第3部  ジョン   

   ジョンの即位   目次に戻る

 いままで忘れていたが、リチャード帰国の際、その王位を狙っていた王弟ジョンはどうなったのであろうか ?  もちろん、リチャードはこの裏切り者の弟を気前良く許してやったのである。

 そもそもジョンには(何もしなくても)兄リチャードの王位を継承する資格が充分にあった。リチャードには嫡子がなく、跡継ぎ候補としては弟ジョンと甥(兄ジェフリーの子)のブルターニュ公アーサー以外にはいなかったのである。しかも、アーサーの母コンスタンスはプランタジネット家を嫌ってむしろフランス王と仲良くしたことから(リチャードとジョンの)母后アリエノールにうとまれており、ジョンの王位継承はほとんど確実なものであった。

 そして1199年、兄リチャード1世の死により、ジョンはイングランド国王として即位した。ところがフランスの領地では、ブルターニュとアンジューがアーサーを、アキテーヌがアングレーム伯オードマーをそれぞれ擁立してジョンの政権から分離する動きを見せた。当然彼等にはフィリップの支持があった。

 後に大量の領地を失ったことから、その綽名ラックランドを「失地王」とよむ誤訳(正確には「欠地王」その由来はヘンリ2世の所で説明した)まで世間に広めてしまったジョンであるが、この時ばかりは幸運だった。1200年、フィリップが王妃との離婚問題で教皇に破門されたため、その苦境を利用したジョンがアンジューの支配権維持に成功し、甥アーサーを君主とするブルターニュ公領の臣従を勝ち取った。さらにアングレーム伯の娘イザベラと結婚してアキテーヌも確保した。 (ジョンはそれ以前に結婚していたが、世継ぎが出来なかったために離縁していた)

 しかし、イザベラにはラ・マルシュ伯ユーグという婚約者がいた。一方的に婚約を破棄されたユーグは主君フランス王に訴え、教皇との問題を片付けたフィリップは1202年に、フランスに持つ領土の主としては彼の臣下にあたるジョンに対し裁判への出廷を命じた。当然ジョンは動かず、フィリップはジョンがフランスに持つ領地をすべて没収すると宣言した。

 同じ頃、フィリップは15歳になったブルターニュ公アーサーをパリに招いて自分の娘と婚約させ、ジョンからの独立をすすめた。

 フィリップの援助を信じたアーサーはブルターニュ軍を率い、自分のイングランド王即位に反対した祖母アリエノールをミルボーに包囲した。が、アーサーの軍勢は急を聞いて駆けつけたジョン軍の奇襲攻撃で壊滅し、アーサー自身も叔父の手におちた。

 ジョンは父や兄と異なり、謀反を起こした甥を気前良く許すつもりはなかった。アーサーはファーレーズの城に幽閉され、翌年には殺されてしまった。

 いや、実際には殺されたのか自然死だったのかはわからなかった。どちらにせよアーサーの死を喜んだ男が2人いたことだけは確かである。その1人、イングランド王ジョンは王位を狙う近親者が消えたことを喜び、もう1人の男、フランス王フィリップ2世は、甥を殺した(かどうかは知らないが)ジョンが世間の信望を失ったことを喜んだ。

   

   大陸領喪失   目次に戻る

 年若い主君アーサーを殺されて激怒したブルターニュの人々はフランス王の法廷に提訴し、これを受けたフィリップは昨年の領地没収宣言を実行にうつした。ノルマンディーに進んだフランス国王軍は先王リチャードの築いた堅城シャトー・ガイヤールを包囲した。ジョンはただちに援軍を率いて駆けつけ、セーヌ川の両岸に布陣するフランス軍を各個撃破する作戦に出た。しかし作戦に実行力の伴わないジョン軍の攻撃は失敗に終わり、シャトー・ガイヤールも8ヶ月の包囲の末に陥落した。トイレの穴(城壁から外にむかって張り出している)から敵兵に侵入されたのである。ジョンはその兵力の大半を失い、ノルマンディーの町々はフィリップに対しほとんど抵抗しなかった。甥殺しで信望をなくしたジョンに味方する者は、少なくともフランスには少なくなっていた。ただルーアンの町だけが抵抗を続けたが、この町から飛んできた急使の援軍要請を聞いたジョンは、チェス盤を見つめながら首を横にふるだけであった。ルーアンは降伏した。

