ローデシア 第2部

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 1939年に勃発した第二次世界大戦に際しては、ローデシアの白人たちはイギリス軍の一員として出征し、留守番の黒人たちは軍を背後から助けるための生産の拡大に尽力した。イギリス本国の首相チャーチルは41年8月、アメリカ大統領との連名による「大西洋憲章」を発表、その中で「住民による政治的形態の選択権尊重、並びに強奪された主権と自治の回復承認」をうたいあげた。つまり大戦に勝ったら植民地を独立させてやる、ということである。……とか言いながらチャーチル自身はイギリスが持っている植民地については極力手放さないつもりでいたし、アメリカの方は「植民地の独立促進」という美名のもとに、そのような地域にイギリスやフランスが有している権益を切り崩したい(自分も経済進出したい)と考えたのであった。しかし、植民地の黒人たちは、チャーチルたちの思惑をよそに、将来の独立へと大きな期待をふくらませた。

 戦後の南ローデシアは新着の移民が増加し、内外からの投資も増えて製造業が盛んになった。白人たちは南ローデシアの農業・製造業、北ローデシアの鉱業、ニヤサランドの黒人労働力を結合した経済圏の構築を考えるようになり、3地域を包含した連邦の創設をイギリス本国に持ちかけた。戦後のアフリカの各植民地では「大西洋憲章」に刺激された黒人たちの独立運動が急激に盛り上がりつつあり、これに対する防波堤としての価値をローデシアの白人たちに認めたイギリス政府は53年、「ローデシア・ニヤサランド連邦」の結成を承認した。通称「中央アフリカ連邦」である。初代の連邦首相は33年以来南ローデシア自治政府首相をつとめてきたハギンス、これまでの南ローデシアと同じく、外交権はイギリスが握ったまま(ただし通商協定は自由に結べる)という準独立国であった。

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 連邦の経済は好調であった。農業では煙草とトウモロコシが増産され、それらを製品化する軽工業がダム(鉱山からの収入で建設)を用いた水力発電に助けられて急成長した。しかし黒人たちの独立を求める声はもはや無視出来るものではなくなってきた。戦後結成された「国際連合」は民族自決の権利を掲げており、アメリカに対抗してソ連も植民地の解放を声高に訴えた。これらに助けられ、世界各地の植民地は次々と独立を手に入れていく。イギリス植民地においてはまずアジアで47年にインドが、48年にビルマが独立を達成した。

 中央アフリカ連邦ではまず59年、ニヤサランドにて反乱が発生した。これは空軍の絨毯爆撃で潰したが、連邦はニヤサランドを切除することで他の地域に反乱が飛び火するのを防ぐことにした。ニヤサランドの黒人抵抗運動「マラウイ会議党」の指導者バンダ博士は在留白人の権利をこれからも(独立した後も)認めるという態度をとり、そのおかげもあってニヤサランドは62年2月にまず自治権を獲得、さらに64年7月6日、バンダ博士を首班とする「マラウイ共和国」として完全独立を達成した。「マラウイ」とは16世紀頃にこの地域で栄えた黒人王国の名である。

   ザンビア独立   目次に戻る

 同時期には北ローデシアの黒人たちも独立運動を激化させていた。戦後のここの黒人には鉱山で働くために都市部に(出稼ぎではなく)定住する者が増え、48年には労働組合を結成(都市部に大勢で暮らしているから団結がしやすい。また、イギリス本国の労働党からの支援もあった)、52年に大規模なストを決行(銅の採掘が止まった)して賃金引き上げに成功した。

