コルニーロフが動かした兵力は野獣師団と第3騎兵軍団、コサック1個師団であった。このうち南方から進撃する部隊は鉄道をつかって首都に向うことが決められていた。コルニーロフによる新政権樹立計画は23日頃には公然の秘密となっていたらしく、各国(連合国)の大使館筋はコルニーロフを支援する動きを見せていた(ロシア革命史)。ドイツ軍に対抗しうる、強力な政府・軍の樹立を彼に託していたのである。(以下、少し前述部分と重複するが御容赦願いたい)
コルニーロフ軍が首都への進軍を続ける27日、まだ新聞はコルニーロフの計画を報じていなかった。コルニーロフと戦う覚悟を決めたケレンスキーはコルニーロフを解任し、サーヴィンコフも電話でコルニーロフに対しケレンスキーのもとに出頭するよう説得した。コルニーロフはついに公然たる反乱を表明した。「臨時政府はボリシェヴィキと組み、ドイツ軍を迎え入れようとしている」。カデットの閣僚は辞職して静観の態度を示した(つまり消極的にコルニーロフを支持したのである)。『ロシア革命史』によれば、この日一旦「コルニーロフは反逆を起こした」との公式声明を発したケレンスキーはすぐに後悔し、記者団に対して問題の声明を新聞記事から削除するよう頼んだが、記者団の答えは「技術的に実行しがたい」というものであったという。その時ケレンスキーは「ひどく残念だ」と呻いた。
28日、事態が全国民に知れ渡った。株価が上昇したのはブルジョアジーのコルニーロフに対する期待を示していた(ロシア革命史)。各地の軍司令官はカフカース総司令官を除き全員コルニーロフの味方についた。将校同盟本部委員会も臨時政府の非を訴えた。コルニーロフの最高総司令部は自信満々に公言した。「ケレンスキーを守る者などいない。これ(首都への進撃)はハイキングにすぎない。すべては用意出来ている」。カデットのミリューコフとイギリス大使が相次いでケレンスキーを訪問し、コルニーロフとの調停を持ち出したが、それはもちろんコルニーロフにとって都合のよいものでしかなかった(前掲書)。コルニーロフ軍がずんずん進んでくるとの報告が山を成す。
「しかし、その時、緊張が最高潮に達する局面で常にそうなるように、ドアをノックする劇的な音がした(前掲書)」ソヴィエトがケレンスキー支持を表明したのである。
ソヴィエトは既に27日夜の時点でメンシェヴィキ、エス・エル、ボリシェヴィキの3党合同による「反革命対策委員会」を結成していた。ケレンスキーはソヴィエトに「無条件支持」を要請した。それまで静観していたカデットの元閣僚・顧問団は完全にケレンスキーと袂を分かち、冬宮(ケレンスキーの執務場所)を去った。ケレンスキーとソヴィエト指導部(メンシェヴィキと右派エス・エル)とが、これからどのように協力するかの会議を開き長々と話し合う最中、ソヴィエトの下部組織(ボリシェヴィキ優勢)はテキパキと対コルニーロフ闘争の準備を整えた。ボリシェヴィキの会議にて、労働者の武装と兵士による訓練、全ての不穏分子の逮捕が決定され、自派の兵士に対し戦闘態勢をとって待機することが求められた。29日、首都のほとんどの地区に武装した労働者からなる「赤衛隊」が結成され、ペトログラード全体で4万丁の小銃を動員出来ると声明した。労働者の支配する工場で大砲が組み立てられた。ボリシェヴィキ派の聯隊がコルニーロフと戦う決意を表明し、赤衛隊と共に首都の防衛に着手した。
コルニーロフ軍は鉄道を用いて進撃していたが、鉄道員が線路のレールを外したり障害物をつくったりしてその動きを妨害した。郵便・電信局もサボタージュに入り、コルニーロフ軍の各部隊は移動も連絡も出来なくなった。銃剣で脅して列車を動かすと、それは逆方向や引き込み線に進んでいった。ソヴィエトとケレンスキーの要請を受け、各地の部隊が続々とペトログラードに集まってきた。特にバルチック艦隊では、コルニーロフを支持する将校が水兵によって射殺されていた。