 そもそもノルマンディーの人々にとっては、本来ノルマンディー公と同格のアンジュー伯(つまりプランタジネット家)が生意気にもイングランド王(およびノルマンディー公その他)を名乗り、ノルマンディーに重税をかけてくるのが我慢ならなかった。それならば、ノルマンディーの本来の宗主であるフランス王に忠誠を誓い、その善政に期待した方が良いだろう。

 ノルマンディー全土はフィリップの手に落ち、ブルターニュもジョンから離れた(これは当然。主君アーサーを殺されたのだから)、プランタジネット家発祥の地であるアンジューですらフィリップになびいた。これらの地域に強圧的な政治を行った(といわれている)ヘンリ2世やその息子たち、重税を搾り取ったリチャード1世のツケがジョンにまわってきたのである。

 こうして1206年には、ジョンのフランスの領地で残ったのは、アキテーヌ南部のギュイエンヌとガスコーニュだけとなった。この地域はパリから遠く離れてその風俗習慣を異とし、どうせよそ者の支配を受けるなら、パリよりもっと遠いロンドンの方がマシだと思ったのだった。

   

   インノケンティウス3世との対決   目次に戻る

 1205年、カンタベリ大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなった。後任の大司教の任命権は、イングランドの慣習では国王にあり、教会法によれば大司教座付属修道院の修道会にあった。ジョンは腹心の部下ノリッジ司教ジョン・ド・グレーを選んだが、修道院の集会はそれより先に副院長レジナルドを選出していた。2人の候補者は教皇の裁決を待つことにした。

 ローマ教皇インノケンティウス3世はその両方を退け、自分の信任する枢機卿ラングトンを新大司教に任命した。イングランド出身であるラングトンは優れた学識と深い信仰の持ち主であり、おそらくはイングランド国内の(国王と修道会の)紛争の回避を狙った教皇のこの判断は最も妥当なものと思われた。またさらにインノケンティウス3世は、イングランドの聖職者の任免権をその手中に収めようと考えたのだった。

 国王権力の教会に対する優越に固執するジョンは、当然の様にこの決定を無視した。ラングトンのイングランド入りを妨害し、その間空位になったカンタベリ大司教の領地からあがる収入を横領するというセコいことをした。

 1208年、ジョンの態度に腹をたてたインノケンティウス3世は、イングランド全土の教会に対し「聖務停止令」を布告した。イングランド中の教会は鐘を鳴らせず、葬式も結婚式も出せなくなった。

 さらに翌年、インノケンティウス3世はジョンを破門した。それでもしばらくはジョンの勢力は揺るがなかった。イングランドにおける国王の力は群を抜いて強大であり、イングランド諸侯はおとなしくジョンに従っていた。ジョンはこの間に教皇を支持する司教達の領地を没収して、その臨時収入で集めた傭兵を率いてアイルランドに遠征し、またその一方でウェールズにおこった反乱を鎮圧した。フランスの領地をほとんど失ったとはいえ、父ヘンリ2世の作り上げたイングランド支配の統治機構だけは万全だった。

 1212年、インノケンティウス3世は最後の手段として、「廃位勅書」を発行し、ジョンに対する聖戦の発動を布告した。フランス王フィリップに賊国イングランドへの十字軍派遣が要請された。しかし、ジョンは艦隊を送ってフランスの船という船を拿捕し焼き払い、大枚をはたいて フランドル伯(北フランスの大諸侯)と神聖ローマ皇帝オットー4世(ジョンの妹の子)の同盟をとりつけた。