 同時期にはフランスの植民地でも独立運動が盛り上がっており、60年にはアフリカのフランス領だけで11ヶ国が独立を手に入れた。もはやこの動きをとどめることは不可能である。また、イギリス本国としても、黒人たちを政治的に支配してそのための維持費を注ぎ込むよりも、独立を与えたうえで後はうまいこと経済面のみ支配した方が儲かるという考えに変わってきた。そんな時代の流れ………アフリカのイギリス領からはマラウイ以外にも去る57年にガーナが、61年にタンザニアが、62年にウガンダが、63年にケニアが独立を達成した……を背景として、北ローデシア在住の白人の中にも黒人の独立運動に理解を示す者が現れ、黒人の権利は次第に改善されていった。ただ……少し触れたがここの白人には鉱山の仕事で一時的に滞在しているだけの者が多かった(しかも非イギリス系が多かった)のに対し、南ローデシアの白人は農業関係者が多くて完全に土着化しており(註1)、黒人に譲歩しすぎたら自分たちの生活が成り立たなくなると堅く信じていた。

註1 農民は自分の農園を持って完全にローデシアに根付いているため、黒人が権利を拡大して白人に対抗してくるのを最も嫌う階層であった。そもそもイギリスの海外領土の中では南ローデシアは例外的に白人入植者が多いため、余所ほど簡単には独立させることが出来なかったのである。


 そんな訳で、中央アフリカ連邦政府(その首脳は南ローデシア白人)としては北ローデシアをがっちり押さえておきたかったし、北ローデシア黒人の独立運動の側ではカウンダの率いる「統一民族独立党」とンクムブラの率いる「アフリカ人民族会議」の2派があっていがみ合っていた。しかし62年の末には2派は結束に成功、彼らの運動により翌63年3月をもって自治権獲得をなしとげた。完全独立はマラウイに遅れること3ヶ月の64年10月24日、国名はこの地域を流れるザンベジ川にちなんで「ザンビア共和国」と名付けられた。政府首班は統一民族独立党のカウンダであった。ともあれかくしてローデシア・ニヤサランド連邦は解体したのである。

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 南ローデシア……話を何年か遡る……では、北と違って都市部に定住する黒人の数は多いものではなかった。しかし政府(連邦全体ではなく南ローデシア地方の政府のこと)としては工業を促進するために黒人の一部を無理矢理に(出稼ぎではなく常用の労働力として)都市部に定住させようとし、にもかかわらず都市に住む白人がそれを嫌ったうえに、都市に出てみてもろくな社会保障を受けられない、という矛盾した社会状況が深刻化してきた。

 かくして57年、南ローデシア黒人による「アフリカ人民族会議」が結成された。これは特に過激なものではなかったのに、政府側はたちまち弾圧に乗り出して指導者を逮捕した。すると当然その報いとして各地で放火やサボタージュが発生する。そして61年にはソ連の支援を受ける「ジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)」が、63年には中国の支援を受けた「ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)」が結成され、南ローデシアの各地において小規模なゲリラ戦を開始するに至った。「ジンバブエ」とは黒人(ショナ族)の言葉で「石の家」という意味があり、南ローデシア中部にある13世紀頃の黒人国家の都の遺跡のことである。

 黒人の攻勢に危機感を抱いた南ローデシアの白人たちは、あくまで黒人に対抗するための右翼組織「ローデシア戦線」を結成、政界に打って出て63年の総選挙(連邦全体ではなく南ローデシア限定の総選挙)に圧勝した。この組織は農民を主体としており、彼らはそれまでの政権党がどちらかというと商工業を重視していたのに不満を抱いていた。

   一方的独立宣言   目次に戻る

 マラウイとザンビアの独立によって連邦が解体し、他の地域の植民地もその大半が独立してしまった1964年、南ローデシア首相の席にローデシア戦線党首イアン・スミスが就任した。スミスは黒人による政治運動を片っ端から弾圧、非合法化し、白人であっても自分に刃向かうものは容赦なく統制した。さらにこの年の末、イギリス本国で黒人に同情的なウィルソン労働党政権が誕生した(それ以前のヒューム保守党政権ですらスミスの強権ぶりに批判的になっていた)ことから、スミス政権は黒人のみならずイギリス本国をも敵視するに至った。「白人の支配する南ローデシア」という形でイギリスから完全独立しようというのである。

