マルカム3世は、即位の翌1059年、スコットランド北端の沖合に位置するオークニー諸島の領主の未亡人イーンガボーグと結婚した。彼女はノルウェー王の血を引いており、そもそも当時のスコットランド北部はヴァイキングの侵入以来(スコットランドを襲ったヴァイキングの古巣である)ノルウェーの影響下にあったため。新しいスコットランド王となったマルカム3世は、ノルウェー王の血縁であるイーンガボーグとの結婚によって自国の北辺の安定をはかろうとしたのである。(これより約40年後の1098年、ノルウェー王マグヌス裸足王は遠征軍を率いてオークニー諸島・シェトランド諸島・アングルシ島、さらにマン島まで攻略、これらの地域をその支配下におさめた。特にオークニー諸島とシェトランド諸島はその後15世紀までノルウェー領であった。1472年、スコットランド王ジェームズ3世と、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの王クリスティアン1世の王女マーガレットとの結婚の際、これらの島々はマーガレットの持参金の担保とされることになった。結局その持参金はほとんど支払われなかったため。スコットランド議会はオークニーとシェトランドの併合を宣言、それ以降正式のスコットランド領として今日に至っている)
1065年、王妃イーンガボーグは3人の男子を残して他界、マルカム3世は新しい王妃を探すことになった。ところがその翌1066年、南のイングランドにて全ブリテン島を揺るがす歴史的大事件が起こった。ノルマン・コンクェストである。
ノルマンディー公ウィリアムによるノルマン・コンクェストはすなわちそれまでのサクソン王家によるイングランド支配の終わりを意味した。最後のサクソン王ハロルド2世の後継予定者エドガー・アシリングとその妹マーガレットは母の実家ハンガリーへの亡命をはかったが、その途中海路で遭遇した大暴風雨のためスコットランドの東岸に打ち上げられてしまった。
王妃を失ったばかりのスコットランド王マルカム3世は、マーガレットの美貌とその由緒正しいサクソン王家の血筋を評価し、1067年ダンファームリン・アベイにて結婚式を挙げ、マーガレットを2度目の王妃とした。
豊かな教養を持つマーガレットは、宮廷内の様々な様式をイングランド式に改め。さらには教会の行事や典礼をこれも伝統的なケルト式からローマ式へと改革し、これらの活動によって、後には聖マーガレットと仰がれる様になった。
1093年、それまで35年に渡りスコットランドを支配してきたマルカム3世が死亡、その数日後には王妃マーガレットも亡くなり、王位はマルカム3世の弟ドナルド3世が引き継ぐことになった。
兄のマルカム3世が幼少時をイングランドですごし、王妃マーガレットの影響もあって、諸事にイングランド風を好んだのに対し、北国のヘブリディーズ諸島で育ったドナルド3世ははるかに野性的、かつ徹底的なイングランド嫌いであった。
彼は、スコットランドがイングランド風に堕落することになった最大の元凶は兄の后マーガレットにあると考え、王家の居城エディンバラ城内に安置されている彼女の遺体を奪い、これに侮辱をあたえて晒しものにしようとたくらんだ。
しかし、これあるを予測したマーガレットの側近たちは、すばやく王妃の遺体を別の城に移し、なんとか危難を逃れることが出来た。
翌1094年、それまでイングランドの宮廷で人質として暮らしていた ダンカン王子(マルカム3世の子)が挙兵、イングランドの全面的な援助を受けて北上、彼からみれば叔父にあたるドナルド3世の軍を打ち破ってその政権を覆した。
こうして即位したダンカン2世は、当然ながらイングランドのひも付きであった。誇り高いスコットランドの貴族たちは、イングランドとそれに臣従を誓うダンカン2世に強い反感を抱いた。この空気を察した前王ドナルド3世は王位回復の兵を挙げてダンカン2世を殺し、半年ぶりにスコットランド王に返り咲いた。
しかし、今度のドナルド政権も長くは続かない。ダンカン2世の異母弟エドガーが今回もイングランドの兵を借りて北上、ドナルド3世を捕らえてその両目をくり抜き、スコットランドの宮廷から永久に追放した。 新国王エドガーは、国王即位時の恩人であるイングランド王ウィリアム2世や、王国の北辺を侵すノルウェー王マグヌス裸足王に対しひたすら軟弱外交を展開し、スコットランド王家歴代の墓地のあるアイオナ地方をノルウェーに奪われるという失態をおかした。彼は後世の年代記作家から「平和愛好者」の綽名を頂戴したが、これはもちろん皮肉を込めた物言いである。
未婚で死んだエドガーの跡を継いだ弟アレグザンダー1世は、兄王の親イングランド政策をそのまま引き継いだ。彼は妹のマチルダをイングランド王ヘンリ1世に嫁がせ、さらにそのヘンリ1世の庶子シビルを自分の后に迎えた。つまりスコットランド王アレグザンダー1世とイングランド王ヘンリ1世は、義理の兄弟にして義理の親子という世にも奇怪な関係となったのだった。