 その翌年、ウェールズが再び反乱を起こした。しかし、ジョンの集めた軍勢が、ここではじめて反抗の気配を見せた。ジョンはフランスの旧領を回復するための重税政策をとっていたが、それに対する不満が少しづつ蓄積されてきており、なによりも、当時の信心深い民衆が、破門を喰らったジョンに愛想を尽かしかけていた。イングランド諸侯は負担ばかりかけてくるジョンを見限りだし、その多くがフィリップと連絡を取り出した。

 イングランド全体に広がり出した不穏の空気を素早く察したジョンは、それまでの政策を一挙に転換することにした。

 税金を減らして民衆の歓心を買う一方、教皇のおすラングトンのカンタベリ大司教位受け入れ、教会への賠償金10万マルクの支払い等を表明した。そして1213年5月5日、教皇使節の前にジョン自らひざまづき、イングランド王国全土を教皇に引き渡すことにしたのである。

   

   ブーヴィーヌの戦い   目次に戻る

 馬鹿を見たのはフィリップである。彼はイングランド上陸を目指して戦備を整え、ウェールズやアイルランドの諸侯と同盟し、デンマーク王の妹と再婚して北欧の艦隊を動かそうとしていた。

 ところが、ここでジョンが教皇に頭を下げてしまったのである。これではフィリップは対イングランドの十字軍を中止するしかない。ジョンは改めて教皇からイングランドの王位を授けられ、以前から買収していたフランドル伯や神聖ローマ皇帝と共にフィリップ攻撃に乗り出してきた。

 しかし、イングランドの諸侯・民衆のジョンに対する反感は、教皇の赦免を勝ち取ったぐらいでおさまるものではなかった。

 1214年、ジョンはフランス遠征計画に着手したが、北イングランドの諸侯は莫大な費用のかかる海外遠征への従軍を拒否し、軍役代納金の支払いも断った。

 それでもジョンはかき集めた軍勢を率いてラ・ロシュル(フランス南西部の港町)に上陸し、ロアール川を渡ってアンジェ(プランタジネット家の故郷)を占領した。皇帝オットーはドイツ・フランドル連合軍を率いて 北フランスに進撃し、南から攻めるジョンとでフィリップを挟撃する態勢を整えた。

 フィリップは息子のルイ王子にジョン軍を防がせ、自らは残り全軍を率いて北フランスの連合軍に向い、7月27日のブーヴィーヌの戦いにてこれを大破した。味方の敗北を知ったジョンは10月にはイングランドに引き上げたのだった。

 この戦いは後の西洋の歴史にとって大きな意義をもつ。ジョンのフランス領回復の野心はここで完全についえて以後100年に渡るフランスの優位が確立し、さらに皇帝オットーが失脚して、かつてはドイツ・イタリアの支配者としてヨーロッパの政局を左右した神聖ローマ皇帝の政治力そのものが失われてしまうのである。(次の皇帝フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝というよりも、南イタリア・シチリアの王として力を持っていた)

   

   大憲章   目次に戻る

 いくら重税をかそうが身内を殺そうが、戦争に勝ちさえすればその政権は安泰である。リチャードが無茶苦茶な税金を搾り取りながらも、少なくともそのイングランド国王としての地位と人気だけは絶対だった(イングランド以外ではそうでもなかった。彼の騎士道はフランスでは普通だったが、イングランドでは珍しく、民衆の人気を博したのだった)のは、彼が戦えば必ず勝ったからである。

 そんな兄にくらべてもともと人望が薄く、しかも遠征に失敗して帰ってきたジョンを待っていたのは、イングランド諸侯と聖職者たちの、これまでにない大規模な団結を伴う反国王闘争であった。

 ずっと昔のイングランド国王ヘンリ1世(ジョンの曾祖父)は、暗愚な国王の大権を制限する「自由の憲章」を発布して民衆の好評を得たことがあった。ジョンのフランス遠征中、新しいカンタベリ大司教ラングトンは、この誰もが忘れていた憲章を広め、イングランド中の領主の結束を固めることに成功した。セント・ポールで開かれた貴族の集会は「自由の憲章」を喜んで受け入れ、続いてジョンの帰国後にエドマンズべリで開かれた集会では、必要ならば武力を用いてでも、諸侯と教会が昔から持っている特権の再確認をジョンに飲ませることを決議した。

