アレグザンダーの長女マーガレットは、かつての仇敵ノルウェーとの友好の橋渡しとしてノルウェー王のもとに嫁いでいたが、83年に亡くなった彼女は幼い娘マーガレット(これに限らず親子同じ名前というのはまぎらわしいものです)をのこしていた。この「ノルウェーの乙女」はまだたったの3歳であったが、スコットランド王国の長老たちは協議の結果彼女の国王擁立を決定し、ここにスコットランド初の女王が誕生した(マーガレット本人はノルウェーにいる)。
幼王の即位を一番喜んだのがイングランドのエドワード1世である。エドワードは自分の息子エドワード(2世。当時4歳)とマーガレットの結婚話を持ち出してきた。1290年、幼い2人の婚約を取り決めるバーガム条約が締結され、スコットランド王国の独立と自由が確認されるとともに、もしマーガレットが跡継ぎなしで死んだ場合には、彼女の最も近親の者の手にスコットランドの王位が委ねられること等が定められた。もちろんこの話の裏にはエドワード1世のスコットランド併合の野心が隠れていたが、スコットランドの方では隣国との平和を確立する2人の婚約を素直に喜んだようである。
ところが、肝心のマーガレット本人はノルウェーにいたままであった。この年9月にやっとノルウェーを出帆したマーガレットの船は途中大時化に遭遇し、オークニー諸島の近くにたどり着いた所で7歳の女王が死亡するという最悪の航海になってしまった。
こうしてスコットランド王家の直系は途絶え、次の王位を主張する傍系の貴族が13人も並び立つという異常事態が出来した。
1291年、イングランド国王エドワード1世は両国の国境近くの町ノーラムに出御し、スコットランドの王位争いの調停に乗り出した。
圧倒的な武力を背景に持つエドワードはスコットランドの王位継承候補者それぞれに(イングランドに対する) 臣従を約束させ、8月にベリクにて次期スコットランド国王を選ぶ法廷を開くことにした。
この法廷「大訴訟」は18ヶ月の長きに及んだが、結局はエドワードの息のかかったジョン・ベイリアルが即位し、スコットランドはイングランドに対して屈辱的な臣従を強いられることになった。
新国王ジョン・ベイリアルは、その後しばらくの間は宗主エドワード1世の持ち出す種々の要求に従っていたが、1294年にエドワードが対仏戦争のための徴兵をスコットランドに要求してきた際、これをきっぱりと断り、フランスと結んで(これを「古い同盟」と呼ぶ)イングランドへの臣従を取り消すことにした。
1296年、スコットランド軍は国境を越えて北イングランドに侵攻、これを受けた(待っていた)イングランド王エドワード1世も軍勢を動かし、同年4月のダンバーの戦いにてスコットランド軍を大破した。
敗北のスコットランド王ジョン・ベイリアルはその後3ヶ月の間北部峡谷地帯を逃げ回ったが、7月にイングランド軍に降伏し、自分の王国と王権とを放棄した。
8月、ジョン・ベイリアルはロンドンに送られ、スコットランド王の戴冠の座「スクーンの石」も奪い去られた。スコットランドの王位は空位となり、エドワード1世はこの地域に総督ジョン・ド・ワーレンを置いて統治させることにした。こうしてスコットランドはイングランド王国の一地域にすぎない存在となり、その町という町にイングランドの進駐軍が溢れかえったのである。
もちろんスコットランドにも愛国者はいる。1297年5月、ラナーク州でイングランド人の州長官が殺され、その犯人ウィリアム・ウォリスを中心とする対イングランドの大反乱が勃発した。反乱軍は同年9月にはスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を破り、さらに北イングランドのカンバーランド、ノーサンバーランド等に侵入、その指導者ウィリアム・ウォリスはスコットランド王国の摂政を名乗るまでになった。貴族階級ではなく庶民や中間層の支持を得て戦ったウィリアム・ウォリスは「スコットランドのオリヴァー・クロムウェル」と呼ばれている。
イングランド王エドワード1世はこの時フランスとの戦いのためフランドルに滞在中であったが、翌98年1月にフランス王フィリップ4世と休戦して急遽帰国し、自ら大軍を率いて北上、同年7月のフォルカークの戦いにて反乱軍を破った。指導者ウィリアム・ウォリスはこの後7年に渡ってゲリラ戦を続けた末にイングランド軍の手に落ち、見せしめとして生きたまま八つ裂きの刑に処されたのだった。
対イングランドの反乱者はウィリアム・ウォリスだけではなかったが、各反乱軍の首領たちは横の結束を欠き、互いに争ってばかりいた。女王マーガレット死去の際の王位争いに名乗り出た貴族の1人の孫ロバート・ブルースは、ウィリアム・ウォリスが(祖父と王位を争った)ジョン・ベイリアル王の名を掲げていたことからこれに協力せず、それどころか別の反乱軍の首領ジョン・カミンを教会で刺し殺したかどで(聖所で人殺しをするという大罪によって)教皇クレメンス5世に破門されるという酷い有り様であった。
それでも自前の戴冠式を行ってスコットランド国王を名乗ったロバート・ブルースであったが、たちまちイングランド軍の討伐をうけてその軍勢は四散、ロバート自身もノルウェーまで逃亡する羽目になった。
しかし、各地に潜伏したロバートの部下たちはその後もゲリラ戦を続け、1307年の5月にはイングランド軍に対する最初の大勝利を勝ち取った。
