ハプスブルク家とスイス盟約者団 中編その3

   「中立」のはじまり   目次に戻る

 マリニャーノの戦いの翌年(1516年)、スイスとフランスは「永久平和」を締結、スイス軍はミラノから撤収した。ただしフランスは非常に寛大で、事前にスイスがミラノ公国から奪っていた地域の大半の支配権をそのまま認めてくれた。それまでのスイス領の大半は言語的にはドイツ語圏に含まれていたのだが、この時からイタリア語圏を抱え込むことになった。さらにフランスはスイスの各邦に毎年2000フランをやるからそのかわりにフランスの敵国とは傭兵契約をしないでくれと言ってきた。これ以降フランスはスイス傭兵の最大のお得意先となり、18世紀末までの300年近くの間に総計50万人ものスイス人がフランス国王のために命を落としたといわれている。フランス革命の時、国王ルイ16世を守るために最後まで奮戦したのはスイス傭兵である。(もちろんフランス以外の国と契約しなくなった訳では決してない)

 まぁそんな先の話はいいとして……、フランスとの「永久平和」を締結した後、スイス軍が領土の拡大を目指して他国に攻め込むことは殆ど無くなった。現在ではスイスといえば「中立国」の代名詞だが、その伝統はこの時から始ったのである。スイスは「中立」という立場を採用したが故にどこの国にでも傭兵を提供出来たし、各国はスイスの中立を認めることによって精強なスイス傭兵を確保出来たのであった。

   ランツクネヒト   目次に戻る

 しかし、15世紀末以降のヨーロッパの傭兵業界においては、スイス傭兵よりも南ドイツ出身の傭兵、いわゆる「ランツクネヒト」のシェアが拡大していた。南ドイツという地域は地味が肥えていたことから農民たちは伝統的に分割相続を繰り返していたが、そのうちに零細農民ばかりになって、農家の次男三男は分割してもらう土地がないという状況を呈するに至っていた。

 そして、農村から流れ出した無宿人たちは「ランツクネヒト」となって外国の軍隊に雇われていった。彼らは最初はスイス傭兵の真似をすることから始め、そのうしろに隠れるようにしていたが、やがてはスイス傭兵に激しい敵愾心を燃やすまでに成長した。スイス傭兵が基本的には邦政府の運営する国家事業であったのに対してランツクネヒトは主に没落貴族出身の傭兵隊長によって切り回される私企業という違いがあり、前者の最大の雇用者がフランス国王であったのに対して後者はハプスブルク家に用いられた。

 そのハプスブルク家では1519年に皇帝マクシミリアンが亡くなり、次のローマ王(皇帝)を選ぶ選挙は彼の孫のカールと、フランス国王フランソワ1世によって争われることになった(帝国諸侯でなくても皇帝になれたのか?)。この選挙では物凄い量の札束(?)が舞ったが、結局は南ドイツの豪商フッガー家やヴェルザー家の融資を引き出したカール……純金2トンに相当する選挙資金を使ったという……が勝利した。こうして即位したのが「カール5世」である。カールはこの時まだ19歳だったが、実は皇帝に選ばれるより前に母方を通じてスペイン王家を相続していた。この時代のスペインは南イタリアに権益を持っていたため、フランスのイタリア侵略に対抗するためにハプスブルク家と縁組みしたのがそういう結果を生んだのである(註1)。しかもスペインは(当時はいわゆる「大航海時代」の真っ盛りであったから)中南米に広大な植民地を有していたから、カールはちょっと考えられないような大帝国の主になってしまったのであった。

註1 故マクシミリアンの長男フィリップがスペイン王女ファナと、長女マルガレーテがスペイン王太子ファンと結婚するという二重婚姻であった(マクシミリアンの子供はこの2人だけ)。フィリップは28歳で亡くなるが、それでもファナとの間に6人の子供をこしらえていたのに対し、ファンの方はマルガレーテに最初の子供を妊娠させたすぐ後に病死、その子も死産してしまった。さらにスペイン側の王族が相次いで亡くなったため、1516年をもってフィリップの長男カールがスペイン王位を継承することとなったのである。ちなみにマルガレーテはカールのローマ王選挙の時にこれを助けるために尽力し、おかげでカールに強く尊敬されるようになったという。