 イギリス政府はスミスに対し、独立したいなら「多数支配原則」「人種差別の終焉」に基づいたうえでやるべきと勧告した。話し合いは全く進展せず、業を煮やしたスミスは65年11月11日、「一方的独立宣言」を布告して新国家「ローデシア」を立ち上げた。準独立国とはいってもあくまでイギリスの領土にすぎない南ローデシアの白人が、本国に対して謀反を起こしたのである。海外領土の原住民はともかく白人入植者が叛くというのはイギリスの歴史においては18世紀のアメリカ独立戦争以来の暴挙であった。当時のこの国の総人口は白人22万、黒人550万を数え、白人の中には余所の旧イギリス植民地から流れてきた者もいた。

 イギリスは自国内のローデシア資産を凍結するという経済制裁をもってこれに答えた。66年12月、スミスはイギリス首相ウィルソンと地中海のイギリス戦艦「タイガー」において話し合いをもったが決裂した。イギリスは国際連合に対し国際的な対ローデシア経済制裁を要請した。国連は67年にまず石油・武器・自動車のローデシアへの輸出、及びローデシア産品の輸入を禁止し、翌68年には全ての貿易を禁止した。しかしローデシアには南アフリカが味方についた。人種差別の同胞だからである(註2)

註2 それならどうして南アフリカはローデシアのように叩かれないのかというと、この国はクロム・マンガン・プラチナといった稀少資源を産出するからである。それらの産地は南アフリカ以外にはソ連ぐらいしかなく、西側諸国としてはあまり機嫌を損ねることが出来なかった。


   ミステリアス・ローデシア   目次に戻る

 さらにローデシアの東隣のモザンビークを植民地支配するポルトガルもスミスを助けた。ポルトガルはこの頃になっても植民地の独立を一切認めない方針を貫いていた(註3)ことから同類のローデシア白人政権と組みたがり、しかもモザンビーク経済は内陸国ローデシアの輸出品を鉄道で港に運ぶ運賃で潤っていた(これがなければ赤字だった)からである。おかげでローデシアは貿易の窓口を確保することが出来(モザンビークの港でローデシア産であることを隠して売りさばけばよい)、国内では外国企業が引き上げた穴を自国企業で埋めることで経済制裁の打撃を回避した。それにローデシア黒人の抵抗運動であるZAPUもZANUも共産圏の援助を受けていたから、スミスとしては反共を強く訴えればアメリカが支援してくれるという見込みもあった。実際、モザンビークの港から出荷される煙草はアメリカ企業が買ってくれたのである。そもそも肝心のイギリスからして、こんなにたくさんの抜け穴を残しているところを見ると本気で怒っているとは言い難い。

註3 イギリスやフランスは植民地を独立させても経済面での支配を続ける自信があったが、ポルトガルは本国の経済が貧弱なのでそんな器用なことは出来なかった(モザンビークには19世紀の頃からイギリス資本が入り込んでいるのに、もし独立させたりしたら完全にイギリスに奪われかねない)。国連はポルトガルに対し「植民地の解放」を勧告し続けたが、ポルトガル政府はモザンビーク等の植民地を「本国と一体不可分の海外州」と定義付け、「ポルトガルには植民地は存在しない」と言い張った。

 この間にもZAPUがゲリラ戦を展開していたが、ローデシア政府軍は南アフリカ軍の協力を得てこれを壊滅させた。南アフリカはローデシア領内に装甲車やヘリコプターを備えた基地を設定してローデシア軍に協力した。以後しばらく黒人抵抗運動は逼塞状態となった。ZAPUはザンビア(北ローデシア)を頼った。ザンビア経済はローデシアと緊密に結ばれていたのに、国連による対ローデシア禁輸に律儀に従ったせいで打撃を被った。しかも、ザンビアは内陸国なので外国(ローデシア以外の国)と貿易するにはローデシア領を通る鉄道を使わねばならない(他のルートの鉄道もあるが、規模が小さい)のに、これをローデシア政府によって止められそうになった。ザンビアはローデシア領内を通る時だけ外国会社の名義を借りるという方法でこの事態を乗り切った(マラウイの動きについては後述)。

