第1部 ヘンリ2世 その2

       

   王子たちの反乱   目次に戻る

 ヘンリには5人の息子がいた。上からウィリアム・ヘンリ・リチャード・ジェフリー・ジョンである。この内長男のウィリアムは幼時に死んでいた(以後息子のヘンリをヘンリ王子、親父のヘンリを単にヘンリとしるす)。彼等の母アリエノールは末子のジョンを産んだ後すぐにヘンリと別居した。ヘンリがこの頃「麗しきロザモンド」という愛人に夢中になっていたからである。ちなみにヘンリはこのロザモンドを嫉妬に狂うアリエノールから守るためにウッドストックの森の迷路の奥に住わせていたが、やがて迷路の謎を解いたアリエノールが彼女を殺してしまったと言われている。それはちょっと嘘が入っているとして、アリエノールは別居の時点で既に44歳、しばらく故郷のアキテーヌに戻りたいという彼女をヘンリは特別に引き止めようとはしなかったようである。

 さて息子たちのうち、ヘンリ王子は優雅で高貴、リチャードは豪勇、ジェフリーは知謀でならしていた。ジョンは……まだ小さいので評価は控えるとして、ヘンリ2世の文武の才能を部分的にせよよく引き継いでいるのはリチャードとジェフリーで、ヘンリ王子は父王に無縁なもの、騎士としての優雅さや詩歌の方で優れていた。彼はフランス王の娘と結婚していた。

 ヘンリ2世はその広大な所領をいくつかの地域に分割し、それぞれの実情にあった別々の統治機関を設置しようと考えた。

 1169年のモンミラーユ会議にて、ヘンリにはノルマンディーとアンジューが、3男のリチャードにはアキテーヌが、4男のジェフリーにはブルターニュ(58年に支配権獲得)がそれぞれ譲られることになった。ただし末子のジョンは幼少のため領地を貰えなかった(そのため彼は後に欠地王と呼ばれた。領地を失ったから失地王というのは間違い)。これは実はフランス王ルイの策謀も働いていた。ヘンリが息子たちにフランスの領地を分け与え、その息子たちにフランス貴族として自分(フランス王)への忠誠を誓わせるなら、しばらく前からヘンリとルイの間で領有を争っていた地域を譲ってもいいとの申し出をしたのである。これは、ルイの希望通りとなった。

 事はルイの思惑(離間の計)通りに進んでいく。ヘンリ王子は父にさらにイングランドの支配権を要求して拒絶され(70年に名前だけイングランド王になった。さっき書いた話である)た。しかも暗殺されたトマス・ベケットが彼の幼少時の教育係であったことから、すっかりつむじを曲げてしまった。

 同じ頃、ヘンリはフランス南東部の大貴族モーリエンヌ伯と会見し、彼の娘と自分の末子ジョンを婚約させようとした。その娘はモーリエンヌ伯の相続人であったからゆくゆくは彼の領地もジョンのものになるという案配である。モーリエンヌ伯がジョンの資産を訪ねると、ヘンリは最近征服したアイルランド(後述)と、フランスにある重要な城3つを与える予定であると返事した。

 これには同席していたヘンリ王子が驚いた。まだ7歳のジョンにそんな広大な領地を与えてどうするのかと。しかも自分はイングランド王といっても名前だけなのだ……。ヘンリ王子は岳父であり主君であるフランス王ルイ7世のもとに走り、その援助を得て反乱を起こした。

 この反乱には、不在がちなヘンリに不満な王妃アリエノール、彼女にそそのかされた3男リチャードに4男ジェフリーも参加する大規模なものとなった。フランス王ルイ7世と北フランスの大諸侯フランドル伯もノルマンディーに兵を進め、イングランド王と対決する姿勢を示した。北方ではスコットランド王ウィリアム1世がヘンリ王子の要請を受け、イングランド北部に侵入した。

 驚いたヘンリはただちにレスター伯ロバートを派遣して反乱を鎮めようとしたが、レスター伯はノルマンディーにつくとすぐ王子側に寝返ってしまい、現地で集めた傭兵隊を率いてイングランドに上陸してきた。

 レスター伯の軍勢はヘンリに忠実な家臣たちが撃退したものの、イングランドの北部ではロジャー・モーブレイが、中部ではダービー伯フェラーズが、東部ではヒュー・バイゴッドが反旗を翻した。ヘンリの様々な改革に対するイングランド諸侯の不満がここにきて表面化したのである。