 そしてカール5世は、イタリアからフランス軍を追い払うべく遠征軍を派遣した。フランス側も、東(神聖ローマ帝国)と南(スペイン)をハプスブルク家に占められたことに大変な恐怖感を抱き、この状況を打破せんとしてハプスブルク家に対する攻撃を執拗に繰り返すことになる。

   パヴィアの戦いとローマ劫略   目次に戻る

 1525年2月25日、北イタリアにおいてハプスブルク軍(主力はランツクネヒト)とフランス軍(主力はスイス傭兵)が激突する「パヴィアの戦い」が発生した。この戦いでは最初はフランス軍が砲戦で優位に立っていたのだが、大将のフランソワ1世が突如として単騎で敵陣へと走り出し、これにつられてフランス重装騎兵とスイス傭兵(パイク密集方陣)も動き出したため、砲兵隊は(霧もあったので)同士討ちを避けるために射撃を中止せざるを得なくなった。これに対してハプスブルク軍のランツクネヒトは1500挺の小銃(註2)を並べて猛撃を加え、フランス軍は戦死者6000名という惨憺たる大敗を喫してしまった。これ以前の小銃隊はパイク隊の側面を援護するものであったのだが、この戦い以降はむしろパイク隊が小銃隊の援護に用いられるようになった。(17世紀の後半になると「銃剣」が発明されて小銃手でも自力で白兵戦が行えるようになり、パイクはその役割を終えたのであった)

註2 ブルゴーニュ戦争の頃に使われていた小銃は銃身の側面にある穴に火のついた棒(もしくは火縄)を突っ込むことで銃身内の火薬に点火、弾を発射するというものであったが、15世紀の末頃になると、銃身側面の穴と連結した「火皿」に火薬を盛って、そこに引き金を引くことで作動する「火ばさみ(火縄が挟んである)」をパチンと倒すことによって発射するタイプ(いわゆる火縄銃)が開発された。


 この戦いで捕虜となったフランス国王フランソワ1世は「マドリード条約」で領地の割譲を約束させられたが、釈放されて国に帰るや「強制された条約は批准するに及ばず」として条約破棄を宣言した。これをローマ教皇が支持した。教皇……以前はフランスと戦ったこともあったが……はあまりにも強大になったハプスブルク家に恐怖し、どんな手段を用いてでもカール5世の力を削ぎたいと考えたのである。怒ったカール5世は大軍を発してローマを攻略した。その主力は今回もランツクネヒトであった(スペイン兵も多くいた)が、彼らは給料の支払いが滞っていたことから(その埋め合わせに)ローマ市を無茶苦茶に劫略した。

 この時、ローマ教皇クレメンス7世を守るため、189名のスイス傭兵が奮戦、そのうち147名が戦死した。ローマのバチカン市国では現在でも約100名のスイス人を警備隊として用いているが、彼らはミケランジェロがデザインしたといわれる制服を身につけ、近代兵器だけでなく槍や斧を扱う訓練も受けているという(註3)。それはともかく、フランスはローマ劫略の時は何故か何もしなかったのだが、28年になってようやくイタリアへと出陣した。しかしフランス軍は同盟国ジェノヴァ(イタリア北西部にあった共和国)の裏切りや疫病の流行によって撤収、29年8月にカール5世と「カンブレー条約」を結んで一旦イタリアから撤収した。

註3 スイス連邦政府は1927年をもって自国民の外国軍勤務を禁止し、以降はバチカンのみが例外となっている。


 1530年、ドイツのアウグスブルクで開催された帝国議会において、カール5世の弟フェルディナントがローマ王に選出された。フェルディナントは去る22年にハプスブルク家の領地のうちオーストリアとその周辺を譲られ、その方面を脅かしているオスマン・トルコ帝国(フランスと結んでいた)との戦いを任されていた。従ってカール5世としてはフェルディナントに「ローマ王」という権威を与えることによってその戦いをバックアップする必要があったし、帝国諸侯からみればフェルディナントはカールよりは小物だったのでローマ王にしてやっても問題ないと思ったのである。ただ、フェルディナントがローマ王になったということはつまりカールが死んだ後(もしくは引退後)は彼が皇帝になるということなのだが、カールはその際には自分の長男フィリップをローマ王に選出してくれと帝国諸侯に要求した。しかしこの話が実現した場合フィリップの権勢が極めて強大になってしまうため、諸侯はカールの要求を却下、兄に蔑ろにされたと感じたフェルディナントも気分を害してしまった。

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