コルニーロフ軍の指揮官たちは一旦後退を命じたが、ボリシェヴィキを中心とする工作員の浸透を防ぐことは出来なかった。ロシア語が話せない「野獣師団」にはイスラム教徒の工作員が潜入した。将校は工作員を捕えようとしたが、野獣師団の兵士たちは古来の慣習に従って客人(工作員)をもてなすとして命令を拒絶した。こうなると野獣師団兵士といえども普通の兵士とかわりない。指揮官は麾下の部隊がどこにいるのかさえ把握出来なくなり、30日にはソヴィエトから「コルニーロフ軍の全ての部隊は完全に崩壊している」との声明が発せられた。コルニーロフは逮捕され、その配下のクルイモーフ将軍は絶望のあまり自殺した。コルニーロフの「反乱軍」は一発の弾丸を撃つこともなく消滅したのである。(9月25日、英仏伊3国の大使がケレンスキーを訪問し、コルニーロフの計画を土台にしてロシア軍の前線を立て直すべきこと、従わなければ臨時政府に対する援助を打切ることを通告した。ケレンスキーはこれを断り、3国が何らかの行動に出ればロシア側もこの横暴な通告を公表すると解答した。3大使はやむなく引き下がった。『ケレンスキー回顧録』より)
この「コルニーロフの反乱」により、閣内に反革命の支持者(カデット)を出した臨時政府の信用はがた落ちになった(ということは、臨時政府に閣僚を送っているメンシェヴィキと右派エス・エルの評判も落ちる)。今回の反乱を鎮めたのは間違いなくソヴィエトであり、もはやメンシェヴィキの中にも「すべての権力をソヴィエトへ」というボリシェヴィキのスローガンに同調する者があらわれた。七月事件で打撃を受けたボリシェヴィキもここで完全に立ち直った。9月9日にはペトログラード・ソヴィエトの執行部が改選され、ボリシェヴィキが13、左派を含むエス・エルが6、メンシェヴィキが3となり、メンシェヴィキと右派エス・エルは事実上ペトログラード・ソヴィエトにおける基盤を失った。エス・エルの党ペトログラード市会議でも同党左派が優勢となり、モスクワのソヴィエトでもボリシェヴィキが多数を占めた。
第三次臨時政府は(コルニーロフに同調した)カデットの4大臣が辞職したため倒壊状態となった。ケレンスキーは自身にメンシェヴィキ1人、無所属3人からなる「執政府」を組織して新内閣の組閣にあたることにした。しかし、もはやソヴィエトの多くは「すべての権力をソヴィエトへ!」を唱えて臨時政府を支持してくれず、やむなくケレンスキー(とメンシェヴィキ、右派エス・エル)はソヴィエトにかわるものとして「民主主義派会議」を開催したが、(ソヴィエトと違って)ブルジョアの参加するこの会議でも、臨時政府を支持する者は過半数を少し上回るにすぎなかった(支持766人・不支持688人・棄権38人)。
「我々が欲すると欲しないとにかかわらず、ブルジョアジーこそは政権の帰属する階級である」。何が何でも「ブルジョア中心の政府」にこだわり、ボリシェヴィキの勢力伸長に対抗するメンシェヴィキ(もうガタガタだが……)は、民主主義派会議の「拡大議長団会議」を開催し、まずそこで選んだ代表に、後からブルジョア代表を加えるという「ロシア共和国評議会(予備議会)」を成立させた。ブルジョア代表の参加云々については賛成56・反対48・棄権10である。ソヴィエトに愛想を尽かされつつあるケレンスキーも「国民の支持を得るための権威ある会議体」として共和国評議会を認め(尾鍋ロシア革命史)、評議会に対してのみ責任を持つ内閣を組織することとした。つまり、共和国評議会とは「国会」の機能を代行するものであり、それは3月以来臨時政府の公約となっている憲法制定会議(「会議」というが、全国規模の直接普通選挙で数百人の代表を選ぶ事実上の「国会」である)の招集まで国民を代表する機関として機能するものとされていた(従って別名「予備議会」という)。これを受け、帝政以来の「国会」は正式に解散することになる。ボリシェヴィキは一旦は評議会への参加を可決したが、しばらくしてレーニンの反対にあって取り下げた。評議会のまやかしを内側から暴露するよりも、外側から解体する方がよいというのである。それにしても、トロツキーにいわせれば、「史上にきわめて多くありふれている代表制機関のあらゆるパロディの中で、ロシア共和国評議会はおそらくもっとも愚かしいものであった」。(←言い過ぎ)
