ハプスブルク家とスイス盟約者団 後編その1
ツヴィングリの宗教改革 目次に戻る
ここで話を10年ほど戻す……。スイスとフランスの「永久平和」は21年にはより強固な「永久同盟」へと発展した。フランスはスイス各邦に毎年3000フランを支払い、それと引き換えに6000〜1万6000名の傭兵を募集する権利を得た。ところが、盟約者団の正式メンバー13邦のうち、チューリヒだけはこの同盟に参加しなかった。そのチューリヒにおいて、特に強く傭兵業反対の論陣を張ったのがフルドリッヒ・ツヴィングリという神学者である。彼は「祖国と自由のための戦争」と「傭兵として行う戦争」を区別し、前者は神も認められるものであるが、後者は法と正義を抑圧する悲惨で退廃的なものであり神の怒りを招くことになると主張した。「諸侯の金に目が眩むと、その結果は、われわれ自身の肉と血の損失を考えずに、ただ国外の諸侯に奉仕することになる」。
ツヴィングリは1484年にチューリヒの東のヴィルトハウスという村に生まれて1506年にバーゼル大学で修士号を取得、その後10年間をグラールスの司祭として過ごして、ミラノ戦争に従軍司祭として参加した。彼が聖職者になったのは安定した生活を得ることで余暇に文学の研究をしたかったからであったというが、イタリアでマリニャーノの大敗に居合わせたりしたことから真剣に世の矛盾について考えるようになる。それから3年間はアインジーデルン修道院で働き、チューリヒに移ったのは1518年の末であった。
そしてツヴィングリは1519年の1月以降、聖書を根拠にして「四旬節における肉食禁止の廃棄」「聖職者の結婚禁止の解除」「修道院制度の廃止」等を唱え、さらにローマ・カトリックの教会制度を攻撃し始めた。つまり「宗教改革」を開始したのである。ドイツのマルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表した1517年から遅れること1年と少しである。ツヴィングリ自身は自分がこの運動を始めた時点ではルターのことは知らなかったと述べているが、実際には何らかの影響があったと考えられている。この2人の改革思想は、聖職者と平信徒の間には本質的な差異はないとしてローマ教会の権威を否定する「万人司祭説」、人間はローマ教会が説くような善行によらなくてもただ信仰によってのみ神の前で正しいとされるという「信仰のみ」、ローマ教会が聖書とともに教会の伝承も権威を持つ(例えばローマ教会の伝承では初代教皇のペテロはイエス・キリストから「天国の鍵」を預かったことになっている)と主張していたのに対して聖書のみが究極的な権威であるという「聖書のみ」、といった教説で共通している。ただ、「信仰のみ」という発想に従うならばキリスト教徒以外の人には救いがないということになる(ルターはそう考えた)のだが、ツヴィングリは異教徒であっても優れた人物であるならば救われる(救われることが永遠の昔から予定されていた)と考える等の差異があった。
聖職者の経済的道徳的退廃といった当時のヨーロッパの各地で問題視されていた事柄に加え、スイスにおいては「民衆に浄福への道を教えるべきはずの」ローマ教皇が金で集めた傭兵を使って戦争していることへの疑問が燻っていた。ツヴィングリが前述の傭兵反対論をぶったのはこの文脈の上に立つ行動だが、チューリヒが永久同盟(フランスとの傭兵契約)に参加しなかったのはツヴィングリ1人の弁論のおかげという訳ではなく、チューリヒという邦がもともと他邦より富裕であったからそれほど傭兵業に依存しなくてもすんだことや、それにも関わらずここしばらくのイタリア方面での連戦で働き手をとられていた(例えば「マリニャーノの戦い」ではチューリヒ派出の兵員だけで約1000名が戦死した)こと、そういう状況に苦痛を感じていた農村やツンフト(手工業組合)の声を邦政府が「諮問」という形で取り入れたからでもあった。ここでいう邦政府というのは正確にはチューリヒ市の「市参事会」のことで、チューリヒ市のみならずその周辺地域まで含めた邦全体を支配していた。「諮問」というのは15世紀中葉以降の都市邦においてみられた支配当局と住民との政治的応答の一形式で、前者が重要政治問題に関する意見を後者から聴取するというものであり、「住民投票の起源」ともいわれている。(ただし、個々の住民の意見を聴くのではなくツンフトや農村の単位で聴取していたし、重要な問題があったからといって必ず諮問しなければならない訳でもなかった)