 かつての国王ヘンリ2世やリチャード1世は戦に強くて民衆の信望も絶大であり、個々ではたいした力を持たないイングランド諸侯では、いくら国王に無茶をされても、それに対する反抗の素振りすら見せることが出来なかった。しかし、ジョンの大陸政策の完全失敗によって力を得た貴族たちは、彼等全員の団結によって国王に対決することを誓いあったのである。

 1215年1月、イングランド諸侯は武装してジョンのもとを訪れ、ヘンリ1世の自由の憲章の再確認を公式に要求した。

 5月12日、ジョンは反抗する諸侯の領地没収を宣言し、国王・諸侯両派は武力衝突に突入した。しかし17日にはロンドン市民が諸侯の側につき、すべての味方を失ったジョンは屈服を余儀なくされた。

 6月15日、ジョンと諸侯はテムズ川の中洲にて会談した。ジョンは諸侯の提示する条件をすべて受け入れ、ここに名高い「大憲章(マグナ・カルタ)」が成立した。

 大憲章は63章からなり、イングランド教会の国王権力からの自由、徴税にかんする諸侯・聖職者の同意の必要性、自由民の裁判は自由民によってなされる等を明記していた。筆者のいいかげんな文章で大憲章の歴史的意義等を真剣に考えるのは避けるが、ここでは山川出版社世界歴史大系「イギリス史1」の以下の文章だけを書き写しておく。「この大憲章の評価には従来2つの大きな流れがある。ひとつは17世紀に起源をもち19世紀の歴史学に継承されたそれで、大憲章を専制に対してイギリス国民の権利を宣明し個人の人権を明らかにした文書でイギリス国制の礎石とする。他は今世紀になってあらわれた考え方でこれを集権化の流れに抗し、諸侯の自立的権力の強化をめざした封建反動の文書とする。最近の学説はこうしたいずれの見方をも非歴史的として退け、この文書をそれの生まれた時と所の文脈のなかで評価せねばならないとしている」。

   

   終章   目次に戻る

 ジョンはまだ諦めなかった。ジョンは主君である教皇インノケンティウス3世に訴えた。教皇は自分の送り込んだ大司教ラングトンが国王に対する反逆を扇動したことを怒り、彼の政務停止を宣告した。

 ジョンは大急ぎで傭兵を集め、8月には反撃を開始した。解散していた諸侯の軍は各個撃破され、ロンドンもジョンの傭兵隊に包囲された。教皇は諸侯とロンドン市民を破門した。(これは無視された。いつ破門がとけたかは資料無し。インノケンティウス3世は翌年6月に亡くなった)

 諸侯はフィリップに援助を求めた。1216年6月、フィリップの息子ルイ王子が軍勢を率いてケントに上陸した。フランス軍と諸侯の軍勢はイングランド南部を制圧し、ジョンはウェールズ辺境に退いた。ルイ王子はジョンの姪を娶っており、フィリップはこの息子をイングランド国王に擁立しようと考えていた。

 その後も戦いは続く。ジョンはウェールズにて軍勢の立て直しに成功した。そこから東に進んでリンカーンを奪回し、さらに北イングランドに向おうとする。

 ところがジョンの軍勢はウォッシ川を渡河中に突然起こった高潮に襲われ、軍需物資も王の財宝も残らず流されてしまった。失意のジョンは病気にかかり、それでも贅沢をやめなかったため、10月にニューアクの町に入った時についに亡くなった。直接の死因はリンゴ酒と桃の食べ過ぎによるものだったという。

 ジョンの跡を継いだヘンリ王子(ヘンリ3世)はまだ9歳の少年であった。幼い王子はイングランド人の同情をあつめた。一方のルイ王子は実のところ父フィリップの野心の道具にすぎない。

 ヘンリ王子を支持する 有力者ベンブルク伯ウィリアム・マーシャルは、大憲章を新国王ヘンリ3世の名で布告することにした。これは条件つきではあったが、イングランド諸侯の広汎な支持を集めることに成功し、ここで彼我の勢力と善悪(?)が逆転した。

