ロシア革命 第2部その3

   

   夏期攻勢   目次に戻る

 第二次臨時政府の中心的政策はやはり戦争の遂行にあった。これはイギリス・フランスといった連合国からの強い要請(註1)もさることながら、二月革命(の際の命令第1号)以来権威の失墜した将校による軍隊支配の回復を狙った軍部の意向が大きかった(二月革命から十月革命へ)。陸海軍相のケレンスキーも、「軍国主義」ドイツの世界制覇を許してはならない、ロシアと同じ運命に結ばれた連合国を敗退させてはならない、そのためにはロシア戦線の軍事作戦を再開しなければならない、と唱えていた。ロシアが何もしなければドイツ軍は全力で英仏軍を叩いてしまう(註2)。そうすると次に潰されるのはロシアである。……ケレンスキーの有名な演説「私は諸君に自由を戦いとるために進軍することを求める。喜びに向ってではなく、死に向って。我々革命家は死ぬ権利を持つ」。今回の攻勢は「自由なロシア」を「軍国主義ドイツ」から守る防衛戦争である。「自由と革命の名において、全世界の面前で名誉ある死をとげよう」「諸君は、諸君の銃剣の切っ先に平和をつけていくのだ」。ケレンスキーは当時のロシアにおいて、トロツキーと並び称されるアジテーターであり、絶大な人気を誇っていた(註3)が、「戦線での作戦中、将校は命令に服従しない兵士に対して懲戒処分を行うことが出来る」との命令書にサインすることも忘れなかった。

 註1 イギリスは経済制裁をちらつかせ、アメリカはロシア軍が攻勢に出るなら7500万ドルを供与すると伝えた。また、モスクワのイタリア総領事は、もしロシアが大戦から脱落すれば、連合国は日本にシベリアにおける行動の自由を与えるであろうと発言した。しかしその一方で、フランス軍のペタン元帥はロシア軍に全く期待していなかったという。(ロシア革命史)

 註2 4〜5月、西部戦線にて英仏軍が大攻勢に出たが、上手く行かなかった。

 註3 ケレンスキー自身の筆による『ケレンスキー回顧録』でも、「君しかいないのだと言われた」とか「私は熱狂的に迎えられた」とか繰り返し書いている。

 そして戦闘開始。当面の敵であるオーストリア軍は適当に戦いつつ退却していったが、彼等はすぐに新しい陣地を築き、頑強な抵抗をし始めた。ロシア軍がさらに前進しようとすればそれは「防衛戦争」ではなく「侵略戦争」になりかねず、そう考えた兵士たちはもはや将校の進撃命令を聞こうとはしなかった(尾鍋ロシア革命史)。ケレンスキー本人も、兵士たちは防衛戦には意欲的だが進撃命令に従うかどうかについては自信がなく、各部隊を激励してまわった際にも、「本国では新しい自由な生活がはじまっているというのに、俺はどうして死ななければならないのか」というムードが漂っていることを認めない訳にはいかなかった(ケレンスキー回顧録)。後に反革命軍の司令官となるデニーキン将軍ですら、今回の攻勢に勝ち目がないことを認めていた(ロシア革命史)。黒海艦隊司令長官コルチャーク提督と艦隊の兵士委員会が紛争を起こし、ケレンスキーの仲裁も空しくコルチャークの方が艦隊を放り出して首都に帰ってしまった。ドイツ・オーストリア軍が反撃を開始し、ロシア軍は簡単に敗北した。「不服従、ボリシェヴィズムへの転向、無限に続く政治集会、そして集団脱走……(ケレンスキー回顧録)」レーニンは兵士たちに呼びかけていた。「我々は君たちに対して、他人のために死ぬのではなく、他人を叩きのめす、つまり国内における君たちの階級の敵を叩きのめすよう訴えるものである」。大勢の兵士が脱走した。西南方面軍司令官のコルニーロフは、この流れを食い止めるため、2月に廃止されていた死刑を復活して規律の強化をはかり、ロシア軍を何とか総崩れの危機から救い出した。

     

