第2部 リチャード1世

   

   パレスチナの情勢   目次に戻る

 11世紀の末、聖地エルサレムに遠征した第1回十字軍は地中海沿岸の細長い地域にいくつかの国家を建設したが、その中でも最も強力なエルサレム王国は、第2回十字軍の失敗(フランス王ルイ7世らが参加、当時ルイの妃だったアリエノールも従軍した)後も、聖地守護の任を帯びるテンプル・聖ヨハネ両騎士団と共に3次にわたるエジプト遠征を行い、その健在ぶりを示した。

 しかし、シリアのイスラム王国ザンギー朝の武将サラディンがエジプトに遠征して現地に新王朝アイユーブ朝を建設し、さらに(本来サラディンの主筋にあたる)ザンギー朝の併合を実現するに至り、さしものエルサレム王国にもかげりが見えてきた。

 1187年夏、エルサレム王国軍はチベリアス近くの峡谷でサラディン軍の奇襲攻撃を受け壊滅(死者3万)、サラディンは10月にエルサレム無血入城を果たした。

 ちょうど88年前の第1回十字軍によるエルサレム占領の際、城内のイスラム教徒・ユダヤ教徒は十字軍士による大虐殺にあい、2日間で約4万の市民が殺されたという。今度はキリスト教徒が報いを受ける番である。

 ところが、サラディン軍のエルサレム占領は拍子抜けする程穏やかなものであった。城内のキリスト教徒6万は全員捕虜となったが、サラディンは身代金と引き換えの自由を認めてやり、お金の払えない者も、サラディンとその家臣の格別の慈悲によりエルサレム城外への退去が許された。占領に付き物の殺人や暴行もほとんどなかった。

 しかし、そんなことはどうでもいいのである。その実態はどうあれ、イスラム教徒による聖地占領というニュースはヨーロッパ・キリスト教社会を激昂させるに充分であった。ローマ教皇グレゴリウス8世、その跡を受けるクレメンス3世の数次にわたる教書を待つまでもなく、各国にて第3回目の十字軍派遣が決定され、史上最大規模のパレスチナ派兵が実現する。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世「赤鬚王(バルバロッサ)」・フランス王フィリップ2世「尊厳王(オーギュスト)」・イングランド王リチャード1世「獅子心王(ライオン・ハーテッド)」が出陣、総兵力60万と号する、西洋の歴史始まって以来の大軍団である。(実際には10万くらい)

   

   第3回十字軍   目次に戻る

 先陣を切るのは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世である。1189年の春レーゲンスブルグを出発した16万の大軍は、ハンガリーの大平原を横切ってその年の冬にはアドリアノーブルに到着した。ここでクリスマスを祝ったフリードリヒ軍は翌年春にヘレスポント海峡を渡り、各地にイスラム軍と戦いながら東へと進んだ。ところが、キリキア州のセレフ川を渡河中、皇帝フリードリヒが誤って川に転落し、そのまま溺れ死んでしまった。大将の呆気無い最期にしらけた配下の騎士たちはその大半が帰国し、一部分のみが聖地を目指すことになった。

 フリードリヒの遺志を引き継ぐのは新イングランド王兼フランスの半分の支配者リチャード1世(とフランス王フィリップ2世)をおいて他にない。実際リチャードは騎士道とロマンチシズムの精華たる十字軍に参加したくてしたくて仕方がなかった。しかし、大規模な海外遠征には途方もない軍資金が必要である。

 国庫はたちまち空になった。あらゆる官職と王領地が売りに出された。リチャードとその家臣たちはユダヤ人の金貸しに莫大な借金をしたが、家臣の中には、その借金をチャラにしようと、債権者のユダヤ人にいいがかりをつけて殺してしまう悪人が多くいた。これに日頃の反ユダヤ感情が結びつき、各地で大規模なユダヤ人迫害がおこった。イングランド北部のヨークでは、群集の迫害に追い詰められたユダヤ人500人が集団自決するという事件までおこったという。

