ロシア革命 第2部その2

   

   レーニンの帰国   目次に戻る

 臨時政府は成立した。しかしその施政方針には決定的に重要な問題が存在した。現在も継続中の世界大戦とどのようにかかわっていくかという問題である。前述の通り前線は休戦状態が続いているが、ブルジョアは戦争の遂行を第一義に考えているのも既に述べた通り、そのブルジョアの政権である臨時政府は当然のこととして戦争の続行を宣言した。ところが、今回の「二月革命」はあくまで労働者・兵士が「戦争反対」を掲げて自然発生的におこしたもの(彼等は少なくとも基本的には平和を望んでいた。どうやって平和を実現するかは色々考えがあったろうが……)であり、かような臨時政府の方針に黙って従うことは出来なかった。ソヴィエトの主流であるメンシェヴィキ(註1)は戦争の停止を訴え、臨時政府もやむなく「無併合と民族自決にたつ講和」を目指すと声明した。しかし同時に「連合国に対する義務を守る」との声明も忘れず、これはつまり「連合国が勝つまで戦争を続ける」という意味であった。「今はまだプロレタリアが政権を握る時ではない」という理論にこだわるメンシェヴィキはかような臨時政府の戦争遂行策に反発しつつも、その臨時政府を倒して力づくで戦争をやめる、などとは思いもよらなかった(それに、ロシア一国だけがドイツと講和するのは問題。それは「ドイツ軍国主義への屈服〜『猪木ロシア革命史』〜」であるし、他の連合国が黙っていない)。それでは一体どうやって戦争をやめるのか?

 註1 エス・エルの方が数が多いが、理論という点でメンシェヴィキの下風に立っていたのである。(ロシア革命史)

 そこに、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから帰国してきた。彼は戦争の継続には絶対反対であった。

 そもそも今回の「第一次世界大戦」とはいかなる性質の戦いであるのだろうか? 「資本主義」とは、中小ブルジョアの競争及び民主政治によって発達するものではあるが、これがある段階に達すると、ごく少数の巨大企業群による寡頭支配へとその姿を転換する。彼等は強大な軍事力をもって原料資源産地と製品販路を植民地化し、高度資本主義国同士でそれを争奪する。第一次世界大戦とは、かような「帝国主義戦争」に他ならないのである。レーニンは、この段階におけるプロレタリアートは戦争に絶対反対でなければならないと考えた。確かに戦争というものが全国民に一種の高揚感・一体感をもたらすのは事実であるが、それも長期戦化に伴って次第に萎縮し、戦争によって直接利益を被るブルジョアジーと、戦場で戦わされ生活を切り詰められるプロレタリアート・農民大衆との対立が激化することになる。もしここで戦争終結を強く唱えれば、自国人民のみならず、交戦国のプロレタリアート、植民地の被支配階級までもを強力な味方とすることが出来るのである(註2)

 註2 この「被抑圧民族の革命への動員」はスターリンの発想である。各地で虐げられる諸民族はボリシェヴィズムという紐帯によってのみ(民族ごとの利害を超えて)連帯し得るのである。スターリンはかような民族問題の研究によってレーニンに重要されたが、それはスターリン自身がグルジア人の貧しい靴職人の子として生まれ、帝政ロシアの民族的抑圧(学校におけるロシア語の強制等)を肌で感じて育ったからに他ならない。(共産主義の系譜)

 そこまで深い思考はともかくとして、戦争の即時終結というレーニンの主張はドイツ軍部の思惑と合致した。臨時政府の主張は連合国の最終的勝利まで戦闘を継続するとのものであった(さらに詳しくは後述)が、レーニンの戦術はとりあえずは革命ロシアのみが(英仏という帝国主義諸国と袂をわかって、今すぐ)ドイツと講和しようというもので、これはドイツにとっては実に美味しい話である。