   七月事件   目次に戻る

 問題は軍隊だけではない。二月以来勢いにのるプロレタリアートはさらに自分たちに有利な労働条件を求めてブルジョアジーと衝突していた。農村では土地を求める農民たちが「第1回全ロシア農民大会」に結集し、「全ての土地を全人民の財産とし、自分で働く者に均等に土地を分配して用益させる」べきことを決議していた。「農民党」エス・エルに所属する農相チェルノーフは、かような要求をきたるべき「憲法制定会議(後述)」の認可によって実現する考えでいたが、「ブルジョア党」カデットに所属し自身も大地主である首相リヴォフ公はこんな動きは絶対反対であった。しかしその一方ではボリシェヴィキが、(憲法制定会議など無関係に)ソヴィエトが全権力を掌握した時点でただちに上の決議を実現すると表明していた。ケレンスキーもむろん農地改革を考えていたが、それは収穫期を済ませて、来るべき冬の備えを蓄えた後にすべきと唱えていた(ケレンスキー回顧録)。

 「憲法制定会議」は3月の臨時政府成立の時点で公約されていたもので、「(ブルジョアも参加する)普通・平等・直接・秘密投票」によって招集される(予定の)その会議は、「プロレタリアートと兵士(のみ)の代表機関」であるソヴィエトより、ずっとブルジョアや(エス・エル党員に多い)中間層にとって都合のよいものになるはずであった。したがってボリシェヴィキは憲法制定会議招集の前に土地改革をおこなおうとしたのだが、エス・エルの中の左派もボリシェヴィキに賛同して(エス・エルの)党指導部(農相チェルノーフ等)に対抗する動きを見せだした。このあたりからエス・エルの左右への分裂が顕著となってくる。

 また、地方の少数民族が独立を求めて動いていた。特に強力だったのはウクライナで、「ウクライナ中央ラーダ(ウクライナ語で「ソヴィエト」の意味)」は5月の段階で臨時政府に対し、ウクライナの自治を認めるべきことを要求していた。エス・エルのケレンスキー、メンシェヴィキのツェレテーリといったソヴィエト出身(社会主義者)の閣僚たちはこれに妥協しようとしたが、ウクライナの農業・鉱業に利権を持つ(ロシア革命史)ブルジョア政党カデットは激しく反発し、7月2日にはカデットの閣僚3人が抗議辞任をしてしまった。

 ちょうどこの時は前述の臨時政府による対ドイツ攻勢の最中であった。臨時政府の戦争遂行策に不満を抱いていた首都ペトログラードの第1機関銃聯隊(聯隊といっても1万人以上いる)はカデット3大臣の辞職を見て、「臨時政府の打倒」「すべての権力をソヴィエトへ」を実現する好機と見た。

 7月3日午後7時、ペトログラードにて機関銃兵の呼びかけにより、兵士・労働者による武装デモが始まった。2時間後にはデモに参加する部隊は9個聯隊に達した。「すべての権力をソヴィエトへ!」「臨時政府を打倒せよ!」しかしメンシェヴィキはあくまで(本当にあくまで)自分たちの革命理論に忠実で、ソヴィエトが権力をとれとの要求を、「革命にとって致命的である」と判断し、デモの中止を呼びかけた。一番肝心のボリシェヴィキ(と左派エス・エル)もこの自然発生的な武装デモに対し、「まだボリシェヴィキ理論が全ロシアに浸透しておらず、時期尚早である」「前線での攻勢失敗の責任をこのデモによる混乱のせいにされたら困る」との考え(二月革命から十月革命へ)からやはりデモの中止を呼びかけた(レーニンは病気で寝込んでいた)が、デモ隊の勢いに飲まれてやむなくこれに(とりあえず)同調し、武装デモから平和的デモに変更させようとした。つまり今回のデモはレーニンの意志ではなかったのだが、この頃前線で新手のドイツ軍による攻勢が予測されており、ケレンスキーなどは「ボリシェヴィキとドイツによる二重反撃」ではないかと勘ぐった。『ケレンスキー回顧録』によれば、ドイツには確かにレーニンを支援することによってロシアを大戦から脱落させようとの謀略が存在し、十月革命の前後に約8000万金マルクの資金が提供されていたという(註1)

 註1 まあこれはレーニンとの戦いに負けた人が言ってることなので、ある程度は割り引いて考えるべきなのだが……。

 4日、臨時政府は「あらゆる武装デモは無条件に禁止される」との声明を発した。とはいえ首都の近辺に展開する部隊が続々とデモに合流し、その数は兵士4〜6万、労働者30〜35万にも達した。午後5時、ペトログラード・ソヴィエトの中央執行委員会が開かれたが、議長チヘイゼ(メンシェヴィキ)はあくまでソヴィエトによる全権力の掌握を拒否した。前述の通り武装デモを「時期尚早」と見たボリシェヴィキは必死でデモ隊の説得を続け、夜半にはデモ隊を解散させることに成功した。