1523年1月29日、チューリヒ市参事会は邦内の聖職者400名と市の有力者200名を市参事会館に集めてツヴィングリの教説に関する公開討論会を開催した。聖職者だけでなく市の有力者という俗人まで集めたのはツヴィングリの唱える「万人司祭説」に対応する動きである。ローマ・カトリック教会サイドからはドイツ南部のコンスタンツの司教代理が出席したが、彼は具体的な意見を口にすることを避けたうえに失言を繰り返した。参事会はツヴィングリの勝利を宣言した。討論会はその後も2度に渡って開催され、「カトリック儀式の廃止」「聖職者の結婚の許可」「修道院の接収」等々の改革案が通過した。
再洗礼派 目次に戻る
ただ、それらの決定をただちに実施するか時間を置いて実施するかが問題となった。ツヴィングリは混乱を避けるためには後者が望ましいとしたのだが、弟子のコンラート・グレーベルやフェリックス・マンツ等が前者を主張したのである。結局この論争はツヴィングリが勝ち、チューリヒは25年までかけて順次改革を実施していった。カトリック教会に忠誠を誓う者(旧来の都市貴族層にそういう人が多かった)は追放こそされなかったものの公民権を剥奪され、相対的にツンフトの権威がアップした。また、修道院の接収によって市の経済力は格段に向上した。
チューリヒ支配下の農村部はこの機会を利用しての政治・経済改革を訴えた。ちょうどその頃ドイツの南西部において「神の前に万人は平等である」というルターの教説に力づけられた農民たちが諸侯に対する大反乱「ドイツ農民戦争」を起こしていたため、チューリヒの農村部もこれに呼応すべしという空気が広まったのである。しかし、ルターがドイツ農民戦争について「各人のおかれた社会秩序は神の意思によって与えられたものであり、それを乱すことは神への反逆である」という見解を示して諸侯に対し反乱の断固たる武力鎮圧を求めたのに対し、チューリヒの邦政府は農村部に要求書を出させてその一部を取り入れるという形で反乱を防止した。(ドイツ農民戦争は25年5月に行われた決戦で農民軍が敗れるという形で終息した)
ただ、チューリヒにおいても農民の一部は前述のグレーベル等の派と結びついて政府当局に抵抗した。グレーベル等の派は「再洗礼派」と呼ばれている。どういう意味かというと……、普通キリスト教徒は子供が幼児のうちに洗礼を施すのだが、この派は成人後の自覚に基づく洗礼を主張したからである。また、彼らは暴力によらない社会変革を訴え、ドイツの農民のような反乱は起こさなかった。
さらに、ツヴィングリが国家(邦)権力と協力することによって宗教改革を実現する考えでいたのに対して再洗礼派は「真のキリスト者は本来いかなる統治権力も不必要だし、権力から解放されているのだ」として世俗の秩序に背を向け、政治や軍事に携わることを拒否した。ツヴィングリと邦政府は傭兵商売には反対していたが非武装非暴力を説いていた訳ではないため、国家(邦)の基盤を危うくしかねない再洗礼派を厳しく弾圧、グレーベル等を逮捕・処刑した。(しかしこの派はその後もスイス、ドイツ、ネーデルランドの各地に広まり、その流れをくむ教会は現在に至るも複数存続している。分派の中には暴力的なものもある)
改革運動の普及 目次に戻る