 ドイツ軍部の立てた計画はスイスの社会主義者ブラッティンを通じてレーニンに伝達された。政治的に危険極まりない話だが、ドイツとレーニンはお互いを利用する決意を固めた。捕虜交換という名目でドイツ領を列車で通過、さらに船で中立国スウェーデンを経由するというルートである。スイス・ドイツ国境のゴットマディンゲンから先の列車では、レーニンたちが乗り組んだ車両は1つの乗降口を除いて完全に封鎖され、乗降口の側にはドイツ将校が詰めるという厳戒ぶり、いわゆる「封印車両」である。ドイツの援助はこれに留まらず、ストックホルムに着いた際、ドイツ外務省の代理人ヒュールステンベルクと密談し、ストックホルム在住のドイツ人経済学者の口座を通して資金(「あるシンパ」からの寄付という名目)をまわしてもらう約束まで交わしていたのである(松田ロシア革命史)(註3)

 註3 しかしエルネスト・マンデル『1917年10月』によれば「封印車両」にはボリシェヴィキ以外のロシア人も乗っており、そのうち何人かはドイツ・ロシア間の戦闘継続を主張していた、そしてそのことはドイツ側も了解していたという。また同書によればボリシェヴィキはその後も資金繰りに苦しんでおり、ドイツからの「援助」も考え難いとする。

 4月3日、ペトログラードのフィンランド駅(註4)に降り立ったレーニンはソヴィエト議長チヘイゼの祝辞を受け、車でクシェシーンスカヤ宮殿のボリシェヴィキ党本部に移動した。両手に抱えた花束が全く似合っておらず、次々とやってくる歓迎の挨拶をうんざりしながら聞き流していた(ロシア革命史)。

 註4 当時、フィンランドはロシア領となっており、フィンランド駅はペトログラードからフィンランドに向う鉄道の始発駅となっていた。

   

   四月テーゼ   目次に戻る

 レーニンは帰国の翌4月4日、いわゆる「四月テーゼ」を発表する。「今の戦争は帝国主義戦争であり、利益を得るのはブルジョアのみである」。したがってブルジョア主導の臨時政府は戦争をやめようとしない。前線の兵士たちはただちに戦闘を停止して、ドイツ軍の兵士たちと交歓するようにすべきである。

 そして、「プロレタリアートの自覚と組織が不十分であったため、政権をブルジョアの臨時政府に横取りされてしまった。これをプロレタリアートと農民の手へと奪いかえさなければならない」。現在の状況は、ブルジョアが権力を握っている第一段階から、プロレタリアートと農民が権力を握る第二段階への過渡期にあたる。権力を臨時政府に引き渡してしまったメンシェヴィキやエス・エルの政策は明らかに間違っており、つまり彼等はブルジョアの虜になっている。わがボリシェヴィキは出遅れたうえにまだまだ少数派であるが、「戦争の終結」を強く訴えれば労働者と兵士たちは必ずボリシェヴィキの側についてくる。そして、ありうべき政権の形は「ソヴィエト政権」のみである。労働者と兵士のみの代表機関として自然発生したソヴィエトを、「労農民主独裁政権」における政治形態の具体型として位置付けたのである。労働者と農民(あるいは兵士)のみで構成する「ソヴィエト」は、ブルジョアも参加する「議会」よりも、より高度な政治形態(註1)なのである。

 註1 普通選挙に基づく議会は一見公平な機関であるが、マスコミや教育機関を独占するブルジョアジーによる操作が容易な、「ブルジョア独裁」の機関である。

 現在の戦争がブルジョアだけの利益になる「帝国主義戦争」である以上、「ブルジョアの政府」である臨時政府に「戦争やめろ」などといっても聞き入れる訳がない。これからの我々のスローガンは「すべての権力をソヴィエトへ!」「戦争絶対反対!」をおいて他にない。メンシェヴィキとエス・エルは基本的には平和を欲しているが、講和をするのは全交戦国が無賠償無併合に応じた時に限るとし、ロシアだけがドイツと講和するのはドイツ軍国主義への屈服以外の何者でもないと唱えている。これは結果的にブルジョアジーの戦争遂行策への屈従である。それに、今回の「二月革命」は帝国主義戦争の矛盾の限界の果てに起こったものである。これは「世界史の流れを大々的に早める」ものであり、 このままいけば西欧先進資本主義国でプロレタリア革命が起こる可能性が大である。それと連携すれば、 ロシアにおける(すぐにではないが、なるべく早い段階での)社会主義社会実現も夢ではないかもしれないのである。