もちろんこの評議会でも、ブルジョアとメンシェヴィキ、右派エス・エルの間には何の政策協定も結ばれなかった。ケレンスキー以外の右派エス・エル首脳部は「カデット以外のブルジョアとの連立」を唱えたが、「支配的なブルジョア政党」であるカデットを除いたブルジョアとの連立など、どう考えても馬鹿げていた(ロシア革命史)し、それはケレンスキーも認めていた。「カデットは全体として、ロシアの民主的政治体制建設に従事している勢力の中で積極的で創造的、かつ不可欠の部分であることを私は知っていた。カデット(党全体として)は少数の個々の党員の行動(コルニーロフを支持したこと)について責任を負う必要はない(ケレンスキー回顧録)」ケレンスキーはカデットを追及しないかわりに、七月事件の際に逮捕されていたボリシェヴィキ幹部を釈放した。その中にはカーメネフにジノヴィエフ、さらにトロツキーもいた。トロツキーは獄中でボリシェヴィキに正式入党していた(レーニンはそのまま指名手配)。結局、9月25日に成立する第四次臨時政府(第三次連立政府)には4人のカデットが入閣することとなった。「コルニーロフ反乱で負けた方(カデット)が組閣では勝ったといっていいぐらいの結果となった(長尾ロシア革命史)」新政府は、プロレタリアートと兵士の支持をますます失ってしまった。
新政府はもちろん戦争を続行した。ドイツ軍の艦艇と飛行機がフィンランド湾にまで入り込んでおり、政府はその攻撃を避けるためにモスクワに移転することにした。これは、民衆の支持を失った臨時政府が「革命の都」から逃げ出すという意味を含んでいた。一部のブルジョアは、ボリシェヴィキの巣であるバルチック艦隊(首都近くのクロンシュタット軍港にいる)をドイツ軍が叩いてくれればいいとすら考えていた(ロシア革命史)のである。ソヴィエトの兵士部会は、臨時政府が首都を防衛する力を持たないなら、すぐに対独講和を実現するか、別の政府に席を譲るべきであると声明した。臨時政府は首都移転を取り下げた。
ところで、二月と十月の革命の狭間の時期、一般庶民の生活はどのような状態に置かれていたのだろうか? 実は、臨時政府が半壊状態になる一方で、首都の治安システムも完全な破綻を来していたのである。もともとペトログラード(大戦勃発時の人口は約300万)の治安は良好で、殺人事件は年間十数件、強盗事件も多い年で200件程度であった。ところが、二月革命のドサクサで刑務所から逃げ出した犯罪者(註1)や前線の部隊から抜け出してきた脱走兵が市中に紛れ込み、1日に数十件の強盗事件が発生するにいたっていたのである。
註1 ここでは政治犯ではない一般の犯罪者を指す。
臨時政府は一般の犯罪者も旧帝政の抑圧による犠牲者と定義していた。しかしこれは理想論であり、そもそも、仮に厳罰主義をとろうとしても、帝政司法の崩壊後に新しくつくられた警察機構(民警(註2))・裁判所・刑務所がほとんど機能していなかったのである。これらはどこも素人ばかりであり、例えば民警の多くは予算不足で武器がもらえず、給料の低さをストライキに訴える有り様、裁判は恣意的、看守はサボってばかりいた。首都では食糧は配給制になっており、武器をもってスラム街に住み着いた脱走兵は、生きるために様々な犯罪に手を染めていた。ペトログラード市内に潜伏する脱走兵は7月の時点で5〜6万と推定され、彼等の溜り場になっている地域には脱走兵の経営する宿屋や酒場があって、盗品売買や盗みの仕事の斡旋までやっていたという。彼等は民警の手入れには銃やナイフで応戦し、市街戦まがいの乱闘に発展することも多かった。
註2 民警は二月革命の際に自然発生的に生まれた民衆の自警組織であり、2月28日にソヴィエトによって承認された。臨時政府のつくった「都市民警」も存在するが、両警察機構の関係は不明である。
一般の庶民も革命の興奮と生活の混乱で正常な判断力をなくすことが多々あり、なにかのきっかけに日頃の偏見が重なって、ユダヤ人に対して集団暴行(ポグロム)を加えることもあった(註3)。9月頃に首都でおこった窃盗は、届けられたものだけで1日50〜400件にのぼった。革命前は閑静な高級住宅地だったレスノイ地区はあらゆる犯罪者に包囲され、夕方の6時を過ぎると出歩く者もいなくなる有り様、朝の7時から小銭目当てのホールドアップが起こることすらあったという。
註3 ユダヤ人に対する迫害はボリシェヴィキ政権誕生後レーニンによって禁止されるが、その後スターリンによって再開される。
