ローデシア 第3部

   ムガベ政権   目次に戻る

 こうして1980年4月18日をもって誕生した「ジンバブエ共和国」は改めてイギリスからの完全独立を宣言、ZANU代表のムガベが首相、ZAPU代表のヌコモが内相という連立政権を組織した。ムガベは総選挙の際には白人に対して攻撃的な論陣を張っていた(から第一党になれた)のだが政権獲得後は白人閣僚を登用し、軍の司令官も白人のままにしておくという現実路線をとった。おかげで白人たちは安心し、経済的にも特に波乱は起こらなかった。旧ローデシア首相のスミスもそのままジンバブエに居残った(26年経った今でもまだジンバブエ国内で生きているらしい)。   

 しかし、ZANUとZAPUの仲はたちまち決裂した。閣僚の席の配分で揉めたのと、それぞれの後ろ盾であったソ連と中国の対立(註1)を持ち込んだのである。独立3ヶ月後の7月には武力衝突が発生、ZAPUによるZANU本部爆破や空軍基地襲撃といった事件が続き、ゲリラ戦も行われた。この戦いは5年間続いた末にZAPUが吸収合併されるという形で決着がついた。黒人と黒人の内戦の間にも白人の権利が脅かされるようなことはなく(ただし白人の軍司令官は解任されている)、その意味でこの国は成功していると国際社会には思われた。隣国のモザンビークは長く続いた独立戦争の惨禍に加えて、75年の独立達成にともなって白人入植者(経済を握っていた)が一斉にポルトガル本国に引き上げたことから経済が壊滅しており、それがムガベにはいい反面教師になったようである。

註1 どっちも社会主義国なのだが、63年以来対立関係にある。


 モザンビーク政府が社会主義を掲げていたのに対し、ムガベ……彼も本来は中国の支援のもとに社会主義を信奉していたのだが……は白人に逃げられて社会・経済が混乱する(社会主義を導入した場合、白人農園は当然接収となる)のを怖れたのか資本主義体制を覆そうとはしなかった。それに、西側諸国が(東側には到底真似出来ないような額の)経済援助をしてくれており、これを怒らせるようなことは出来かねた。西側の思惑はいちいち説明するまでもない。87年、当初からの予定どおり議会の白人議席が廃止となった。それと、この年までのジンバブエの大統領職は行政権のないお飾りで、バナナという聖職者がつとめていたが、ムガベはこれに行政権を付与した上で自分が就任した。3年後の総選挙ではZANUが120議席中117議席を占めた。旧ZAPUのヌコモは副大統領となった。

   モザンビーク内戦   目次に戻る

 モザンビークでは、ローデシア白人政府が操っていた「モザンビーク民族抵抗(RENAMO)」が今度は南アフリカの支援を受け、あいも変わらずモザンビーク政府軍との戦いを続行していた。RENAMOは設立の経緯から言えば正統性に疑問のある組織であったが、政府の押し進める社会主義政策に不満な人々を吸収することで強固な基盤を構築したのである。どちらの陣営も残虐行為を繰り広げ、モザンビークの総人口のうちの10パーセントにおよぶ140万人が難民化して周辺諸国へと流出した。ムガベはモザンビーク政府……ZANUにとっては大恩がある……を助けるために82年から派兵を開始、その規模はやがては1万人に達した。怒ったRENAMOは87年6月にジンバブエに対し宣戦を布告し、ジンバブエ領内に侵入して破壊活動を繰り広げた。89年、RENAMOを鎮圧する自信をなくしたモザンビーク政府は社会主義を放棄するという形で西側諸国による救済を求め、派兵の負担が辛くなってきたムガベも調停に乗り出した。南アフリカでも政権が変わって対話路線が強調され出した。75年の独立達成以来延々と続き、60万とも100万ともいわれる大量の死者を出したモザンビーク内戦の停戦協定が調印されたのは92年8月のことである。

   白人農園接収   目次に戻る

 さてジンバブエでは、90年代に入る頃から経済が悪化してきた。91年と96年の大統領選挙ではムガベの留任が決まったものの投票率は低いもので、いつまでも白人の権益が守られていることへの不満が燻った。4500の白人農園が全耕地の3分の1(しかも肥沃地)を支配し、残りの部分に70万世帯の黒人農民がひしめいていたのである。富裕な白人農園の中にはワニを飼育してその皮を売ったり、広大な敷地内でチーターを放し飼いにして外国からの観光客に狩猟をさせたりするところもあった。いちおう92年には「土地接収法」が制定され、政府が白人農園を接収して黒人に分配することが可能となったが、これは小規模にしか実施されず、しかもその恩恵を被ったのは政府の閣僚クラスの人々だけであった。96年には大規模なストが発生し、その一方でムガベは若い愛人との豪勢な結婚式を挙行した。97年には退役軍人のための年金を政府高官が横領した事件が発覚し、98年にはコンゴの内戦に派兵した(コンゴの地下資源を狙ったらしいのだが、巨額の戦費を浪費した)ことでムガベの信用が低下した。

 2000年2月、ムガベは白人農園の接収促進を盛り込んだ新憲法を提示し、その是非を国民投票にかけた。しかし結果は55パーセントが「否」となった。国民の過半数はムガベの言葉を信用しなかったのである。ところがそのすぐあと、白人農園に大勢の黒人たちが殺到し、4500の農園のうち1000を暴力的に占拠するという事件が発生した。死者も出た。この行動の主体となったのは退役軍人(旧ローデシア白人政府と戦った老兵たち)で、国民投票に敗れたムガベの教唆に従っていた。

 同年6月に行われた総選挙では政府与党ZANUは62議席で第一党を守ったものの、つい最近結成された反ムガベ派「民主変革同盟(MDC)」が57議席を獲得した。選挙前のZANUの議席は118であったのだから猛烈な追い上げである。8月からは白人農場の強制収用が公式に開始され、2002年8月までに1100万ヘクタールを収用した。このせいで独立時に23万いた白人は7万まで減ってしまい、さらに生産が極度に混乱した。この強引なやり方はジンバブエの国際的な信用低下を招いて諸外国の経済援助が停止され、さらに天災(旱魃)が追い打ちをかけた。同年3月の大統領選挙ではムガベとMDC党首チャンギライが激戦を展開し、前者の4選が決まったが、敗れたMDCは大規模な反政府デモを行い、政府側の治安部隊が出動する騒ぎとなった。2003年末のインフレ率は600パーセントを記録した。

 2005年3月の総選挙ではZANUが78議席、MDCが41議席となった。MDCは大規模な不正が行われたと訴えた。アメリカのブッシュ政権もムガベ統治下のジンバブエを「圧政の前進基地」と呼んで強く批判したため、ムガベは中国・イランと結ぶことでこの危機を乗り切ることにした。この頃には一般市民は闇経済に依存しなければ生きていけなくなってきたが、同年5月には警察が首都ハラレ市内の不法営業者・不法居住者を取り締まる「秩序回復作戦」を断行した。これは政府が小売業に従事する中国人を保護するための動きでもあったとの噂が流れており、国連の統計によれば70万人もの人々が退去させられたという。

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