 レーニン理論の根幹は「労農民主独裁によるブルジョア革命の完遂」であり、社会主義社会への移行はその先とされることは既に説明した。しかし国内・国際情勢の進展を極めて深く見極めたレーニンは今回のテーゼにて「銀行の国有化、生産ならびに分配のソヴィエトによる統制」等、明白な社会主義政策への第一歩を開陳した(註2)のである。もちろんここでも極めて慎重に「社会主義の実現は当面の問題ではない」と述べることは忘れていない。

 註2 あくまで「第一歩」である。 「我々の直接の任務は社会主義を『導入』することではなく、社会的生産と生産物の分配に対する 労働者代表ソヴィエトの統制にいますぐ移ることにすぎない」。 レーニンはボリシェヴィキが権力を奪取した後ですら「我々が社会主義への過渡期に入ったばかりであるということ、 まだ社会主義に到達していないということに関し、私はいかなる幻想も持っていない」と述べている。 ただし、西欧先進資本主義国でのプロレタリア革命と一体となれば、 ロシアにおける早期の社会主義化も可能である。

 この「四月テーゼ」は当初ボリシェヴィキ内部でもなかなか受け入れられなかった。「メンシェヴィキやエス・エルを敵にまわしても、ボリシェヴィキが孤立するだけである」。レーニンの留守中にボリシェヴィキを指導していたカーメネフ(註3)もルイコフも、ボリシェヴィキはとりあえずは「エス・エルやメンシェヴィキと連携しての労農民主独裁」を遂行すべしと唱えていた(スターリンもこれに同調した)。前述した「帝国主義戦争論」に基づくレーニンの戦略論は、他の幹部にはよく理解されていなかった。これは、大戦中ボリシェヴィキ幹部が各地にバラバラになって連絡するのも困難だったことにも起因する(ロシア革命史)。カーメネフやスターリンは党機関紙『プラウダ』に「臨時政府が反革命と戦うかぎり、断固としてこれを支持する」「ドイツ軍が自国の皇帝に服従しているかぎり、ロシアの兵士はしっかりと自分の部署につき、銃弾には銃弾で砲弾には砲弾で答えなければならない」と述べていた。「労農民主独裁」の実現は、事態の発展・深化によって次第になしとげられるであろう。 それに、レーニンは(その完遂はまだ当面の課題ではないといいつつも)社会主義政策の導入を言い出したが、 そのレーニン本人の「二段階革命論」では、革命後はまず「資本主義の発展をはかる」といっていたではないか (それは現在のレーニンも否定していない。ただレーニンは最初の予定より早く「社会主義」を射程に入れよう としているのである。さらに詳しくは後述)。それに、今回の革命はブルジョア革命であり、臨時政府は確かに 「ブルジョア政府」であって、この状況下でプロレタリアート(ソヴィエト)が権力を握らなければならない という必然性は感じられなかった(E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』1) 本来のレーニン理論は、ロシアのブルジョアにはブルジョア革命を遂行する意志がないのだから プロレタリアートと農民がそれを代行する、ということろにあるのだが、現時点ではブルジョア (臨時政府)がやる気になっているのだからそれでいいではないか(と、古参ボリシェヴィキは考えたようである)。 レーニンは亡命生活が長過ぎてロシアの現状がよく理解出来ていないのだ。 4月8日の党ペトログラード市委員会でも、「四月テーゼ」は否決されてしまった。

 註3 彼は帝政によってシベリアに流されていたが、二月革命の後レーニンより先に復帰し、党組織の再編に努力していた。

   

   トロツキーの帰国   目次に戻る

    