 ボリシェヴィキは慎重に振る舞っていたが、すぐに反動が始まった。すでに「レーニンはロシアを混乱させるためにドイツが送り込んだスパイである」とのデマ(註2)が飛び交っていたが、右翼紙『ジーヴォエ・スローヴォ』がこの噂を「証明」する文書を掲載し(註3)、激しい反ボリシェヴィキ宣伝がおこなわれた。6日、デマを信じた各地の部隊がペトログラードへと参集し、臨時政府支持を表明した。臨時政府のメンシェヴィキ閣僚ツェレテーリやこれもメンシェヴィキのソヴィエト執行委員リーベルはさすがにそんなデマを信じなかったが、やはり今回の武装デモの責任はボリシェヴィキにあると考えた。ボリシェヴィキに対する弾圧が始まった(『ロシア革命史』によると、先のカデット3大臣の辞職は、こうなることを見越してのことだったのだという)。ボリシェヴィキの党本部が占領され、レーニンは逃走(指名手配)、トロツキー、カーメネフ等は逮捕された。しかし、カデットとくらべれば穏健な政府内のメンシェヴィキと右派エス・エルはボリシェヴィキの活動を禁止すべしとのカデットの主張を退け、地方のソヴィエトのボリシェヴィキを弾圧出来る程には臨時政府の力は強力ではなかった(二月革命から十月革命へ)。4月の時点で約8万人だったボリシェヴィキ党員は7月後半には24万に増加しており、今回の武装デモの失敗という打撃も、党全体としてはいうほど大変な悪影響をもたらした訳ではなかったようである(前掲書)。

 註2 レーニンとドイツの当面の目的(ロシアの大戦からの離脱)が一致する以上、両者間に何らかの取引きがあったのは確実と思われる。しかし、レーニンとしてはあくまでドイツを「利用」しようとしたのであり、「スパイ」というのはあたらない。

 註3  デモに狼狽した臨時政府司法相ペレウェルゼフがレーニンとドイツの関係についての極秘情報(かような話はフランス政府の閣僚からも流れていた)を暴露したという。(ケレンスキー回顧録)

   

   第三次臨時政府   目次に戻る

 7月7日、臨時政府の首相リヴォフ公が辞任した。七月事件の最中、ケレンスキーがしつこくデモの鎮圧を催促しており、閣内におけるそのような「社会主義者」の影響力増大に嫌気がさしたのであった(菊池ロシア革命史)。リヴォフ公の属するカデットは、七月事件に関するボリシェヴィキへの追及が甘いといってメンシェヴィキ及びエス・エルと対立し、さらに前述の農業問題でも論争が絶えなかった。リヴォフ公辞職後の新政府の組織にあたり、メンシェヴィキと右派エス・エルは、現在のロシアの混乱(武装デモ、前線での敗北)を終息させるためには、新しい政府はカデット、メンシェヴィキ、エス・エル等主要政党の参加する強力なものでなければならないと考えた(稲子ロシア革命史)。メンシェヴィキの革命理論からいって社会主義政党(メンシェヴィキとエス・エル)のみで組閣する訳にはいかないので、新政府にはカデットの参加が必須なのだが、そのカデットは新政府参加の条件として、ブルジョアに有利な要求を色々とつきつけてきた。

 一応、リヴォフ公の後継の首相はケレンスキーに決定していた(註1)が、上に述べた困難な状況により組閣工作が難航していた。ケレンスキーは「すべての党派を超えた国民政府」を構想し、自分がそれをまとめる「国家的仲裁者」になりたいと考えていた(ロシア革命)。メンシェヴィキと右派エス・エルもケレンスキー政権参加に同意した。彼等は「すべての権力をソヴィエトへ」を唱えるボリシェヴィキと断固対決する一方で、「ブルジョア革命」の主体である(であってくれなければ困る)カデットが参閣してくれなければ絶対困ると考えていた。そもそも、ここ数ヵ月の間に各地のソヴィエトでボリシェヴィキの勢力が拡大しつつあり、つまり一番肝心のソヴィエトにおける基盤を失いつつあるメンシェヴィキと右派エス・エルとしては、カデットと組む以外にボリシェヴィキに対抗する方策がない訳である(前掲書)。