このアレグザンダー1世も兄と同じく子がおらず、1124年に亡くなった彼の跡を継いだのがその末弟ディヴィッド1世である。
ディヴィッドは先進国イングランドから多くの優秀な人材を招いて自らの補佐役とし、歳入長官・国璽尚書・最高司令長官を中心とする中央行政機関の確立につとめた。
1136年にはイングランドの内乱に乗じて兵をすすめ、北イングランドのカーライル、ミドランズ、ノーサンブリアの各伯爵領をその手におさめた。この時ディヴィッドはカーライルにあったイングランドの貨幣鋳造所を接収し、スコットランド初の自前の貨幣を発行した。また彼は各地に自由都市を建設して経済の振興をはかり、一方では教会を保護して民衆の教化に尽力した。この様な精力的な活動によって、スコットランドは彼の代にはじめて国家としての規模と体裁を整えるに至ったのである。(というのは極めて今風の表現であり、当時の「国家」と現代的な意味での「国家」とは全く異なることに注意 、って書いてる本人もわかっちゃいねーよ)
1153年にディヴィッド1世が死去し、孫のマルカム4世が11歳で即位した(少年王)。それまでディヴィッドに押さえつけられていた北部の豪族たちが反乱を起こし、さらに翌54年にイングランド王となった強豪ヘンリ2世に、祖父ディヴィッドが獲得していた北イングランドの領地を奪いかえされてしまった。
しかしヘンリ2世の主たる関心は北のスコットランドよりも東のフランスにあり、成人したマルカム4世はイングランドとの平和を保ちつつ国内の反乱を鎮めることに成功した。
1165年、マルカム4世は未婚のまま亡くなり、弟のウィリアム1世(獅子王)が跡を継いだ。彼は兄が失った北イングランドの支配権回復を目指し、フランス王ルイ7世等と結んでヘンリ2世に戦いを挑むことにした。しかし74年に北イングランドに攻め入ったスコットランド軍はアニクの戦いで大敗し、ウィリアム1世本人も捕えられて屈辱的な講和を飲まされた。
スコットランド王はイングランド王に対する完全な臣従を誓い、エディンバラ・ロクスバラ等の城にはイングランド軍が駐留して、その経費はスコットランドが負担することになった。
この屈従はその後15年に渡って続いたが、待望の完全独立は1189年になって唐突に、しかも何の努力もなしにやってきた。
この年イングランドの王位を継承したリチャード1世は聖地回復の十字軍に熱意を燃やし、そのための軍資金源の1つとして、スコットランドに関する諸権利を売り払うことにした。
同年12月、ウィリアム1世(獅子王)は金塊1万マルクを払って独立を回復し、軍資金を手にしたリチャード1世(獅子心王)の方は十字軍を率いて旅立ってしまった。(リチャード1世は戦に強かったので獅子心王とよばれたが、ウィリアム1世の方はその紋章にライオンを用いたことから獅子王の呼び名がついた)
そのリチャードの死後、ウィリアムは再びフランスと結んで北イングランドへの進出をはかったが、1209年にはイングランド王ジョンの侵攻を受け、やむなく1万5000マルクの金を払って戦を回避した。
1214年、ウィリアム1世は71歳の高齢で亡くなり、かわって彼が50歳すぎでつくった息子アレグザンダー2世が即位した。彼はイングランド王ヘンリ3世の妹を娶り、1237年のヨーク条約にて両国の国境線を確定した。しかし彼は北方を侵すノルウェーとの戦いを準備中に病死し、当時8歳の王子アレグザンダー3世が跡を継いだ。
1255年、15歳になったアレグザンダーは摂政を追放して親政に乗り出した。彼はイングランドの内乱に対し中立を保って国力を蓄え、父王が果たせなかったノルウェーとの戦いに本腰をいれることにした。
スコットランド軍は1261年にヘブリディーズ諸島を占領、翌々年にはスコットランド西部のラーグズにてノルウェー王ホーコン4世率いる遠征軍を迎え撃った。ノルウェー軍は奇襲作戦をたて、闇夜に紛れて敵陣近くに忍び寄ったが、雑兵の1人がアザミの棘を踏んで大声をあげてしまい、飛び起きたスコットランド軍の返り討ちにあって壊滅してしまった。 こうして内外にその武名を轟かしたアレグザンダー3世であったが、その家庭は不幸の連続であった。75年に王妃を失い、81年には幼い次男が、83年には長女が亡くなった。その翌年には長男が子供も残さず死去し、アレグザンダー一家の男子直系がとだえてしまった。
あせったアレグザンダーは、新たな王子をこさえるべくフランスの大諸侯ドリュー伯の娘ヨランドと再婚した。当時43歳のアレグザンダーは年若い王妃に夢中になった。しかし彼は86年3月の嵐の夜、いつも政務をとっているエディンバラの城から王妃のいるキングホーンの離宮に帰る途中に落馬し、そのまま帰らぬ人となった。結局子供は出来なかった。