と、そんな具合に、チューリヒにおける宗教改革運動は再洗礼派を弾圧しつつ定着していったが、盟約者団の他の邦はなかなかこの動きに追随しなかった。皇帝カール5世は既に21年5月の時点からルター派の弾圧を開始していたし、スイスでも去る22年に開催された盟約者団会議で全邦における「新しい教説」が禁止され、印刷業の盛んなバーゼルとチューリヒに対し宗教改革関連書籍の印刷禁止が勧告されていた。しかしチューリヒはこの盟約者団全体の動きを無視した訳で、24年4月には本格的に怒りだしたウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツークの5邦が「新しい教説」を根絶すべきことを誓い合い、やや遅れてゾーロトゥルンとフリブールも5邦の動きに従った。
基本的に農村邦は宗教改革に反対であった。何故ならばそれらの邦の人々は都市邦とくらべて旧来の(カトリックの)しきたりに忠実であったし、経済的に発展の余地がなくて傭兵稼ぎが伝統になっていた(その点で傭兵業を否定するツヴィングリに反発した)こと、チューリヒが宗教改革を通じて強大化することへの危惧といった様々な理由があった。ルツェルンやフリブールは都市邦でありながらも宗教改革を拒んだが、それらは少数の都市貴族が政権を牛耳っており、彼らの意思でカトリック陣営にとどまることを決めたということであったらしい。
ところが27年4月、従属邦ザンクト・ガレンがツヴィングリの盟友ヨアヒム・ヴァディアンの指導により宗教改革を断行した。「ザンクト・ガレン」には本稿に何度か登場した「ザンクト・ガレン修道院」と「都市ザンクト・ガレン」の2つがあり、今回チューリヒの仲間になった後者は宗教改革を通じて前者の領域を奪い取るつもりでいた。同年5月には南ドイツの(スイスの外の)コンスタンツ市も宗教改革に乗り出し、チューリヒと「キリスト教都市同盟」を結成した。28年になるとスイス最大の都市邦であるベルンがチューリヒ市参事会が開催したのと同じような討論会を経て「宗教改革布告令」を出し、さらに続いてバーゼルとシャフハウゼンも宗教改革を掲げてキリスト教都市同盟に加入してきた。
これに対し、カトリック派の諸邦は29年4月に「キリスト教連合」を結成して対決の構えを見せた。盟約者団の正式メンバー13邦のうち、改革派は4邦、カトリック派は7邦、残り2邦(グラールスとアペンツェル)は中立であった。改革派にはさらに従属邦いくつかとドイツの帝国都市シュトラースブルクが加担し、カトリック側はハプスブルク家と同盟して「古くて正しいキリスト教信仰にとどまる」べきことを誓い合った。
第1次カペル戦争 目次に戻る
改革派とカトリック派は共同支配地の扱いをめぐって激しく論争した。本来なら共同支配地に関する案件はその地の支配に関与している各邦の代表者の多数決で決めることになっており、その原則に従うならば数の少ない改革派は不利であった。例えばトゥールガウの支配に関与している7邦のうち改革派はチューリヒだけという具合である。そのトゥールガウでは去る24年7月に改革派の農民たちが修道院を襲撃して略奪をはたらくという事件が発生したが、盟約者団会議はチューリヒ派遣の代官に責任をとらせてこれを処刑した。そこでツヴィングリは、共同支配地の住民による多数決によって帰属(その地がカトリックに属するか改革派に属するか)を決めるべきだと主張したが、28年10月の盟約者団会議によって却下された。
さらに、改革派内部の紛争もあった。ベルンでは28年1月に宗教改革の一環として邦内の「インターラーケン修道院」を廃止したのだが、その財産を都市部(ベルン市)が接収したことに不満を抱いた農村部(ベルナー・オーバーラント地方)が同年10月22日、「カトリックにとどまり、ベルンに従わない」ことを決議した。ベルン市はただちに鎮圧軍を出動させ、農村側にはカトリック邦のウンターヴァルデンから800名の軍勢が助勢に駆けつけてきた。結果は前者の勝利である。