 スコットランドは1174年以来イングランドに服属する立場となっていたが、1万マルクのお金と引き換えの完全独立を手にいれた。リチャードはいった。「買う者がいるなら、私はロンドンの町でも売るだろう」 。

 こうして戦備を整えたイングランド軍(もちろんアンジューやアキテーヌの騎士もいたであろうが、ここでは単にイングランド軍とする)は伝説の宝剣「エクスカリバー」を手にしたリチャードに率いられ、1190年夏に聖地めざして出陣した。200隻の船に分乗した兵力は約8000とされている。ただしリチャード本人が艦隊と合流したのはシチリア島のメッシナ港からである。彼は船に酔う体質であったため、なるべく陸路で行きたがったのであった。

 弟のジョンについては少し不安があったため、たくさんの領地をやりつつも国政については王母アリエノールと大法官ウィリアム・ロンシャンにまかせることとした。同じ頃にはフィリップ2世のフランス軍もジェノヴァ港を出発し、9月にシチリア島にて英仏両軍が合流を果たした。

 シチリアの王妃ジョアナはリチャードの妹であった。しかしジョアナは夫の死後は義理の息子タンクレードと対立しており、タンクレードはジョアナを人質にとってリチャードから身代金をとろうとした。もちろん激怒したリチャードが強硬な態度を示すとすぐに解放するが、その次はフランス王フィリップがジョアナに惚れ込む始末である。リチャードはいったんジョアナを隠すことにし、フィリップは先に手勢を率いて聖地へと出帆していった。……こんなことに時間を潰し、リチャードの艦隊がシチリアを出帆するのは翌年の5月8日である(シチリアに8ヶ月もいたのである)。

 ゴタゴタはその後も続く。シチリアではさらにリチャードの婚約者としてナヴァール王女ペランガリアが合流していた。2人は聖地で結婚式をあげるとの予定を立てたのだが、シチリア島を出帆したイングランド艦隊が嵐にあってキプロス島に吹き寄せられた際、キプロス総督によって(身代金目的で)ベランガリアが捕われてしまうのである。リチャードは3週間かけてキプロス総督を逮捕、ここで予定を繰り上げてベランガリアと結婚式をあげたため、目的地パレスチナに着いた時には6月8日になっていた。

   

   アッコン攻略   目次に戻る

 エルサレム陥落後のパレスチナにおいて、旧エルサレム王国軍最後の拠点となっていたのがチルスの城である。チルスの軍勢3万は南方30マイルに位置するアッコンの占領を目指してこれを包囲したが、それをまたサラディン率いるアッコン救援軍が包囲して、その様な二重包囲の戦いが2年にも渡って続いていた。

 後には崩壊した(にもかかわらずパレスチナにやってきた)フリードリヒ軍の残軍5000がオーストリア公レオポルド等に率いられて着陣したが、彼等は長途の強行軍で疲弊しきっており、その薄汚れた姿を見たチルス軍の志気はかえって低下した。

 しかし、91年の春にフランス艦隊が到着し、さらに夏にはイングランド艦隊が現れ、ここでやっと第3回十字軍の陣容が整った。

 相次ぐ援軍の到着に勢いを得た十字軍はアッコンに対し総攻撃をかけることになった。7月12日、海陸からの猛攻に耐えかねたアッコンは降伏を申し出た。十字軍の首脳たちは、住民を城外に逃がす条件として、イスラム軍がキリスト教徒から奪っていた聖十字架の返還・金貨20万枚の支払い等を要求した。

 ところが、この約束はなかなか履行されなかったため、しびれを切らしたリチャードは、城内のイスラム教徒3000人を皆殺しにしてしまった。リチャードの暴虐は現地の人々に大変な恐怖と敵意を植えつけ、この戦いが終わってかなりの後になっても、人々は言うことを聞かない子供に、「お黙り、黙らないとリチャードをつれてくるよ」といったという。

   

   エルサレム攻撃   目次に戻る

 せっかくアッコンを落としたのに、リチャードはフィリップと喧嘩してしまった。もともと十字軍に乗り気でないフィリップは、フランスのことが気掛かりでもあり、部将ブルグンド公に1万の兵を預けてアッコンに残し、自分は帰国することにした。