 ところが、そこに今度はニューヨークからトロツキーが帰国してきた。トロツキーの革命理論の骨子は以下の通りである。トロツキーもロシアのブルジョアに「ブルジョア革命」を遂行する意志も力もないことをよく理解し、一方のプロレタリアートもまた弱体なのを百も承知している。レーニンがそこで農民との同盟「労農民主独裁」を主張するのに対し、トロツキーは西欧のプロレタリアートとの連合を説く(それはレーニンもいっている)と共に、「農民に支持されたプロレタリアートの独裁」を考える。レーニンは「ブルジョア革命」においてプロレタリアートの党(ボリシェヴィキ)と全農民との連合を考える(ブルジョア革命が成った後はプロレタリアート・貧農VSブルジョア・富農の戦いへと移行する)が、トロツキーは「農民は自身が小資産所有者であり小商品生産者であることから常にブルジョアジーとプロレタリアートの間で動揺しており、またその社会的構成が異質である(様々な階層があり、富農対貧農の対立が激しい)」ことから、(農民全体を糾合するような)政策も政党も持つことが出来ず、農民全体が一丸となってプロレタリアートに協力することは不可能であると考える。しかもレーニンの「労農民主独裁」においては、プロレタリアートが農民よりも少数派になってしまう可能性があり、それでは「ブルジョア革命」において土地を手にした農民が、そのまま保守化してブルジョアと手を結び社会主義社会建設への道を塞いでしまう可能性が高いであろう。もちろんトロツキーも農民の革命性を否定するわけでも、来るべき革命政府に農民を入れないといっている訳でもない。ただ、そのかなりの部分がブルジョアの側に取り込まれてしまうことを危惧し、真に革命的なプロレタリアートが少数派に落ちる可能性のある「労農民主独裁」ではなく、あくまでプロレタリアート主体の「農民の支援を受けるプロレタリアートの独裁」でなければならないと唱えるのである。レーニンの待望するような「ブルジョア革命における農民全体の連合」が本当に出来るなら「労農民主独裁」も結構だが、上に述べたような分析のとおりそれは無理であり、これまで出来たためしもないのである(確かに、1905年の第一革命の時には、農民のかなりの部分が立ち上がった一方で、同じ農民出身の兵士が革命の鎮圧にまわってしまった。その原因は色々あろうが、とにかくその時の農民は一枚岩でプロレタリアートに協力することが出来なかった)。

 それから、レーニンはプロレタリアートと農民がまずブルジョア革命を完遂し、その上でプロレタリア革命(社会主義政策の完遂)へと移行するという。つまり、プロレタリア革命をやるためにはまずその土台を固めなければならない、その土台とは生産力を高めること(註1)であり、そのためにはブルジョアジーの力がどうしても必要となる(そもそも、ブルジョアジーがいなければそれに雇われるプロレタリアートも出てこない)のである。その点についてはトロツキー本人も「プロレタリアートは資本主義の成長と共に成長し、より強力になる。この意味で資本主義の発展は同時にプロレタリアート独裁にむかっての発展である」と語っている。だがやはり、レーニン理論に対しては「プロレタリアート(と農民)が権力を握るのに、ブルジョアがプロレタリアを搾取するという関係が残ったままでいいと皆が考えるのか?」との考えが出てくる(トロツキズム)。国家権力を掌握したプロレタリアートが「自分たちを搾取する」資本主義の発展に努力する、などということはありえないのである。

 註1 もう一度復習する。マルクスの段階発展論に従えば、封建社会→(ブルジョア革命)→資本主義社会→(プロレタリア革命)→社会主義社会となる。つまり、原則としてプロレタリア革命は資本主義社会を経た上でなければ実現しないことになる。ここでメンシェヴィキ理論では資本主義社会を主導するのはブルジョアジーとなる(これが普通の考え)が、レーニンは、そもそもロシアのブルジョアにはブルジョア革命をやる気概がないのだから、かわりにそれを完遂するプロレタリアートと農民が、彼等の主導において資本主義社会を(社会主義社会に移行出来る段階にまで)成長させるのだと唱えるのである。