再びエドワード1世直々の出陣である。しかしエドワードはスコットランドへの進軍途中で病に倒れ、カーライルの近くで亡くなってしまった。 スコットランドの征服もウィリアム・ウォリスの討伐も、英王エドワード1世の軍事的天才あればこその大事業である。彼の後継者エドワード2世は政治・軍事のあらゆる才能を欠き、その家臣たちも2派に別れて争い出した。
ボンクラな新王を戴くイングランドのスコットランド駐留部隊はロバート軍のゲリラ戦により次々と撃破され、1313年の秋には、スコットランド国内でイングランド軍が維持する拠点はスターリングの城のみとなった。
14年6月、スターリング城からの援軍要請をうけたエドワード2世は自ら2万の大軍を率いて出陣、24日にはスターリング城から1日の地点に到達した。
しかし、イングランド軍の野営地は沼と河川の入組む悪地であり、自軍の3分の1にも満たないロバート軍の急襲にあって壊滅、イングランドによるスコットランド支配はここにきて完全に崩壊した。1323年には教皇ヨハネス22世がロバートに対する破門を解き、スコットランド王国の復活とその国王ロバート1世の地位が国際的に承認されることになった。
1327年、イングランドで暗愚な国王エドワード2世が廃され、かわってその子エドワード3世が即位した。しかし彼はまだ14歳にすぎず、勢いにのるロバート軍が北イングランドに侵入、各地でイングランド軍を撃破した。
エドワード3世の母イザベル(当時イングランド王国の実権を握っていた)とその愛人マーチ伯はやむなくロバートのスコットランド王位とその完全独立を認め、ロバートの長男ディヴィッド(4歳)とエドワード3世の妹ジョアン(7歳)とを結婚させて両国間の平和を回復することにした。
1328年7月、幼い2人はベリクで結婚式を挙行し、数十年の長きに渡ったスコットランドとイングランドの戦いが(一時)終結した。
しかし、独立戦争の英雄ロバート1世は結婚式の翌年に亡くなり、何も知らない新郎ディヴィッド2世がわずか5歳で即位することになった。
せっかく独立を勝ち取ったのに、スコットランドの貴族たちはまとまるということを知らず、しかも勝つためには後先のことを考えない。1332年8月、かつての国王ジョン・ベイリアルの息子エドワード・ベイリアルが(反ディヴィッド2世の)反乱を起こしたが、彼はこともあろうにイングランド軍の援助を受けていた。
そのイングランドでは成人したエドワード3世が母とその寵臣を退け、1330年から親政に乗り出していた。祖父エドワード1世の再来との期待高まる彼エドワード3世は幼いディヴィッド2世の手にあまる強敵であった。
32年8月、エドワード3世とエドワード・ベイリアルの連合軍がダップリンの戦いでスコットランド国王軍を破り、翌33年9月にスクーンにてエドワード・ベイリアルの戴冠式を強行した。スコットランド南部の諸州はイングランドに割譲され、正統国王ディヴィッド2世はフランスに亡命した。
1337年、英仏百年戦争が勃発、フランス王フィリップ6世は敵国イングランドの背後に位置するスコットランドに注目し、ノルマンディーのとある城(昔のイングランド王リチャード1世の造ったシャトー・ガイヤール)に仮住まいするディヴィッド2世の復権を支持して自分の同盟者に仕立て上げようと考えた。
こうして41年にディヴィッドの帰国が実現し、フランスの援軍を受けた彼は僭称者エドワード・ベイリアルをイングランドに追い払った。 もっとも、弱輩者のディヴィッドはこの後北イングランドへの侵攻をはかってネヴィルズ・クロスの戦い(1346年)に大敗、イングランド軍の虜となってしまい、国王不在のスコットランドでは有力貴族(ディヴィッド2世の姉の子)ロバート・スチュアートが摂政として国政を取り仕切ることになった。
ロンドン塔に囚われの身となったディヴィッド2世だが、宿敵エドワード3世はこの高貴な捕虜を極めて丁重に扱った。ディヴィッドは、ド田舎スコットランド(失礼!)では到底望めない贅沢の味をおぼえ、すっかり腑抜けになってしまった。(僭称者エドワード・ベイリアルの方はエドワード3世に見捨てられ、その後いつ死んだかもさだかでない)
1352年、エドワード3世は、ディヴィッド2世の釈放に必要な身代金の支払いの代わりにそのスコットランド王位継承権をエドワード3世もしくはその跡継ぎに譲る、という条件でディヴィッドの帰国を許した。
当然スコットランド議会(13世紀後半頃に国王裁判所兼諮問機関として形成された)はこの話に怒り、ディヴィッドはロンドン塔に舞い戻る羽目になった(それでもディヴィッドの廃位という話はでなかった)。両国間の交渉はその後も続いたが、1357年になってやっと、10万マルクの身代金支払い(10年分割払い)と引き換えのディヴィッドの正式帰国が実現した。
こうして11年ぶりに自由を手にしたディヴィッドであったが、彼はロンドンでの怠惰な生活を懐かしがり、63年にイングランドに戻って再び昔の約束(身代金の支払いの代わりにスコットランドの王位継承権をエドワード3世かその跡継ぎに譲る)を確かめてしまった。
今回もスコットランド議会の反発を喰らったが、それでも摂政ロバート・スチュアートは国王廃位の実力行使に出ることもなく、強国イングランドにおとなしく身代金の支払いを続けて王国の存続をはかることにしたのだった(支払いをやめて王位継承権を引き渡すよりも、とにかく金だけ払ってスコットランド固有の王統を守ろうとした のである)。相次ぐ侵略と内乱、身代金支払いのための重税、さらにペストの流行が追い討ちをかけ、スコットランドの疲弊はその極に達していた。