 スミスは観光産業に力を入れ、「ミステリアス・ローデシア」というキャッチフレーズを宣伝した。目玉はジンバブエ遺跡である。白人たちはこの遺跡が黒人国家によって建設されたという通説を認めようとせず、「その歴史はミステリアスである」で誤摩化したのであった。

 68年10月には再びスミスとイギリス政府との話し合いがもたれたが、強気のスミスは譲歩を拒んだ。スミス政権はさらに69年6月、永続的な白人支配を謳う「共和国憲法」を採択して国名を「ローデシア共和国」とした。イギリスでは翌70年6月に労働党内閣が倒れて新たにヒース保守党政権が成立、スミスとの話し合いを再開した。スミスは5000万ポンドの援助と引き換えに人種差別を修正するとの協定に同意したが、肝心の黒人たちがこの協定(当分の間は白人政権が続くことになっていた)に満足しなかったため、イギリスは協定を白紙に戻した。

   ローデシア戦争   目次に戻る

 ところでモザンビークにおいては去る62年からポルトガルに対する独立戦争が始まっていた。最初は3派に分かれていた独立運動は64年に「モザンビーク解放戦線(FRELIMO)」に統合され、約8000人のゲリラ部隊を擁してポルトガル軍5万との闘争を展開した。彼らの解放区は最初は主にモザンビーク北部に限られていたが71年頃からソ連・中国の支援を得て南部へと勢力を拡大し、72年からはローデシアの黒人抵抗組織2つのうちのZANUと連繋した。ZAPUの方もザンビアを基地としてのゲリラ戦を強化したため、ローデシア・南アフリカ軍は2正面作戦を強いられることとなった。

 74年4月、ポルトガル本国で革命が起こり、新政権が植民地の独立を約束した(註4)。これでZANUは勢いづくが、ZAPUを匿うザンビアの方は息が切れてきた。ローデシアは去る73年1月にZAPUを根絶するためにローデシア・ザンビア国境を閉鎖してザンビアによる鉄道利用を完全にシャットアウトし、ザンビア経済に痛撃を与えていたのである。そこに、南アフリカ政府が話し合いを持ちかけてきた。南アフリカとしても今のような状態をいつまでも続けられるとは思っておらず、出来ることなら黒人の諸国と友好関係を結ぶことで自国の工業製品を売り込みたいとか考えたのであった(むろん、アパルトヘイトを止める気はない。そこを外交でなんとかしようというのである)。

註4 ポルトガルは1933年以来アントニオ・サラザールによる独裁体制が続き、彼が70年に亡くなった後もその後継者マルセロ・カエターノによる統治が行われていた。ところが植民地戦争の激化(モザンビーク以外にもアンゴラやギニア・ビサウでも黒人抵抗勢力との戦いが行われた)に危機感を抱いた軍部の青年将校が74年7月24日に決起し、カエターノ政権を打倒したのであった。


 そんな訳で74年12月、南アフリカ政府のお膳立てのもとにZAPU・ZANU・モザンビーク解放戦線・ローデシア政府・ザンビア政府の代表が一同に会する「ルサカ会談」が開催され、ローデシア首相スミスが「武力衝突の停止」「政治犯の釈放」、さらに新しいローデシア憲法の制定を約束した。ところが黒人側はゲリラ戦をやめようとせず、これに続く8月15日の「ヴィクトリア・フォールズ会議(新憲法に関する具体的な話し合い)」も物別れに終わってしまった。

 黒人側ゲリラは2万5000にも達し、老若男女を全部あわせても22万人しかいないローデシアの白人でこれを押さえつけるのは困難であった。そこで少数精鋭の対ゲリラ特殊部隊をザンビアやモザンビークに越境攻撃させてそちらにあるゲリラの拠点を叩いてまわることで戦局を有利に運ぼうとする。ローデシア軍の特殊部隊には「ローデシアSAS」「セールススカウツ」「グレイススカウツ」といった部隊があり、外国から金で雇い入れた傭兵を大勢使っていた。