 従って、「(農民の支持を受けた)プロレタリアート独裁」の樹立はイコール「プロレタリア革命」の開始に直結する。もちろん後進国ロシアが自力でそれをやるのは無理だが、その「後進国」という所がミソとなる。先進国においてはプロレタリアートとブルジョアジーとの関係調整はかなりよく整っており、両者間の最終的衝突(プロレタリア革命)は起こったことがない。しかし、後進国においては両者間の暴力的衝突を防ぐシステムそのものが未成熟である。従って、プロレタリア革命は先進資本主義国たる西欧よりも後進国たるロシアの方で先に起こり得るのであり、西欧におけるプロレタリア革命はロシア革命を起爆剤としてのみ「世界革命」として起り得るのである。そもそも、高度に資本主義の発達した西欧の諸国では(世界革命によらない)一国での社会主義建設は困難である。何故ならば、高度の資本主義国家は他国との経済的紐帯が極めて緊密であり、プロレタリア革命を決行した所で、経済封鎖をうければすぐに干上がってしまうからである。

 トロツキー理論の実現はロシア革命を契機とする世界革命の到来が大前提となっている。十月革命の直前、トロツキーはアメリカのジャーナリスト ジョン・リード(註2)に次のように語った。「(プロレタリアート独裁政権を樹立すれば)それはヨーロッパにおける即時平和の有力な要因となるであろう。なぜなら、この政府は全ての国々の頭上を越えて、その人民に直接かつ即座に呼びかけて、休戦を提唱するだろうからだ。平和回復の暁には、ロシア革命の圧力は『無併合・無賠償・人民の自決権』とヨーロッパ連合共和国の方向へ向けられるだろう。この戦争の終わりには、ヨーロッパは外交官によってではなしに、プロレタリアートによって改造されると思う。ヨーロッパ連合共和国……ヨーロッパ合衆国……これでなければならぬ。国民の自治ではもう不十分だ。経済の進展は、国境の廃止を要求している。もしもヨーロッパが諸国家群に分裂して存続するならば、帝国主義はその仕事を再び始めるだろう。ただ、ヨーロッパ連合共和国だけが、世界に平和を与えることが出来るのだ。だが、ヨーロッパの大衆行動なくしては、これらの目的は実現出来ない。さて…… 」

 註2 十月革命を現場からルポした大作『世界をゆるがした十日間』の著者。雑誌記者として第一次世界大戦の各戦線を取材し、17年8月からロシアに滞在した。帰国後アメリカ共産党の創設に参加し、コミンテルン(国際共産党。各国の共産党はコミンテルン支部という扱いを受けた)のアメリカ代表にもなるが、20年にモスクワで客死した。

 以上の理論においては「ブルジョア革命」と「プロレタリア革命」とがそのまま(時間をおかずに)連続することになる。これがトロツキーの「永続革命論」である。(トロツキーは農民の革命的役割を軽視している訳ではないし、「プロレタリア独裁」に農民を入れないといっている訳でもない。ただ、農民の革命的態度の不安定性にかんがみ、主導権を握るのはプロレタリアートに限るといっているのである。トロツキーは革命前はレーニンと対立していたが、それはトロツキーが党組織の問題にかんしてメンシェヴィキ寄りの立場をとっていたからであった)(註3)

 註3 「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の成立後、スターリンとの政争に敗れたトロツキーは海外に亡命し、1940年に暗殺された。ソ連ではトロツキーはながらく無視されており、本稿でも引用している『ロシア革命史』のロシア語版がロシアで出たのはやっと1997年のことである。

 そしてレーニンの「四月テーゼ」は、前述のとおり社会主義への前進をしめしていた。レーニン以外のボリシェヴィキ幹部の見解では「ブルジョア革命」はまだ完了しておらず、ということは「プロレタリア革命」などはもっと先の話だと考えており、ブルジョア革命とプロレタリア革命との間に時間をおく(極力短くしようとするが)「二段階革命論」にこだわる彼等の中には、ブルジョア革命の完遂(労農民主独裁の実現)も成っていないのに「社会主義政策の導入」をいいだしたレーニンを「トロツキー流の永続革命論者になった」と批判する者もいた。そもそも、ブルジョア革命の主眼の1つたる土地解放(地主貴族の持つ土地を農民に解放する)がまだ実現していないではないか(註4)

