粋性の維持とその利益の擁護である。強権を望む国王が教会に干渉するのは理解出来るが、それがキリスト教の理念に反する限りこれに反対し、そのことを身をもって示さなければならない。やむを得ず大司教の冠を被った後も、「カンタベリの大司教たる者は、神か王のいずれかに逆らわざるを得ないのです」と語った。べケットの性格は一変した。

 べケットは豪華な衣服を捨てて粗末な衣を身にまとい、毎日13人の乞食を集めて自らその足を洗ってやった。また、彼は懺悔の心を示すため、鞭でおのれの背中を打った。

 1163年、ヘンリは、重罪を犯した聖職者はまず教会裁判所で聖衣を剥奪され、ついで国王裁判所にて世俗の裁きを受けるものとする改革案を持ち出した。べケットはこれに対し、人は1つの罪で2度裁かれるべきではない、として強硬に反対した。ヘンリは親友の豹変に驚いた。

 翌年クラレンドンで開かれた会議では、国王の武力を恐れるイングランドの司教たちがヘンリの改革案に賛同し、べケットもこれを認めざるを得なくなった。

 しかしべケットはカンタベリに戻るやいなや、すぐにこの力ずくでなされた約束を破棄した。ヘンリは、ベケットが本気で自分の敵にまわったことを悟り、自らも強硬手段をとることを決意した。国王の意志を押し通すためにはベケットを屈服させ、その各方面への政治力を断ち切る必要がある。

 そして翌年、べケットは国王の裁判所で(微罪で)有罪の判決を受けた。あくまでも自説を曲げないべケットはフランスに亡命、ヘンリの政敵フランス王に匿われる。激怒したヘンリはべケットの一族を追放する。ところがベケットは大司教をやめた訳ではなく、ヘンリもベケットを無視して新しい大司教を任命する程には強引でなかったので、以後のカンタベリには主人がいなくなってしまった。ヘンリもその状態では困るので、なるべく早く和解するつもりでいたのだが……。

 それからずるずると6年間、ヘンリの手先とべケットの支持者たちはヨーロッパの各地で暗闘を繰り広げた。心情的にはべケットを支持したいローマ教皇アレクサンデル3世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との争いに手一杯で、イングランド国王を怒らせるようなことは出来なかった。

 しかし結局はヘンリが妥協し、70年にはべケットのイングランド帰国が実現した。というのは……。

 ヘンリは息子にイングランド王の冠を授けようと考えていた(もちろん形式的なもので、ヘンリが引退する訳ではなく、国王2人による共同統治という形をとるのである。こうしておけば自分の死後も息子の王位が保障され、王位継承の争いがおきなくてすむという訳)が、イングランド王の戴冠を行う権利はカンタベリ大司教のみが有していたのである。ヘンリはカンタベリ大司教たるベケットを無視してヨーク大司教に戴冠式をあげてもらったが、このことが全ヨーロッパ的な大ひんしゅくを買ってしまい、ベケットに頭を下げて帰ってきてもらう以外になくなったのである。

 ところが、ベケットがカンタベリに戻ったちょうどその時、彼のもとに教皇からの書状が届いた。「カンタベリ大司教であるべケットの留守中に、彼に背いてイングランド王に味方した司教たちを処罰することを認める」。教皇はヘンリが折れた今頃になってべケットの支援要請に答えたのだった(と、いっても、教皇は本気でヘンリと争うつもりはなかったらしい) 。

 かつてウィリアム1世が定めた法律の中に、「臣下は何者といえど王の許可なく教皇と通信するを得ず」というものがあった。ノルマンディーの城で教皇の手紙の話を聞いたヘンリは怒り狂い、「余の家来共は揃いも揃って卑怯者で腑抜けじゃ、素性卑しき一介の坊主が余を笑い種にするのを黙って見ておるわい」とわめいた。

 これを聞いた4人の騎士は直ちに船を探して英仏海峡を越え、カンタべリの聖堂に乗り込んだ。

 

 べケットの従者たちは主人を逃がそうとしたが、剣を手に素早く追いすがった騎士たちは、祭壇の前にひざまづいていた大司教の頭をそぎ飛ばした。

 ヘンリは激しく後悔し、その後5週間も引きこもってしまった。民衆はべケットを殉教者にしたて、教皇との関係悪化が予測された。ヘンリは直接手を下した4人を罰し、教皇に使者を送って、この事件に関しては自分は無関係であることを伝えた。

 その2年後、教皇はべケットを聖人に列し、ヘンリもカンタべリの聖堂内に立派な墓をつくった。べケットの墓はイングランド各地からの巡礼をあつめ、その数は多い年には10万人にも達したという。

 この間ヘンリは教皇との間に話し合いをもち、その結果、聖職者に対する国王の裁判権はその大部分を放棄せざるを得なくなった。しかしそれでも聖職者の任免権は事実上ヘンリが握り、教会領の住民に対する国王の裁判権等もこの時確立されることになったのである。(この事件から約350年の後、離婚問題からローマ教皇と対立して独自の教会組織「イギリス国教会」を創設したヘンリ8世は、トマス・べケットを「教皇の権威をわがものとした」との罪状で告発し、その遺体を墓から掘り出して裁判所に連行した。この裁判の結果有罪を宣告されたべケットの遺体は公開で火刑に処された)

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