殺人事件も激増した。あらゆる階層に麻薬が蔓延し、中国人労働者(註4)の居住区で何度も阿片窟が摘発された。賭博も性病も大流行した。首都に点在する森にて夜間の闇賭博大会が開催され、松明の明かりの下で巨額の金品が動いていた。賭博に用いるトランプの生産が追いつかないため、トランプ扱い店の前には長い行列が出来、買い占めで儲ける商人もいた。当然イカサマも頻発するが、もし発覚しても賭博自体が違法なために民警に届けられることがなく、内々で済まされることが多かった。それは例えばリンチにかける(そのまま殺すことも)とか、罰金をとって店への出入りを禁止するとかである。
註4 第一次世界大戦における労働者不足を補うため、主に満州から移入されていた。
清掃業務が麻痺したため、市中いたる所にゴミの山が出来ていた(註5)。すると当然コレラや赤痢といった伝染病(註6)が猛威をふるうことになる。(ペトログラード市内で)牛や馬が餓死したまま放っておかれることすらあった。物価も高騰していた。14年8月と17年8月を比較してみると、賃金が平均500%増加しているのに比べ、食品は556%、その他の生活必需品は1107%もの値上がりを見せていた。(『世界をゆるがした十日間』の付録より。これはモスクワでの数字。同書によると小額の交換には貨幣ではなく切手が使われていたという)
註5 革命等による長期間の混乱はそんなところにも及ぶのである。わりと最近でも、例えば1968年のフランスの「五月革命」でも、収集されないゴミがパリ市のいたる所に山をなしていた。
註6 これは伝染病ではないが、メチルアルコールを飲んで死ぬ人があとを絶たなかった。
民警が頼りにならないため、各建物(アパート)の住民は建物委員会を組織して自警にあたり、捕まえた犯罪者を凄まじいリンチにかけた。『世界をゆるがした十日間』の著者ジョン・リードも、盗みで捕まった兵士が数百人の群集に暴行されるのを目撃している。二月革命の際に奪われた武器は(臨時政府は民警におさめろと通達したが)ほとんどそのまま労働者の手中にあり、捕まえた犯罪者を八つ裂きにすることすらあったのである。(以上の記述で『世界をゆるがした十日間』以外の部分は『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』を参考とした)
さて、レーニンはこの頃何をしていたか? 「七月事件」以降地下に潜ったレーニン(註1)は9月13日、「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」と題する手紙を潜伏先のフィンランドからボリシェヴィキの党本部にむけ発送した。「ボリシェヴィキは2つの首都(ペトログラードとモスクワ)のソヴィエトにおいて多数を占めたので、国家権力をその手に握ることが出来るし、また握らなければならない」として臨時政府に対する武装蜂起を呼びかけたのである。何故急にそんなことを言い出したのか? 実はこの頃、ドイツにて急速に革命的機運が高まりつつあった。「ロシアの革命によって他国のプロレタリア革命に火を付け、そちらの援助によってロシアでも社会主義社会を実現する」という「世界革命」を指向するレーニンにとって、臨時政府打倒とソヴィエト政権樹立という火花を打ち上げることこそが「世界革命」の合図なのであり、ドイツの情勢を見てもその機は限界まで熟しているというのである(ロシア革命史)。「我々は全世界的な革命の入口に立っている」。また、前線における攻勢の失敗は大量の脱走兵を生み、故郷に帰った農民出身の兵士たちは自分たちの判断で地主の土地を没収し、「土地改革は(ブルジョアに有利な)憲法制定会議の後で」と主張する右派エス・エルは彼等の支持を失っている(ソヴェト革命史)。脱走とまではいかないまでも、ドイツ軍の攻勢にあって退却してきたロシア軍の兵士たちは、ひとり残らず臨時政府の戦争遂行策を憎んでいた(ロシア革命史)。失敗した七月事件の時とは違う。臨時政府打倒の機は熟したのである。
註1 コルニーロフ反乱の鎮圧後も臨時政府による指名手配が解けていなかった。