 註4 実際には臨時政府は現実に農地を耕している者(これまで土地を持たなかった貧農)への土地の全面的移譲を企図し、翌年春の実現を目指していた。(ケレンスキー回顧録)

 だが、レーニンにいわせれば、今回の二月革命は労働者と兵士がおこしたものであり、兵士の大部分が徴兵された農民である以上、たとえあらゆる必要なブルジョア民主主義的改革(例えば土地解放)がまだ完了していないにせよ、「一定の形態と一定の程度とにおいて」、「労農民主独裁」すなわちブルジョア革命は二月革命をもって実現されたのである(それが実際に機能していないのは、メンシェヴィキが誤った指導を行なったという、ただそれだけの理由による)。問題の土地解放はこれから実現していけばよいのである。(そして究極目標としての社会主義建設を目指す。もちろんレーニンはあくまで「二段階革命」論者であり、いきなり社会主義政策完遂が出来るとは思っていない)

 レーニンは二月以来の変転する情勢を巧みに正確に把握し、あくまで「主体的に」(究極目標としての)社会主義を実現する考えでいた。レーニンは「新しい生きた現実の特殊性を学ばないで、馬鹿の1つおぼえのように公式を繰り返すことによって、我が党の歴史のなかで、一度ならず悲しむべき役割を演じてきた古参ボリシェヴィキ」を痛烈に批判し、少しづつ賛同者を増やしていった。レーニンは単なる理論家ではなく、天性の革命家であった。古参ボリシェヴィキであるカーメネフもスターリンもこの点でレーニンに遠く及ばず、「ブルジョア主導による資本主義の発展を政府の外から黙って待つ」メンシェヴィキに至っては論外であった。

 かように(究極目標としての)プロレタリア革命へと一歩を踏み出したレーニンを、トロツキーは自分の「即時のプロレタリア革命(永続革命)」論に接近してきたと考えた。トロツキーは帰国早々に「四月テーゼ」支持を表明し(トロツキーの正式入党は7月末)、その天才的な弁舌によって労働者や兵士をボリシェヴィキの側へとひきつけていく。以降のボリシェヴィキはレーニンとトロツキーという車の両輪によって引っぱられることになるのである。4月29日、ボリシェヴィキ第7回全国協議会は「四月テーゼ」を採択した。 ただし、社会主義政策の導入や臨時政府打倒については(いつからやるとは)まだ公然と宣言するには至らなかった。 とりあえずは「全ての権力をソヴィエトへ」「戦争反対」というスローガンを党の方針として採用するだけである。 「社会主義革命の創始は我々の仕事ではない。我々はそのための力も、客観的条件も持ってはいない」。この、 ボリシェヴィキ幹部ルイコフの発言に反論する者は誰もいなかった(E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』1)。

 その一方、「戦争反対」と言って今のロシアが大戦から離脱するのはドイツを喜ばせるだけであり他の同盟国に 対して道義的に問題があるとの指摘には、ロシアでソヴィエト政権が誕生すればそれに刺激される形で 西欧先進資本主義国でも革命が起こり(つまり世界革命)そのまま全面的な講和へと移行するであろうとの見解が 示された(E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』3)。レーニンは、かような世界革命と一体となる (西欧先進国に成立するであろうプロレタリア政府の援助を受ける)ことでロシアでの早期な社会主義化実現も 可能と考えたのある。そして、他の党幹部はともかく、レーニンは西欧での革命を確信していた (E・H・カー『ボリシェヴィキ革命』3)。

   