 危地にたったヘンリがまずやったのは、旧友トマス・べケットの墓に詣で、彼を殺した罪を詫びることだった。贖罪の証しとして、ヘンリは人々の前で鞭打たれた。

 それからのヘンリは連戦連勝だった。早くも鞭で打たれたその夜に、スコットランド軍を撃破し国王ウィリアム1世の逮捕に成功したとの朗報が舞い込んできた。これを見たイングランド国内の反徒たちは慌てて降伏した。さらにヘンリはノルマンディーに渡ってフランス軍を退け、息子たちを屈服させた。反乱に加担したイングランド諸侯の城砦は破壊され、王妃アリエノールはソールズベリの塔に幽閉の身となった。イングランドの諸侯はこれ以後ヘンリに刃向かうことはなくなった。しかし、ヘンリは息子たちについては領地を削るだけで気前良く許してやったため、後々にまで禍根を残すことになったのである。 (それから、この事件のそもそもの発端となったジョンの婚約の話だが、相手の娘が病死したためにお流れとなった)

   

   アイルランド征服   目次に戻る

 アイルランドでは、5世紀頃にイングランド人の宣教師聖パトリックによりキリスト教が伝えられ、各地に多くの修道院が築かれて、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパの暗黒時代における、異教徒に対するキリスト教布教の一大拠点となっていた。ただしアイルランドのキリスト教は、ローマ教会からほとんど分離した、相当に古いゲール人(アイルランドの住民の大部分をしめる)の伝統と慣習を含むものであり、さらに、8世紀の末頃にはヴァイキングの侵攻を受けて各地の修道院を破壊され、これをなんとか撃退した頃には、アイルランドはかつての「聖人と学者の島」という名声を失い、その住民も、「名前だけはキリスト教徒だが実は異教徒も同前」と蔑まれる、極めておくれた国(と教会)となっていた。(もちろんこれはローマ教会から見ての話である)

 そして12世紀頃のアイルランド南部では、レンスター地方の王マクマローとブレフネの隻眼王オロークの2陣営が分立し、天下を目指して争っていたが、1166年にはオロークがマクマローの根拠地レンスターを占領し、マクマローはイングランドに逃走してヘンリに援助を求めることにした。

 もちろんヘンリは隣国アイルランドの情勢に無関心だった訳ではない。話が前後するが、それより以前の1155年、イングランド出身のローマ教皇ハドリアヌス4世は、ローマ教会の方針に従わないアイルランドをヘンリに攻略させ、その教会の古くさい(とローマから見られていた)体質を一挙に改革しようと考えた。ところがその当時即位したばかりのヘンリは自らの支配体制を固めるのに忙しく、とてもではないが新たな海外領土の獲得に乗り出すだけの余裕がなかったのであった。しかしヘンリはアイルランド攻略の野心をその後も持ち続け、今回のマクマローの援軍要請に大きな関心を寄せることになったのである。ただしこの時もヘンリ本人は各所領の経営に多忙を極めていたため、かわりにウェールズ辺境地方の諸侯(もちろんヘンリの臣下である)にアイルランド遠征の許可を与えることにしたのだった。

 1169年、ウェールズ辺境の大諸侯の1人で、ストロングボウ(強弓)の綽名を持つペンブローク伯リチャード・フィッツギルバード・ド・クレアがアイルランドのウェクスフォード近郊に上陸、たちまちアイルランド南部を制圧し、マクマローもレンスター地方の王に返り咲いた。ストロングボウは70年にはさらにダブリンを占領したが、その翌年にマクマローが亡くなり、その長女を娶っていたストロングボウがレンスターの王位を継ぐことになった。

 しかしレンスターの諸侯は他所者の支配に不満であり、マクマローの甥マータフを擁して大規模な反乱を起こした。が、この反乱もストロングボウ軍の奇襲突撃の前に破れ去り、アイルランドにおけるストロングボウの覇権は最早揺るぎないものとなるかに見えた。

 しかし、イングランドのヘンリは、本来自分の一臣下にすぎないストロングボウが、海の向こうのアイルランドにて独立勢力の主となるのを黙って見ているつもりはなかった。また、この頃トマス・ベケットの暗殺でローマ教皇と気まずくなっていたヘンリは、アイルランドを自分の支配下におくことによってその教会をローマ教会の統制下に組み込み、教皇の機嫌を取結ぼうと考えた。