 75年6月、モザンビークが正式に独立した。政権党は無論モザンビーク解放戦線である。彼らはローデシアに対する経済封鎖を行い、これを受けたローデシア軍が報復の越境爆撃を行った。モザンビーク解放戦線は10年以上続いた独立戦争で疲弊しきった経済を急いで立て直すために社会主義を採用するのだが、そこに目をつけたローデシア情報機関「中央情報機構」が反社会主義派のモザンビーク黒人に声をかけて「モザンビーク民族抵抗(RENAMO)」という組織を編成、これを用いてモザンビーク領内での破壊工作を開始した。RENAMO……その中核となったヌドウ族は独立戦争の際にポルトガル軍に与していた……はローデシア領内の基地から出撃しては各地の村を焼き払い、学校・病院・道路を破壊してまわった。

   キッシンジャー工作   目次に戻る

 76年9月、今度はアメリカがローデシア問題の調停に乗り出してきた。ソ連や中国の支援を受ける黒人ゲリラ(復習すると、ZANUは中国の、ZAPUはソ連の支援を受けている)がこのままローデシアを制圧したら困るからである。アメリカ国務長官キッシンジャーが提示した案は、ローデシアにはイギリスが立法権をもって介入する暫定政府をただちに設置し、その上で2年以内に黒人支配による新政権を樹立、西側諸国による経済援助を保証する……というものであった。つまり、巧妙に親西側の黒人政権をこしらえようというのである。ローデシア政府はこの案を飲んだが黒人側は拒絶、さらにイギリスが立法権のみならず防衛や司法にも介入しようとしたことから、ローデシア政府側が「それはアメリカ案と違う」と反発し、またしても話し合いは頓挫した。

 77年8月、アメリカ・イギリスは今度は「ローデシア首相スミスの退陣」「白黒双方の武装解除」「1人1票の総選挙(註5)」「白人資産の保証」という調停案を持ち出した。前回よりもローデシア政府に厳しいこの案について、スミスは拒絶、黒人側は意見が分かれた。スミスは世論(白人のみの世論)の支持に訴えるため解散総選挙を行い、その結果彼の与党ローデシア戦線は85パーセントの得票率で大勝した。

註5 ローデシアの選挙制度は学歴や資産による制限選挙で、「上級有権者(主に白人富裕層)」が50議席、「下級有権者(主に黒人中産層)」が15議席を選出するというものであった。前者は9万3000人、後者は1万1000人で、つまり黒人の99パーセントは選挙権がなかった。

 同年11月、突如としてスミスは「1人1票」の受け入れを表明した。しかしやはりこれはまがい物で、黒人首班の政府が出来たとしても各省庁は白黒1人づつの大臣を持ち、現在のローデシア政府軍を主体として黒人ゲリラを加えた新国軍を編成する、とかいう但し書きがついていた。そして79年4月、ZANUもZAPUもボイコットする中で総選挙が行われ、スミスの傀儡アベル・ムゾレワの率いる黒人政権が誕生、国名を「ジンバブエ・ローデシア」に改称した。……世界の反応は冷たく、ゲリラ戦は止まないどころか余計に激化した。

   ランカスター協定   目次に戻る

 8月、新たにイギリスで成立したサッチャー保守党政権が改めて調停に乗り出し、長々と続く戦闘に巻き込まれて疲弊した周辺諸国の後押しもあってようやく和平が実現した。全当事者の合意に基づく「ランカスター協定」である。白人側も疲れきっており、向こう7年間は財産(土地所有権)が保証されるという案にとびついた。80年4月に実施された総選挙は白人議席20・黒人議席80という、まだまだ不平等なものであった(この白人議席は7年後の廃止を約束された)が、ZANUが57議席、ZAPUが20議席を獲得したのに対してスミスの傀儡だったムゾレワは3議席という結果に終わった。ともあれ、2万人の死者を出したローデシアの戦いはここに終結したのである。

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