 リチャードはその後も進撃を続ける。まずは配下の騎士たちを誘惑(酒と女)の多いアッコンの町から引き剥がすのにひと苦労。サラディン軍の囲みを破り、カイザリア、ヤッファ、アスカロンを占領、11日間に100マイルを走破した。海岸に沿って南下する十字軍は右手の海から味方艦隊の補給を受け、左手から頻繁に襲いかかってくるサラディン軍を撃退し続ける。9月7日のアルスーフの戦いでは十字軍はサラディン軍が馬上から猛烈に射かけてくる矢の雨の前に全滅の危機に陥ったが、喇叭と喚声に励まされた騎士たちが突撃をかけると戦局逆転となり、以降のサラディンは「獅子心王」リチャードの豪勇を恐れて正面きっての戦いを避けるようになった。

 しかし、(十字軍は)その内部はゴタゴタばかり、アスカロンの城壁を修理中、今度はオーストリア公レオポルドと喧嘩になり、レオポルドもまた国に帰ってしまった。彼は先のアッコン攻略の際、真っ先に城壁に掲げた軍旗を後から来たリチャードに引き下ろされ踏みにじられたことを深く恨んでいた。 味方は減り敵に決定的な打撃を与えることも出来ず、リチャードはここは慎重にサラディンと話し合いをもつことにした。サラディンの弟とリチャードの妹を結婚させてエルサレムの統治をまかせるとか……交渉はなかなか進まない。

 1192年春、十字軍はエルサレムまで1日の地点に布陣、交渉を有利に運ぶための示威的な作戦を開始した。まず敵の補給部隊を蹴散らして気勢をあげ、膨大な財宝を奪い取る。だがサラディン自身は挑発にのらず、講和を受けようともしなかった。

 やむなく十字軍はアッコンに引き上げたが、そこでイスラム勢によるヤッフア襲撃の報を受け取り、ただちに海路ヤッファに急行、わずか17人の騎士と300人の弓兵で6000の敵を撃破した。獅子心王リチャードはこの時、船が陸につくよりも早く盾と斧を手にして海に飛び下り、目に付く敵兵を片端から殺しまくったという。

 その少し後、ヤッファから退却して態勢を立て直したサラディン軍が夜襲をかけてきた。十字軍はすんでのところで夜襲を察知、槍隊と弓隊を巧みに使ってイスラム騎兵の猛攻を撃退した。リチャード本人も蛮勇を奮いイスラム兵を片端から一刀両断する。イスラム陣営はリチャードの勇戦ぶりに恐れるよりも感嘆を示し、サラディンの弟マリク・エル・アーディルなどはリチャードの乗馬が疲れきっているのをみて、激戦の最中わざわざ極上のアラビア馬2頭を送り届けるほどであったという。

 しかし、ここでイングランド本国から急報がはいる。「王弟ジョンがフランス王フィリップと共謀し、王位纂奪の陰謀をめぐらせている」。この頃にはサラディンの方もシリア諸侯の反乱に手を焼き出しており、両者対等の講和条約が結ばれることになった。

 「アッコン・ヤッファはキリスト教徒の勢力圏とし、エルサレムへの巡礼も自由とする」。最大規模の十字軍としてはいささか尻すぼみな結末だが、キリスト教君主としての面目だけは保つことが出来た。リチャードはサラディンに使者を送って3年後の再戦を約し、サラディンもこれに答え、「もし聖地を奪われるならば、貴君に奪われたいものだ」と語った。

 1192年10月、リチャードはパレスチナを離れた。

   

   リチャードの蒸発   目次に戻る

 フリードリヒ軍はパレスチナを見る前に分解し、フランス軍もその大半が帰国、唯一最後まで結束と戦力を保っていたイングランド軍も、最後の最後、故国への帰還途中でバラバラになってしまった。暴風雨に吹き流されたリチャードの船はアドリア海を数日間漂流し、ダルマチアの海岸に打ち上げられた。リチャードは陸路フランスの領地を目指すことにした。