 註1 『ケレンスキー回顧録』によれば、これはリヴォフ公の意志によったという。

 次に、そのカデットをどうやってケレンスキー政権に参加させるかが大問題である。メンシェヴィキ(と右派エス・エル)はカデットの政権参加を絶対に必要としているが、カデットはメンシェヴィキと組む必然性を有していない。ブルジョア政党であるカデットは大地主や工場主だけでなく陸軍の将軍たち(当然ブルジョアや地主貴族の出身である)とも強いつながりを有していたが、その将軍たちは、「(夏期攻勢に失敗して、ドイツ軍が進撃を続けて革命ロシアを脅かしている現在の状況で)勝ってほしければ軍規を厳しくして将校による支配を復活させよ」とケレンスキーに詰寄っていた。これはケレンスキーにとって実に痛い攻撃だった(註2)。つまりカデットは、メンシェヴィキとケレンスキー双方の弱味を握っていたのである。結局、ケレンスキーは軍の要求を受け入れた(註3)。ケレンスキーはその少し前には、「カデットによって提出された要求(ブルジョアに有利な種々の要求)は、カデットが新政府に参加することを妨げる障害とはなりえない」との声明を発してカデットに妥協する姿勢を見せていた。カデットの党大会はケレンスキー政権への参加を決議した。

 註2 既に述べたごとく、ケレンスキーは前政権の陸海軍相として夏期攻勢に熱心に加担していた。

 註3 彼が受け入れたからといって、現場の兵士たちが従うかどうかは別問題。

 さらに前述のとおり、メンシェヴィキと右派エス・エルも、ボリシェヴィキに対決する必要上カデットと連立政権を組む必要が絶対にあり、しかし政策理念の全然違う両者(カデットとメンシェヴィキ・右派エス・エル)がどうやって連携するかという問題があった。この極めて困難な工作を実現出来るのはやはりケレンスキー以外にいなかった。臨時政府にもソヴィエトにも最初から在籍するケレンスキーは両勢力にまたがる大きな地位を占めており、そのケレンスキーに「カデットに協力しないなら辞職する」と脅されたメンシェヴィキと右派エス・エルは、もはやケレンスキーにすべてを委せる以外になくなった(ロシア革命史)。7月24日に開かれたメンシェヴィキと右派エス・エルの合同会議では、「自分自身の無能に疲れ果(前掲書)」て、147対46、棄権42をもってケレンスキーに組閣の全権を与えるとの決議が下された。かくして、何の政策協定もなされないまま、各派がただケレンスキーへの信任という一点のみで一致する(二月革命から十月革命へ)「第三次臨時政府(第二次連立政府)」が成立したのである。(註4)

 註4 7月末、ドイツが民間ルートを通じてケレンスキーに講和を打診してきたが、彼は怒って拒絶してしまった。(ケレンスキー回顧録)

 ブルジョアジーとプロレタリアートの勢力が均衡を保っている際に、そのバランスの上に立って独裁政治をおこなうことを「ボナパルティズム」と呼ぶ。トロツキーにいわせれば、ケレンスキーはまさにその「ボナパルティズム的陰謀」によって権力を握ろうとしていたのだという。それはともかく新政府は対ドイツ戦の続行を宣言し、地方議会の整備を急ぐと声明した。後者については、労働者と農民のみの代表機関であるソヴィエトよりも、地主やブルジョアを含む普通・平等の選挙で選ばれる議会の方が、臨時政府にとってはるかに都合がよいからである(稲子ロシア革命史)。

   

   コルニーロフの陰謀1(ケレンスキーの証言)   目次に戻る

 8月3日、軍の最高司令官コルニーロフ将軍がケレンスキーのもとを訪れた。コルニーロフは夏期攻勢において敗走するロシア軍を持ち直した英雄であったが、同時に軍における最強硬派であって、ケレンスキーの前で(二月の「命令第1号」で勢力を失った)将校による指揮官権力の回復・軍律のさらなる強化、さらに労働者のストライキ禁止等々の持論を開陳した。ケレンスキーにとっては特に後者は受け入れ難いものであったが、コルニーロフの方にも充分の自信があった。上に見たように、今回の「第三次臨時政府」は実質的にはカデットの強力なイニシアティブのもとに成立したものであり、勢いづいた右翼勢力が「社会活動家会議」に結集してコルニーロフ支持を表明、カデット御大もこれに同調していた。「今日のうちにコルニーロフの政綱が受け入れられなければ、カデット閣僚は辞職する」。やむなくケレンスキーは軍に対するいくらかの妥協を認めた。