 1217年5月、勢いづいたヘンリ3世軍はリンカーン郊外に進撃し、まだルイ王子に味方していたイングランド諸侯の軍勢を破った。この時ドーヴァーを包囲していたルイ王子はロンドンに退却し、本国の父フィリップに救援をあおぐことにした。

 しかし、増援のフランス艦隊はヘンリ3世側のイングランド艦隊に完敗し、望みを断たれたルイ王子は和平交渉のテーブルにつくことを余儀なくされた。

 9月、テムズ川のキングストンにて両者の講和が成立した。ルイ王子はフランスに撤退し、彼に味方したイングランド諸侯もその罪を許されたのだった。

 こうしてイングランドの内戦は終結した。ルイ王子のイングランド王即位はついに実現せず、フランスの軍勢が大挙イングランドに上陸することもこれ以後絶えてなくなったのである(百年戦争の時ごく小規模の部隊が上陸している。それ以外にはあるのかな? ちなみにスコットランドやアイルランドに上陸したことは何度かある)。しかし、ヘンリ3世の方は長ずるに及び父ジョンの失ったフランス領地の回復をくわだて、数次に渡る遠征(とその他の対外政策)とそのための不当な徴税を行い、大憲章を無視して諸侯の不評をかった。

 結局ヘンリ3世も父と同じく諸侯の武力と団結の前に屈し、高位聖職者と大諸侯からなる封臣会議に、さらに各州の騎士と自治都市の住民代表を加えた身分制議会(イギリス議会の起源とされる)の招集を認めることになったのだった。

 それでも、プランタジネットの国王たちはフランスの旧領回復を諦めたわけではなかった。1339年にはエドワード3世がフランスの王位継承権を主張し、息子エドワード黒太子とともに大陸へと攻め込んだ。こうして始まった「百年戦争」はイングランドがフランス国内の領地そのものを狙った最後の戦いとなった(と思う。詳しい人に御教示を求む)。

 その60年後、エドワード3世の孫リチャード2世がその失政から廃位され、かわって傍系にあたるランカスター家のヘンリ4世が王位についた。イングランドの専制的統治とそれに刃向かう諸侯との抗争、そしてなにより自らの出身地であるフランスでの領地維持の戦いに明け暮れたプランタジネット王家は初代ヘンリ2世から数えて8代、245年で廃絶したのである。

 フランス王の臣下としてのプランタジネット家が最後まで保持し続けたギュイエンヌ地方(ランカスター家になってからの関係は資料なし)も、1453年の百年戦争の終結により、イングランドの支配から完全に離れることになった。イングランドの領土はイングランド(とその周辺)だけとなり、フランス王国全土はここではじめてフランス王1人の手におさまった(完全におさまったのは30年程後)のであった。これから後、イングランドとフランスは完全に分離した国家となり、新しい時代へとそれぞれの歩みを進めることになるのである。

                             

おわり

 

「第2部 リチャード1世」へ戻る

   

   参考文献

『プランタジネット家の人々』 アンリ・ルゴエレル著 白水社

『イギリス史』        大野真弓著 山川出版社

『イギリス史1』       青山吉伸編 山川出版社

『イギリス史1』       トレヴェリアン著 みすず書房

『イギリス中世史』      富沢霊岸著 ミネルヴァ書房

『イギリス国民の歴史』    グリーン著 篠崎書林

『英国史上』         アンドレ・モロワ著 新潮社

『中世ヨーロッパ』      堀越孝一・三浦一郎著 社会思想社

『世界戦争史4』       伊東政之助陸軍少将著 原書房

『アイヴァンホー』      ウォルター・スコット著 岩波書店

『通俗世界全史8』      中島孤島著 坪内逍遥監修 早稲田大学出版

『十字軍』          ルネ・グルッセ著 角川出版社

 

『フランス中世歴史散歩』 レジーヌ・ペルヌー他著 福本秀子訳 白水社

『王妃エレアノール 十二世紀ルネッサンスの華』 石井美樹子著 朝日選書 

                                                         

その他   

戻る