   四月危機   目次に戻る

 レーニンがなんといおうが、臨時政府はあくまで戦争を継続する腹づもりでいた。4月18日、臨時政府の外相ミリューコフは「連合国の決定的勝利まで戦争を遂行する」との声明を各国政府にあて発送した(註1)。帝政ロシアは大戦勝利の暁にはボスポラス・ダーダネルス両海峡(黒海と地中海のつなぎ目)と小アジア(現在のトルコ共和国が所在する大半島)の広大な領土を獲得するとのことが英仏伊によって約束されていた。これはブルジョアジーにとって非常に美味しい話であり、ブルジョア議員たるミリューコフは帝政の始めた戦争を臨時政府の政策としてそのまま引き継ぐ考えでいたのである。これに対し同じ政府閣僚のケレンスキーは、戦争継続に絶対反対という訳ではない(後述する)が、ミリューコフの唱えるようなモロ「帝国主義戦争」的な主張(註2)が現在のロシア人民大衆に受け入れられるはずがないと考え、臨時政府の主張を民衆の世論の側にあわせていく必要があると訴えた。例えば、この少し前にフランスから、(戦争に勝った時に)フランスがライン河左岸を併合する(註3)のをロシアが認めるならば、フランスはロシアがポーランド(註4)のドイツ・オーストリア領部分を併合するのを認めてやってもよいと持ちかけてきたが、ケレンスキーは、そんな帝国主義的なやりとりを続けるよりも、思いきってポーランドを独立させるべきと主張した。

 註1 3月23日、アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦しており、それに勇気づけられたのである。

 註2 18世紀からの帝政ロシアの国策「南下政策」の最終目標はオスマン・トルコ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)の征服にあった。ブルジョアジーの代表であるミリューコフはこれに大いに賛同し、「勝利はコンスタンティノープルであり、コンスタンティノープルは勝利である。この意味で、常に国民にコンスタンティノープルのことを思い出させることである」と唱えていた。しかしこれは同じブルジョアジーの中でも純軍事・政治的に困難であるとの反論が大きかった。(ケレンスキー回顧録)

 註3 ライン河左岸の地域はドイツ領になったりフランス領になったりしていたが、第一次世界大戦が始まった時点ではドイツ領であった。

 註4 ポーランドはもともと東欧の大国であったが17世紀頃から次第に衰え、18世紀後半にロシア・オーストリア・プロイセン(ドイツ)によって分割されていた。

 かような臨時政府内の論争をよそに、ソヴィエトはミリューコフの声明「戦争遂行」に対し「帝国主義的」としてヒステリックに反発し、帰国したばかりのレーニンが反臨時政府のデモを扇動した(ケレンスキー回顧録)。もちろんミリューコフを支持する者も多数いたが、「最後まで戦争を」のプラカードを掲げてミリューコフを応援する傷痍軍人たちの「愛国行進」は、「自分が犠牲になったことを無意味なものと認めたがらない、帝国主義戦争がつくり出した人間の切り株たちの絶望の表明(ロシア革命史)(註5)」なのであった。

 註5 酷い表現だが、一面の真理ではある。

 20日、ミリューコフの戦争遂行策に反対するデモが始まった。フィンランド聯隊の兵士委員会に属する無党派のリンデという人物がイニシアディヴをとり、パブロフスキー聯隊・ケスクゴルムスキー聯隊・第110予備聯隊等の兵士と労働者が武器を持って街へと繰り出してきた。「ミリューコフを除け!」「臨時政府を打倒せよ!」これに対し、ミリューコフの所属するブルジョア政党カデット(自由国民党)が対抗デモを組織した。「臨時政府を全幅的に信頼せよ!」「ミリューコフ万歳!」小競り合いがおこって双方のデモ隊に死傷者が出た。カデットの依頼をうけた(ロシア革命史)コルニーロフ将軍が大砲を動かした(註6)。しかし、さすがにマズイと考えたソヴィエトの中央執行委員会(メンシェヴィキ主導)が「命令第1号」に基づいて、全ての部隊に対し「ソヴィエトの指示なく動いてはならない」との指令を発した。双方のデモ隊のかなりの部分が矛をおさめたが、クロンシュタット軍港の水兵等、多くの部隊が強硬な反臨時政府の姿勢を崩そうとしなかった。

 註6 しかしケレンスキーによれば臨時政府はコルニーロフからの出動の申し出を拒絶したという。トロツキーによれば、少なくともケレンスキーと首相リヴォフ公はコルニーロフに反対し、ミリューコフは沈黙していたという。