しかし、ボリシェヴィキ幹部の一部(カーメネフとジノヴィエフ)は、かような「世界革命」の見通しに懐疑的であった。それに、臨時政府はまだまだ強力な軍部隊を掌握しており、特に士官学校生徒(後述)5000人には侮りがたいものがある。彼等と武器を持って戦うような冒険をおかさずとも、とりあえず臨時政府の公約する憲法制定会議まで待っても、おそらくそちらでもボリシェヴィキが多数を占めるであろうから問題ないと考えた(結果を先に言うなら、この考えは甘かった)。
だが、レーニンと同じく「世界革命」を信奉するトロツキーは、やはりこの決定的な所でレーニン支持を表明した。内外の情勢が緊迫している今行動を起こすか否かはトロツキーとレーニンの革命理論の根幹にかかわる問題なのである。しかし、レーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の時期が今しかないということについては力説していたが、具体的な計画については考えておらず、党員に戦術面の不備をつかれても「どうにかなる!」と言うしかなかった。ここから先はトロツキーが主役である。トロツキーは前述のとおりコルニーロフ反乱終結後にケレンスキーによって釈放され(註2)、その後ペトログラード・ソヴィエトの議長に就任していた。
註2 トロツキーは獄中でボリシェヴィキに入党、中央委員会にも加わっていた。
そのペトログラード・ソヴィエトは、ケレンスキーの新政府が前述のように(ソヴィエトの支持が得られないので、そのかわりに)「共和国評議会」なる組織をつくってソヴィエトを無視していることに憤激し、全ロシアのソヴィエトを糾合する「第2回全ロシア・ソヴィエト大会」を招集すべきことを決議していた。6月に開催された「第1回全ロシア・ソヴィエト大会」では3ヵ月ごとに大会を開くことを決めていたのでこれは本来何の問題もないことであったが……しかしここで、ボリシェヴィキのスローガン「すべての権力をソヴィエトへ」が採択されるのは間違いないと思われたから、ケレンスキーとメンシェヴィキ、右派エス・エルは大いに焦った。ペトログラード・ソヴィエト議長のトロツキーが「大会の招集を妨害しても、結局は革命(註3)によって招集されるであろう」と言い放った。だがトロツキーにとって、大会の開催はそのまま武装蜂起(まだやると決ったわけではない)に直結していた。トロツキーは蜂起を実現するにあたって、ボリシェヴィキだけの責任において蜂起をおこなうのではなく、全ロシア・ソヴィエト大会の開催にあわせて、「ソヴィエト全体」の責任に基づいて権力奪取をおこなうべきであると考えていた。「合法的な」ソヴィエト大会の準備は、「非合法な」武装蜂起の準備を覆い隠していた(ロシア革命史)。ならば武装蜂起の期日は大会が招集される10月20日となる。
註3 ここでいう「革命」とは単に臨時政府打倒の武装蜂起という意味である。……ところで、トロツキー理論によれば「ブルジョア革命」と「プロレタリア革命」とは否応なく連続するものであること、レーニンによれば後者はあくまで資本主義社会の深化によって起こる(それは状況次第で短く出来る)ということは既に述べた。これから起こる十月「革命」とは一体何革命なのかというと……、十月革命後のレーニンは、君主や地主(特に地主)が(完全に)打倒されるまではブルジョア革命的な段階であり、その意味で18年夏もしくは秋までは、ほとんどブルジョア革命であった、と述べている。ということは、原則に従えば社会主義的政策の本格的導入はブルジョア革命の完遂(どんなに早くても18年秋)以後となる。十月革命直後のレーニンは、「(これから漸進的に)社会主義国家の建設に専念する」と断言しつつも現実の社会主義的政策本格実施(例えば大工業の国有化)には慎重な構えを見せていた。しかしながら、その前後には各工場で労働者による自発的な占拠・自主運営(つまり自発的な社会主義への移行)が始まってしまっており、つまり「ブルジョアジーを打倒する戦い」は自然発生的に開始された(二月革命前にレーニンが考えていた「労農民主独裁」は、あくまでプロレタリアートと農民が、皇帝や地主貴族に対する戦いを行う機関であり、ブルジョアジーは政治の中枢から除外されはするが存在そのものが否定される〜打倒される〜訳ではない)訳である。