 以前リチャードは、パレスチナへの遠征途中に立ち寄ったシチリア島にて、シチリア王タンクレードの娘と甥のアーサー(ジェフリーの息子。将来はブルターニュ公領を約束されていた)との婚約を取り決めていた。それだけならまだしも、リチャードはさらにシチリア王に対する保護まで約束していたため、シチリアの支配権を狙う神聖ローマ皇帝との関係を悪化させることになったのだった。

 ダルマチアからフランスに帰るには、その神聖ローマ皇帝の勢力圏(主に現在のドイツ)を横切らなければならない。日頃は慎重さというものを軽蔑するリチャードも、この時ばかりは無用のトラブルをさけ、聖地帰りの巡礼に変装することにした。

 しかし、やはりリチャードは小細工は向いていなかった。行く先々で豪遊し、すぐに正体がバレてしまった。リチャードの噂はドイツ中に広まった。

 ドイツ諸侯の1人、オーストリア公レオポルドはパレスチナで受けた侮辱を忘れてはいなかった。彼は領内にリチャード捕縛の網をめぐらせた。

 何も知らないリチャードはウィーンの近くまでやってきた。主君がのんきなら家臣も間抜けである。買い物に出かけた従者が聖地で手にいれた金貨を見せびらかしたことから足がつき、リチャードの存在を確信したレオポルドの司直が宿屋に押しかけた。たまたま病気で寝込んでいたリチャードは観念したが、それでもイングランド王である自分が雑兵の縄にかかるのは我慢ならなかった。「われこそはイングランド王リチャードだ。オーストリア公じきじきになら、潔くこの身を引き渡そう」。

 通報を受けたレオポルドはウィーンからすっとんできた。こうして1192年12月、リチャードは仇敵レオポルドの手に落ちたのである。

   

   楽人ブロンデル   目次に戻る

 それ以降、リチャードの消息は途絶えた。母国イングランドでは王弟ジョンが摂政を名乗っていたが、彼は自分の即位の邪魔になるリチャードの失踪をひそかに喜んでいた(しかし、兄王に忠実な重臣たちの妨害で、王位につくことは出来なかった)。イングランドの家臣や領民たちは主君リチャードの並外れた勇気と決断力を好いていた(イングランド以外の領民はそうでもなかった)が、ではどうやってその行方を探したものか、日々頭と心を悩ませていた。

 この時、リチャードのお気に入りの楽士だったブロンデルという男が現れ、ハープを携えてドイツへと向った。ブロンデルは城から城へと訪ねて廻り、城中に囚われている騎士はいないかと調べて歩いた。そしてダニューブ河の近くまで来た時に、ついに目指す手がかりに行き当たった。村人の話によると、その城は警戒厳重にもかかわらず囚人が1人しかいないという。こっそりと城壁に近付き、歌好きなリチャードがよく唄っていた曲の一節を弾じてみると、城壁の奥から続きの節を唄う声が聞こえてくる。

 狂喜したブロンデルは大急ぎでイングランドに戻り、皆にリチャードの無事を知らせた。重臣たちは主君の救出策を協議したが、結局は当時の一般的な慣習に従い、巨額の身代金でリチャードを請け出すことにしたのだった。

   

   リチャードの帰国   目次に戻る

 この間に、リチャードの身柄はレオポルドから神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世へと売り飛ばされていた。皇帝はリチャードに莫大な身代金をかけることにした。

 イングランドの王位を狙う王弟ジョンはフランスのフィリップに協力を求め、その代償としてノルマンディーを割譲することにした。2人は共通の敵リチャードの帰国をふせぐため、皇帝ハインリヒに賄賂を贈り、囚人を手放さないよう依頼した。

 リチャードはウォルムスで裁判にかけられ、聖地での数々の罪をあがなうために、銀15万マルクを支払うことを命じられた。

 リチャードの家臣たちは、主君の身代金を集めるために、領内のあらゆる人々に重税を課した。集まったお金は15万には足りなかったが、王母アリエノールが皇帝のもとに赴き、息子の請けおろしに成功した。ジョンの王位纂奪の野望はカンタベリ大司教ヒューバート・ウォルター等の働きによって阻止された。