 やむなくミリューコフは辞任した。しかし、臨時政府は戦争をやめるつもりはなかった。強硬に戦争反対を唱えるボリシェヴィキに対抗するには、ソヴィエト内の穏健な社会主義政党(メンシェヴィキ、エス・エル)を取り込む以外にないし、そもそも戦争がやりたくても、肝心の軍隊をソヴィエトが押えている以上、臨時政府としてはソヴィエトに協力を要請する以外に道がない(松田ロシア革命史)。こう考えた臨時政府(特にケレンスキー)はソヴィエトに政府への参加を呼びかけた。

 ソヴィエトの諸党派はそれぞれ異なる対応を見せた。まずエス・エル(の右派)は申し出を簡単に受諾した。「我々社会主義者は臨時政府に入ることによって、ブルジョアジーの捕虜になるのではなく、革命の前進塹壕の新しい位置につくのだ」。メンシェヴィキは迷いに迷った末に臨時政府への参加を決めた。臨時政府首班のリヴォフ公は、もしメンシェヴィキが臨時政府に参加しないなら、政府は総辞職してロシアの全責任をソヴィエトに押し付けると詰寄っていた。あくまで自分たちの革命理論に忠実なメンシェヴィキにとっては、今の段階での政府は、何が何でも「ブルジョアの政府」でなければならず、「プロレタリアート(と兵士)の代表機関」であるソヴィエトに権力を背負わせる訳にはいかない(長尾ロシア革命史)のだ。そんなことになるなら「ブルジョア主体の政府に少数派として参加する」方がずっとマシである。また、政府の中に入ってしまえばブルジョアの政策を戦争停止へと変更せしめることが出来るかもしれない(松田ロシア革命史)。5月1〜2日の夜、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は臨時政府への参加を44対19で可決した。反対はボリシェヴィキにエス・エル左派、メンシェヴィキの一部であった。

 こうして成立した「第二次臨時政府(第一次連立政府)」では、メンシェヴィキ(とエス・エル)は前述の思惑に基づき、「15の大臣の椅子のうち6を占めた。少数派たることは彼等の希望するところだった(ロシア革命史)」のである。ちなみに首相兼内相は引き続きリヴォフ公(カデット)、陸海軍相は司法相から転任したエス・エルのケレンスキー、郵便電信相はメンシェヴィキのツェレテーリといったメンバーがそれぞれ占めていた。

 だが、メンシェヴィキと右派エス・エル、いわゆる「社会協調派」がブルジョアの臨時政府に取り込まれた分、「四月テーゼ」を掲げるボリシェヴィキの立場がより鮮明となった。「臨時政府を打倒せよ!」「全ての権力をソヴィエトへ!」クロンシュタット軍港の水兵たち、ラトヴィアのレット人狙撃兵部隊等、いくつかの地方の重要ソヴィエトが臨時政府の権威を否定する動きに出た。これまで少数派で動きも鈍かったボリシェヴィキがようやく歴史の表舞台へとあらわれてきた。以降の紆余曲折の末にボリシェヴィキはすべての権力を手中におさめることとなるが、これは戦争遂行にこだわって民衆の支持をなくしていく臨時政府や、「社会主義革命の気運はいずれ自然に熟してくる」と考えたメンシェヴィキと異なり、あくまで「主体的に」革命をおこそうとしたその姿勢、長引く戦争によって産み出された反戦・革命的機運と、ブルジョアや地主貴族によって奴隷のような扱いを受けるロシアの労働者・農民の革命性(西欧の労働者・農民はロシアのそれほど悲惨でなく、したがって革命性にも乏しい)を正確に把握したところによる。だが、この時点ではボリシェヴィキはまだまだ少数派であった。ソヴィエトにおいても多数派はまずエス・エル、ついでメンシェヴィキである。ボリシェヴィキがこれらを押し退けて本物のボリシェヴィキ(多数派)に到達するには、各地のソヴィエトを説得するための時間と、何らかの大きなきっかけが必要であった。

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