もちろん実際にはつい最近まで封建制だったロシアではブルジョアジーもプロレタリアートも弱体であって社会主義社会の建設など無理といっていいが、「政治の発展が経済の発展を追い抜(ボリシェヴィキ革命)」き、十月革命は実質的に「プロレタリア革命」となってしまったのである。レーニンはその理論と現実の矛盾を何とか肯定しようと四苦八苦し、極めて慎重に、(それを目指すと明確に言いつつも)早急な社会主義建設はさけようとする。ただ、レーニンにしてもトロツキーにしても後進国ロシアにおいて社会主義社会建設を完成させるためには「世界革命」の到来が必要だと考え、それは当然やってくるものと確信していた訳であるが、それは結局不発に終ることになる。そこでスターリンが考えたのが「一国社会主義」である。それについてはまた今度。
しかし、10月上旬に変装してペトログラードに戻ってきたレーニン(註4)は、カーメネフ等蜂起そのものに反対するボリシェヴィキ幹部の説得を続ける一方で、トロツキーに対する批判も繰り出してきた。「大会開催と同時になどといわず、今すぐ蜂起すべきである」。今でもソヴィエト内部にそれなりの力を持つメンシェヴィキと右派エス・エルが術策を弄して大会開催を延期したりすれば、その間に臨時政府に忠実な地方の部隊が首都にやってきてボリシェヴィキを弾圧するかもしれない。「今なら、権力を掌握出来るが、10月20日には、敵(臨時政府)は我々にそれを渡さないであろう。11月1日には、権力の掌握は不可能になるであろう」。今なら、臨時政府の無能に愛想を尽かした民衆がボリシェヴィキの味方になる。今すぐやらねばこちらが愛想を尽かされる。レーニンは何度も繰り返す。「大衆は党よりも左傾している」「待つことは犯罪である」「大胆なれ、大胆なれ、かさねて大胆なれ!(註5) 」。ぐずぐすせずに、鉄は熱いうちに打たねばならぬ(ソ連現代史)。
註4 ペトログラードの党中央委員会主流派(カーメネフ等の、蜂起そのものに反対派)に帰還を要請されたのである。委員会としては、レーニンを直接説得して考えを変えてもらおうと思ったのだが。(菊池ロシア革命史)
註5 これはフランス革命の指導者の1人ダントンの台詞である。
10月10日、スハーノフ邸でボリシェヴィキ党中央委員会が開かれた。臨時政府がまだそれなりに強力な軍隊を有している以上、蜂起は技術的に難しいという意見が吐かれたが、レーニンはドイツで革命的機運が高まっていること、国内情勢が爆発寸前であることを強調し、「武装蜂起が不可避であり、その実践的諸問題を討議すぺき」との決議案を提出した。レーニン案は10対2で通過した。しかしまだ蜂起すると決った訳ではなく、その日程にかんしては他の中央委員はトロツキーに賛同する態度を見せた。『ロシア革命史』のトロツキーにいわせると、レーニンは何事かを計画するにあたって、自分の敵もまた自分と同じ頭脳と決意を持っていると考えていた。今すぐ蜂起せねば……という今のレーニンの決意は、七月事件において「時期尚早である」と判断したのと同じ発想であった。
それに、ロシアの厳しい冬が近付きつつあった。あるブルジョアが語った(世界をゆるがした十日間)。「冬はいつもロシアの最良の友だった。多分、それは今度は我々から革命をとりのけてくれるだろう」。ブルジョアジーにとっては、ボリシェヴィキの統治よりもドイツ軍に占領される方がマシなのであった(前掲書)。ケレンスキーに言わせればレーニンは、ドイツが英仏伊米軍の攻撃の前に崩壊してしまう前に政権を奪取しようとしていたのであった。これは一刻も早いロシアとの単独講和を望むドイツ参謀本部の思惑と一致するというのである。ケレンスキーは、ドイツの同盟国ブルガリアとオスマン帝国が11月15日をもってロシア臨時政府と講和(ドイツと手を切ること)を結ぶつもりでいたこと、オーストリアもドイツの意向と無関係の講和の打診を寄越してきていたことを述べ、ドイツがそれを妨害するにはレーニンに政権を奪取させてドイツに都合のいい形での講和を結ぶ他になかったという状況を強調している。(註6)
註6 つまり十月革命においてもレーニンがドイツの援助を受けていたと言いたいのである。しかしここでケレンスキーがあげているのは状況証拠だけである。