 71年10月、ヘンリは選りすぐりの精鋭4000を率いてアイルランドに渡った。これを見たストロングボウはただちに使者を送って二心なきことを伝え、さらにレンスター全土をヘンリに献上してきた(その上で、ヘンリはストロングボウのレンスター支配を承認した)。その翌年にはキャシェルでアイルランド教会の宗教会議が開かれ、それまで孤立していたアイルランド教会とローマ教会との教義の統一が実現することになった。これをよしとした教皇アレクサンデル3世はヘンリに「アイルランド太守」の称号をおくり、キャシェルの宗教会議もヘンリをアイルランド教会の保護者として承認したのだった。

 こうしてアイルランドの大半はヘンリの支配下に入った。しかし、大所領の経営に忙しいヘンリは半年あまりで帰国し、ダブリンに国王代理ヒュー・ド・レーシをおいてアイルランド支配の足固めをさせることにした。ところがこのダブリンの政府は大した力を持つことが出来ず、ストロングボウ等イングランドから遠征してきた諸侯とアイルランド土着のゲール系諸侯とが各個に自立し、それぞれが独立国としての地位を維持しつつヘンリの名目上の庇護を受けることになるのである。 

   

   フィリップ2世登場   目次に戻る

 イングランド国王がその強大な武力を背景として様々な改革を押し進めているのにくらべると、フランスの国王の力は涙が出る程微々たるものであった。国王の直轄領はパリ市周辺にオルレアン地方だけ、周囲の大諸侯はそれよりはるかに広大な所領をおさえている。1147年(ヘンリ2世即位の7年前)、国王ルイ7世は第2回十字軍をおこすが見事に失敗、さらに王妃アリエノールを臣下のアンジュー伯にとられてしまった。

 いまさら言うまでもないが、アンジュー伯とは後のヘンリ2世である。騎士道の本場アキテーヌで育ったアリエノールは軟弱な夫に我慢がならず、若くて精力的なヘンリのもとにはしったのだった。

 フランス王にとって、アリエノールを失ったのは余りにも大きな痛手であった。アリエノールは本来アキテーヌ公領の支配者である。つまり彼女の新しい夫ヘンリは、従来の領地アンジュー・ノルマンディーに加え、アリエノールの財産であるアキテーヌの支配権まで手に入れたのである。

 さらにヘンリはイングランドの国王になってしまった。本当はフランス国王の一臣下にすぎないヘンリが、フランス王国の半分とイングランドを支配する大帝国の主となったのである。   

 しかし、ヘンリと再婚したアリエノールの産んだ息子たちが、そのどれもが父親を悲しませるばかりだったのに対し、ルイ7世の新しい妃が産んだ王子は、後にはフランス史上最も偉大な君主として記憶されることになった。

 1165年8月にうまれたルイ待望の世継ぎの名はフィリップ、後の「尊厳王」フィリップ2世の誕生である。

   

   カペー対プランタジネット   目次に戻る

 1180年、ルイ7世が亡くなり、息子フィリップがカペー朝フランス王国の支配権を相続した。 ルイ7世の晩年、フィリップは狩猟中にはぐれて森を彷徨ったことから病気にかかったことがあった。父のルイ7世はこの時なんと、イングランドに渡ってトマス・べケットの墓に参り、王子の回復を祈願したのであった。

 さて即位したフィリップは、まず王領地の都市に様々な特権を与えてその発展を助けることにした。各都市はフィリップの金庫に大量の納付金を献上し、これで雇われた有給官僚たちは王領の各地に派遣された。

 さらにフィリップはパリ市を拡大してその周囲を城壁で囲み、市内の排水路や石畳を整備した(それ以前はゴミや排泄物は窓から道に投げ捨てており、その道は未舗装だったので雨が降ればえらいことになった)。パリの人口はフィリップの治世の末年には20万にも達した。 ちなみに、パリ市に大勢いた教師と学生に対する裁判権をパリ市警察の管轄から教会に移すという決定をくだし、「パリ大学」の基礎を築いたのがフィリップである。

 いうまでもなく、国王フィリップの最大の目標はプランタジネット家との対決とそのフランス領土の攻略である。しかし、ヘンリはスコットランド・ウェールズ・アイルランドを服属させ、シチリア王・カスティリア王・ザクセン公に娘を嫁がせて、名実共にヨーロッパ最強の君主となっていた。即位当時わずか15歳のフィリップには勝ち目はないと思われた。

 ところが、ヘンリのプランタジネット家には大きな弱味があった。くどいようだがフランス領の主としてのプランタジネット家はフランス王の臣下である。ヘンリはフランス王に3回も臣従の礼をとり、そのフランスの領地をわけてもらった王子たちもフランス王を主君として認めていた(彼等は権威あるフランス王を完璧に無視するほど大胆にはなれなかった)。そこでフィリップは彼等の宗主という立場を利用し、プランタジネット家に絶えない親子・兄弟間の争いにつけ込んで、そのフランス領土を合法的に奪取しようと考えたのだった。