 しかし、当り前の話だが、各地のソヴィエトはこんな動きには絶対反対であった。各地で臨時政府や軍の指導部を批判する決議が相次ぎ、かようなソヴィエトの動向を無視する訳にはいかないケレンスキーを、コルニーロフは力づくで(ソヴィエトともども)打倒する決意を固めた。つまり反乱である。

 8月12〜15日、モスクワのボリショイ劇場にて国政会議が開催された。この会議にはブルジョアジー・プロレタリアート・地主・農民といった諸階級の代表が出席したが、その代表者数は各々の階級の人口に比例するものではなく、例えば農民代表も地主代表も100人という具合で、つまり臨時政府(特にカデット)が不利にならないよう最初から操作されていた。ボリシェヴィキは参加証を突き返したが、メンシェヴィキはカデットと連立しているという立場上、「工場主や大商人と話し合いたい」として嫌々ながらも出席した。ケレンスキーは、各階級が顔を揃えるこの会議を上手くまとめることによって自分の調整力を示そうと考えていた(ロシア革命史)。

 会場を訪れたコルニーロフが軍事独裁制の支持者たちの大歓迎を受けた。ケレンスキーはコルニーロフ派が反乱計画を進めていることに気付いたが、この時点では会議の席上でそれとなく釘をさすだけにとどめておいた(註1)‥‥と本人は言っているが、実際には彼の演説は誰に対してというでもないヒステリックな怒号を伴うもの(稲子ロシア革命史)で、ブルジョアジーの期待はケレンスキーよりもコルニーロフの方により強く傾いてしまった。『ケレンスキー回顧録』によれば、コルニーロフによる反乱の準備は4月には既に本格化しており、ロシアの主要な銀行・保険会社の理事を集めた「ロシア経済復興同盟」から莫大な資金が流れていたという。コルニーロフから計画を打ち明けられたカデットの幹部たちは、少なくとも沈黙を守るという消極的な協力を示していた(註2)。国政会議は特に成果もなく閉幕した。参加者はケレンスキーの反ボリシェヴィキ演説や無難な発言には満場の拍手を贈ったが、それ以外の演説に対しては、右半分と左半分とが、拍手と沈黙とを交互に繰り返すばかりであった。会場の外ではボリシェヴィキの指令を受けた労働者40万人が抗議のデモを行っており、会議に出席した代表たちは大規模なストのためレストランで食事をとることも市電にのって移動することも出来なかった。

 註1 『ケレンスキー回顧録』より。これは失敗だった、とある。

 註2 『ケレンスキー回顧録』より。これは多分カデットを庇っているのであろう。

 8月21日、ドイツ軍が要地リガを占領した。リガとペトログラードはそんなに離れていない。ケレンスキーはペトログラード市を除くペトログラード軍管区を最高司令官(コルニーロフ)の管轄下に移し、コルニーロフ手持ちの兵力の一部を首都の自分の手許に派遣させよとの指令を発した。コルニーロフの協力者でケレンスキーの親しい友人でもあるウラディミール・リヴォフ(註3)は、コルニーロフとケレンスキーを協力させて「挙国一致政府」を組織しようと考え、コルニーロフを説得しようとした。コルニーロフはこれから自分がつくる新政権にて、ケレンスキーに司法相のポストを与えてもよいと答えた。しかしそれが嘘であることは明らかだった。メンシェヴィキと右派エス・エルもコルニーロフの計画に気付いたが、それと戦おうにも兵士を動かすだけの信望を持たないため、やむなくボリシェヴィキの支援を期待した(ロシア革命史)。ボリシェヴィキは七月事件の際に兵営への出入りを禁止されていたのだが、今や公然たる復権の機会を手にした訳である。