ウンターヴァルデンの行動は1481年制定の「シュタンス協定第5条(他邦の臣従民を煽動することの禁止)」に違反する行為であった。ベルンとチューリヒはこのことをネタにしてウンターヴァルデンを共同支配地の統治から外そうとしたが、うまくいかなかった。そこでチューリヒは29年6月にカトリック側の5邦に対して宣戦を布告、5邦のひとつツークとチューリヒの国境(邦境)のカペルへと軍勢を動かした(ベルンの動きについては後述)。これが「第1次カペル戦争」である。軍事力は5邦よりもチューリヒの方が上であった。
しかしこの時は中立邦のグラールスが調停に入ったおかげで流血には至らなかった。その後に結ばれた講和条約は改革派に有利なもので、まずお互いの信仰を強制しないことを約束、カトリック側はハプスブルク家との同盟を破棄、さらに共同支配地の帰属に関するツヴィングリの案を採用することとなった。
ところが、ツヴィングリはその程度では満足しなかった。ちょうどその頃ドイツ方面においてルターの教説に従う帝国諸侯が複数出てきていたので、それらと結ぶことでカトリック邦を圧倒、チューリヒとベルンの2邦が盟約者団の他の邦に対して命令権を持てるようにしようというのである。ただ、ルター派の帝国諸侯は純粋に宗教的見地からルターの教説に従ったという訳では別になく、宗教改革を通じてのカトリック修道院の財産没収とかの世俗的な欲求で動いていた訳であるが……。まあ動機は何にせよ、ツヴィングリはとりあえずドイツ中部のルター派諸侯ヘッセン方伯とチューリヒを同盟させることに成功した。
第2次カペル戦争 目次に戻る
しかし、肝心のルターはいまいちツヴィングリを信用していなかった。ルターからみればツヴィングリは改革のためとはいえ武力を用いて世の秩序を乱す過激派(第1次カペル戦争のことを言っている)であったからである。また、ツヴィングリからみればルターのそういう態度は保守的で飽き足らないものであった。2人は29年10月にヘッセン方伯の仲介で会談し、教説について議論を交わした。ルターは聖餐式(キリストの「最後の晩餐」に由来する儀式)で用いるパンとワインの中に、それらの実体とともにキリストの身体と血が実在するとした。聖書に「これはわたしのからだである」と書かれているのをそのまま信じるという訳である。しかしツヴィングリはその文を「これはわたしのからだを意味する」と解釈し、パンとワインはあくまでもパンとワインであって、キリストの死を象徴するものなのだと唱えた。けっきょく話は物別れとなった。会談終了後ツヴィングリは握手を求めて手を差し出したが、ルターはこれに応じず背を向けて立ち去ったという。
31年秋、チューリヒは従属邦ザンクト・ガレン修道院を保護下に置くと宣言し、カトリック派を大いに刺激した。ツヴィングリはこのままカトリック派に対し武力攻撃をしかけるべしと唱えたが、チューリヒ邦政府が躊躇っているうちにカトリック派5邦の軍勢8000が不意打ちをかけてきた。「第2次カペル戦争」の勃発である。大混乱に陥ったチューリヒはどうにか1500の軍勢を繰り出して迎撃にあたったが惨敗、自ら武器を携えて従軍したツヴィングリも戦死した。その知らせを聞いたルターは何の同情も示さず、「福音の名で剣を手にしたものにたいして与えられた神の審判である」とコメントしたという。
11月には講和条約が成立した。盟約者団の正式メンバーと従属邦については信仰の自由が認められた。しかし、共同支配地で既に改革派になっている地域がカトリックに戻ることについては認められたが、その逆は駄目とされた。それから、「信仰の自由」とはいっても、どちらの宗旨を選択するかを決めるのは各邦の政府であって、個々人の信教の自由が認められた訳では決してない(邦政府の選択に不満な人は他の邦へと移住した)。また、改革派のキリスト教都市同盟は解散となり、チューリヒと結んでいたドイツの改革派帝国都市はルター派に取り込まれていった。それから……、スイスの改革派はやがて傭兵業を再開することになる。