 1194年3月、リチャードは十字軍の出発以来4年ぶりにイングランドに帰国し、聖地攻略の英雄、当代随一の騎士道君主(?)としてロンドン市民の大歓迎を受けた。

   

   シャトー・ガイヤール   目次に戻る

 イングランドに戻ったリチャードの最初の行動は、自分を歓迎してくれたイングランド人たちに重税をかけることだった。プランタジネット家の領地の中でリチャードを歓迎したのはイングランドだけで、ノルマンディーにはフィリィプの軍勢が入り込み、重税にあえぐアキテーヌは反乱を起こしていた。アンジューにもフィリップの誘惑の手がのびた。アキテーヌもアンジューも本来はフランス王国の一部分、そこの領民たちはフィリップの臣下でもあるのだ。いつまでもプランタジネットに忠誠を誓う必要はないだろう。

 しかし、リチャードの「獅子心」は本物だった。彼は領民からまきあげたお金でフランス遠征軍を組織し、7月にはノルマンディーに渡ってフィリップ軍を破り、アキテーヌの反乱もたちまち鎮めてしまった。

 リチャードは大金を使って東フランスの諸侯をフィリップから離反させ、さらに甥(妹の子)のブラウンシュヴァイク公オットーをドイツ王に擁立した。(ドイツ王がローマ教皇から冠をもらって「神聖ローマ皇帝」になるのである)

 1196年、リチャードはセーヌ川を見下ろす景勝の地に巨城シャトー・ガイヤールを建設した。十字軍の築城技術を取り入れたこの城は、今日においても中世城塞建築の白眉と称されている。宿敵フランス王に対する勝利を確信したリチャードは勝ち誇った。「私の子はなんて可愛いんだ!まだ1歳だがな」。また、この城を見たフィリップが「鉄の城壁でもとってやる」と叫ぶと、リチャードが答えて、「バターの城壁でも守ってみせる」。そんな傲慢なセリフが吐けるのも獅子心王リチャードなればこそ。いや、そこまで自信あるなら城なんか造る必要ないんじゃないのか? 実際このヨーロッパ随一の堅城はリチャードの死後大した働きもなくフィリップの軍門にくだってしまうのである。

   

   リモージュ伯の財宝   目次に戻る

 それは後の話として、この様な城の建設や対フィリップの外交政策は当然の様に大変な費用を要求した。リチャードの領民たちはさらなる重税を課せられた。

 ある日リチャードは、家臣の1人リモージュ伯の領地に「黄金のテーブルを囲む12人の騎士」なる宝物が発見されたとの噂を聞き出した。軍資金の不足に悩むリチャードはただちにリモージュ伯の城を囲み、宝物の引き渡しを要求した。リモージュ伯がこれを拒絶したため戦いが始まったが、その最中、グールトンのベルトランという弓兵の放った矢がリチャードの肩に命中した。リチャードはリモージュ伯をなめてかかっていたため、甲冑も付けていなかった。

 にもかかわらずリチャードは攻城の指揮を続け、そのまま攻め落としてしまった。リチャードは城兵を皆殺しにしたが、自分に手傷を負わしたベルトランだけは生かして獄につないでおいた。

 リチャードの傷は悪化した。彼はベルトランを呼び寄せてその手柄を称え、褒美に100シリングを与えて釈放してやることにした。

 リチャードはその後すぐに亡くなったが、敬愛する主君を失った家臣たちはベルトランを皮剥ぎの刑に処し、その死体を晒しものにした。

 リチャード1世「獅子心王」は、その領国イングランドに対してはひたすら重税をかけるばかりで、その国家のためになることは何1つとしてしなかった。その兇猛な騎士道はフランスでは珍しいことではなかったが、しかしイングランド人には驚嘆の的であり、そのことは弟ジョンとの比較によってさらに強調されることになった。イングランドの民衆は、彼が自分たちに課した重税はすぐに忘れ、その勇猛さと優れた決断力、そして彼がイングランドにもたらした数々の勝利だけをいつまでも憶えていた。

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