 註3 第二次臨時政府の総務院長官。オクチャブリースト所属。前に首相だったリヴォフ公とは別人。

 24日、コルニーロフはケレンスキーの指令に答えるという形で配下のクルイモーフ将軍の部隊に首都への移動を命じた。(コルニーロフにとっては)反乱のために軍を動かす口実が出来た訳である(註4)。ケレンスキーが首都に寄越すよう頼んでいたのは騎兵師団だが、コルニーロフが動かした部隊の主力はカフカースの少数民族で編成された「野獣師団」であった(註5)。この部隊の兵士はロシア語がよく解せないため、情容赦なく反乱を遂行出来ると考えたのである。コルニーロフは自分の反乱に正統性を付加するため、協力者たちには「28日〜9月2日までの間にボリシェヴィキが蜂起を企んでおり(註6)、それを防ぐためには政権を臨時政府から最高司令官に移譲する他にない」と説明した。コルニーロフが流したボリシェヴィキ蜂起の噂はケレンスキーの耳にも届いた。

 註4 『ロシア革命史』によれば、ケレンスキーが首都防衛のためにかような行動をとるようしむけるため、(コルニーロフは)リガの防衛を真面目にやろうとしなかったのだという。

 註5 正確には、野獣師団及び第3騎兵軍団とコサック1個師団。

 註6 リヴォフがカデットのミリューコフにその話をしたが、ミリューコフは「そんな蜂起などありえない」といった。とはいえミリューコフもコルニーロフの反乱計画を熟知していたようである。ボリシェヴィキ蜂起の話が嘘であったことはケレンスキーも認めている。(ケレンスキー回顧録)

 26日、リヴォフがコルニーロフの使者としてケレンスキーを訪れ、全ての権力をコルニーロフに引き渡すこと、全ロシアに戒厳令を布告すること、ケレンスキーにすぐ(コルニーロフの)最高総司令部にくるべきことを要求した(註7)。ところがリヴォフはコルニーロフがケレンスキーを逮捕するつもりでいることをばらし、すぐに逃げるようにと忠告した(ケレンスキー回顧録)。リヴォフが下がった後、ケレンスキーはコルニーロフとコンタクトをとった。両者間の連絡のやりとりは電話ではなく電信を用いた。

 註7 コルニーロフは、ケレンスキーに相応のポストを与えてやる、というニュアンスを示そうとしたのである。もちろん嘘だが。

 ケレンスキーは、電信を打つ時にリヴォフの名前を勝手につかい、自分と一緒にいるかのように見せかけた。まずケレンスキーの名前で挨拶し、次にリヴォフの名前で、コルニーロフの要求が本当であるということを本人が確認してほしいと打電した。コルニーロフが確かに確認するとの返電を寄越すと、今度はケレンスキーの名前で「最高総司令部に来いとのことだが、明日にのばせないか、そしてそれは今噂になっている事件(ボリシェヴィキ蜂起の噂)が本当であった場合に限られるのか」と打電した。コルニーロフの返事は「いかなる場合でも、今すぐに来てほしい」であった。(註8)コルニーロフの意志は明らかである。

 註8 以上のやりとりは『ケレンスキー回顧録』によれば電話を用いたことになっているが、どう考えても不自然である(誤訳かな?)。ここではトロツキー『ロシア革命史』に従って電信を用いたことにした。ちなみに後者の訳註によると、ミリューコフの著書に両者の対話がヒューズ印刷電信機を用いて文字で行われたことが述べられているという。『菊池ロシア革命史』では「ケレンスキーはリヴォフの声色を使った」と説明しているが、どうかなあ。

 ケレンスキーはコルニーロフとの全面対決を決意した。大急ぎで閣議を開いたケレンスキーは閣僚に対し協力を求めたが、カデットの閣僚はその場で辞職を表明した。つまり彼等はコルニーロフを消極的に支持したのである。そのコルニーロフ軍は刻一刻とペトログラードに向ってくる。27日早朝、まだケレンスキーの決意を知らないコルニーロフは以下の至急電報を送って寄越した。「軍団は28日夕方ペトログラードに到着する。29日付けで戒厳令を布告するよう頼む」。ケレンスキーはコルニーロフの最高司令官職を解くこととし、何人かの軍司令官にその職への就任を頼んだが、どれにも逃げられた。軍のアレクセーエフ将軍とカデット中央委員会議長のミリューコフがケレンスキー・コルニーロフ間の調停を申し出たが、ケレンスキーは断った。

   