   

   ヘンリ2世の末路   目次に戻る

  

 まったく、ヘンリの息子たちの仲の悪さは折り紙付きだった。リチャードは父から与えられたアキテーヌにて自分に従わない地方領主たちを討伐していたが、そのあまりに厳さに腹をすえかねた領主たちはリチャードの兄ヘンリ王子を抱き込んで反乱を企てた。この陰謀にはジェフリー王子も加わっていたが、彼等の父親のヘンリは何故か「好きにするがいい。私はお前たちの邪魔はせぬ」と言って静観の構えをとった。ところが実際に戦いが起こる直前、ヘンリ王子の方が赤痢にかかって病死、ジェフリーも領地ブルターニュに閉じ籠り、数年後に場上槍試合の事故がもとで亡くなった。残る王子はリチャードとジョンの2人だけである。

 1187年、聖地エルサレムがイスラム王サラディンに占領され、この報を受けたヨーロッパ全土に新たな十字軍結成の気運がみなぎった。戦争と冒険が大好きなリチャードもただちに遠征軍派遣を計画した。しかし、その実行には今の領地よりもさらに強力な地盤が必要だろう。

 即位以来三十数年が過ぎ、すっかり年老いた国王ヘンリは、一番可愛がっていた末子ジョンに、リチャードの領地アキテーヌを譲り渡そうと考えていた。ジョンは77年にアイルランド太守の位をもらっていたが、当時10歳の子供には何も出来るはずもなく、85年に始めてアイルランドに渡った時にも、側近たちに勝手に領地を分け与えたことから紛争を招き、短期間の滞在のみでその任を解かれていた。しかしヘンリには可愛い存在であり、20歳にもなりながら大した領地を持たないこの末っ子に、何とかして広い領土を授けてやろうと考えたのだった。もちろんリチャードは嫌がるだろう。それならばイングランドもノルマンディーもリチャードに譲ってやる。しかし豊かなアキテーヌだけは最愛のジョンにのこしたい。

 しかしリチャードは、母の実家でもあるアキテーヌに対し、プランタジネット家の他のどの領地よりも深い愛着を抱いていた。彼は11歳でこの地を授けられ、17歳の時に現地に乗り込んで、各地の城に割拠する騎士たちを蹴散らし、その武勇と騎士道を大いに轟かした。この大切な所領を弟に渡せなど、絶対に承服出来るものではない。プランタジネット家の離間を狙うフィリップの誘惑と策略がリチャードをとらえる。新しい国王として、大所領の主として、一族のすべての財産を十字軍に注ぎ込む最大のチャンス。迷うことはない、親父の領地と財産を全部いただいてしまえ。

 1189年、リチャードはフランスの大諸侯としてフランス王フィリップ2世に対し改めて臣従を誓い、対ヘンリの軍事同盟を結成した。

 同盟軍の不意打ちを喰らったヘンリはろくな抵抗も出来ず、北フランスのル・マンの町に逃げ込んだ。やがてこの町にも火がかけられ、ヘンリは命からがら逃げ延びた。ル・マンはヘンリの生まれ故郷だった。彼は神を呪った。逃走中のシノンの町で病気にかかったヘンリに、最後にして最大の打撃が襲いかる。

 フィリップのもとに遣わしていた家臣の1人が、裏切り者のリストを手にいれて戻ってきた。そのリストの筆頭には、ヘンリがすべての子供たちの中で最も愛し、かつその父への忠誠を信じて疑わなかった末子ジョンの名があった(何で裏切ったのか? 老い先みじかい親父よりも、若くて強い兄貴についた方が得策だと判断したのである)。ヘンリは叫んだ。「もう結構だ! 余の身がどうなろうとも、世の中がどうなろうとも、勝手にしてくれ」 。

 1189年7月6日、かつてのイングランドとフランスの半分の支配者、暗黒の中世英国に法と秩序の支配(ちょっと大袈裟)をもたらした偉大な国王へンリ・プランタジネットは、すべての息子に裏切られた憤怒と絶望の中に息をひきとった。享年57歳であった。 (庶子の中には最後までヘンリに従った者もいたのだが、この頃の慣習では正妻の子でない以上は後継者になりにくい)

「第1部 ヘンリ2世 その1」へ戻る

「第2部 リチャード1世」へ戻る

戻る