   コルニーロフの陰謀2(トロツキー説)   目次に戻る

 ……ここまでは『ケレンスキー回顧録』を主な資料として記してきたが、トロツキーはまた別の話を書いている。ケレンスキーは実はコルニーロフと組んでの政権強化を狙っていたというのである。ケレンスキー・コルニーロフ・その他1人による新しい政権構想は「執政府」と呼ばれ、もちろんケレンスキーがイニシアティヴを握るつもりでいたのだが、コルニーロフが自分を裏切って個人独裁を樹立するつもりでいることに気付いたため、これと対決することを決意したというのである……。

 そのあたりの『ロシア革命史』の記述を詳しく見てみよう。まず、「執政府」とは、フランス革命後の一時期(1795〜99)政権を握っていた議会主体の政府(総裁政府)を打倒したナポレオンが樹立した政府のことである。これは名目上はナポレオンの個人独裁ではなく3人の執政による寡頭支配という形をとっていたが、実際には第一執政ナポレオンの権力のみが突出していた。『ロシア革命史』によれば、ロシア版「執政府」を組織してナポレオンの地位につくつもりでいたのはケレンスキー、コルニーロフ、そしてサーヴィンコフの3人であったという(この3人の共謀がどのような経緯を経ていつ頃始まったのかはトロツキーも記していない)。サーヴィンコフは古参のエス・エル幹部で、20世紀初頭に「戦闘組織」を率いて帝政の要人を暗殺、二月革命後は最高総司令部付きコミサール(政府から軍に派遣されるお目付役)・南西部方面軍コミサール・陸軍官房長を歴任して、ケレンスキーにもコルニーロフにも一目置かれていた。サーヴィンコフは現在の臨時政府に望みが無いことを認め、ケレンスキーの名声とコルニーロフの軍事力をもって革命的独裁政権(註1)を樹立せねばならないと考えた。もちろんそのイニシアティヴを握るのは自分である。だが、同じこと(政権の頭につく)はケレンスキーもコルニーロフも考えており、特にコルニーロフは出来るだけ早く他の2人を蹴落とす(逮捕する)つもりでいた。

 註1 念のために説明するが、彼は進歩的な政策を強力な独裁政権によって実現しようと考えているのである。別に帝政に逆行しようという訳ではない。

 トロツキーの引用する最高総司令部の記録によればその(いかに執政府を樹立するかの)計画は以下の通りである。サーヴィンコフ等3人が執政府の樹立を公表した際、それに反発するソヴィエト、特にボリシェヴィキが蜂起する可能性が大である。そこで前線にてドイツ軍と対峙するコルニーロフは麾下の軍団の一部を首都に派遣して蜂起に備えることにする……。

 その軍団移動は8月24日に「リガを占領したドイツ軍から首都を防衛する」という名目で実現した。しかしコルニーロフが動かした部隊はケレンスキーが求めていた騎兵師団ではなく野獣師団であったことは既に述べた。そしてこれも前述のとおり、『ケレンスキー回顧録』によればコルニーロフの計画(ケレンスキー逮捕)をケレンスキーに告げたのはウラディミール・リヴォフであったことになっている。トロツキーの記述も大筋でそれと同じである。(トロツキーによれば)コルニーロフはリヴォフを通じ、ケレンスキー(とサーヴィンコフ)に対して「ボリシェヴィキの蜂起から守ってあげるから、私の所にいらっしゃい」と通告した。この「コルニーロフによる保護」がどのようなものであるかはリヴォフも分かっていたが、ケレンスキーには「そのことは君自身の命を救う」とコルニーロフの申し出を受け入れるようせっついた。この部分は『ケレンスキー回顧録』ではリヴォフは「逃げろ」と言ったことになっているが、事態を悟ったケレンスキーがコルニーロフに電信を打ち、リヴォフの名前を使ってコルニーロフの真意を確かめたという話は『ケレンスキー回顧録』にもトロツキー『ロシア革命史』にも記されている。

 ことの経緯がなんであったにせよ、ケレンスキーはコルニーロフが自分と対等に協力するつもりがないことを確信した。『ケレンスキー回顧録』はコルニーロフとの関係を完全に否定しているが、トロツキーの引用によれば、軍のデニーキン将軍やメンシェヴィキのスハーノフといった人々もコルニーロフとケレンスキーが共謀関係にあったらしいことを回想しており、どうやらトロツキー説の方が事実に近い形をとっているようである。

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