註1 アラビア語で「権力」「支配」を意味する。オスマン帝国の軍事・行政・財政・司法全てのの実権を伴う公的な世襲の称号。本稿では単純に「オスマン帝国の皇帝」と考えても大して問題ないと思います。
註2 帝国の支配的言語たるトルコ語を母語とする「トルコ人」だけではなく、その他の諸民族全部をひっくるめて「オスマン人」。
94年、着実な拡大を続ける「オスマンの統一」は国外の活動家を統合してその名を「統一と進歩委員会」と改めた。96年に帝国政府の大弾圧を受けてその活動主体をパリに移したこの組織は、海外では「青年トルコ党」の名で知られ、各国に支部を創設して活動を広めていった。その一方で、90年から「オスマンの統一」に属していた郵便局員メフメット・タラートは、弾圧の際に地方に左遷されたが、そちらにて(「統一と進歩委員会」とは別個に)「オスマン自由委員会」なる組織を結成した。タラートはどういう伝手があったのかサロニカ(テッサロニキ)やマナストゥルに駐留する第3軍団の士官たちにまで触手を広め、急速に党勢を拡大していった。その中に本稿の主人公の1人、イスマイル・エンヴェルの名があった。
エンヴェルは1881年11月22日、黒海沿岸の町アダノに6人兄弟の長男として誕生した。後に大臣にまで登り詰める人物にしては氏素性が明確でなく、父アフメトは下級役人とも橋の番人とも宮廷のお抱え大工ともいわれ、母アイシュは一説によるとアルバニア人の屍体埋葬人の娘であったという。(註3)大して富裕でないにもかかわらず長じてイスタンブール(帝国の首都)の士官学校に進学し、21歳の時 高級参謀課程を次席で卒業した。その後3年間をマケドニア(註4)の民族主義ゲリラの掃蕩に明け暮れたが、24歳で第3軍団司令部勤務に転じた直後に「オスマン自由委員会」に加盟したのである。
註3 ただ、オスマン帝国においては社会的に出世・成功するのに出自はあまり関係ない。政治・軍事の指導的な役職は世襲ではなく全くの実力主義によっていた。これは遊牧民族の伝統である。(農耕民族は広大な土地を所有する者=貴族となるが、遊牧民族には土地所有の概念がないから……ということらしい。『ケマル・パシャ伝』)
註4 現在のマケドニア共和国、ギリシアの北部、ブルガリアの西部に相当する。当時は全部オスマン帝国の領土に含まれていた。
もう1人の主人公、ムスタファ・ケマルが生まれたのもエンヴェルと同じ1881年(註5)である。生地サロニカは現在ではギリシア領に含まれるが当時はオスマン帝国領であり、父アリーは財務関係の下級官吏で、暮らしぶりはエンヴェルの生家よりは豊かという程度であった。ケマルが9歳の時、父アリーは役所から転職した材木業がうまくいかないまま亡くなり、一家は母ゾベイダの兄弟を頼って田舎に移ることにした。その後母の反対を押し切ってサロニカの陸軍幼年学校に入学し(註6)、さらにマナストゥルの士官学校を卒業、イスタンブールの高級士官学校、陸軍大学校へと進学した。ちょっと話がそれるがサロニカは現在ギリシア領、マナストゥルはは現在マケドニア(旧ユーゴスラヴィア)領である。イスタンブールだけは今でもトルコ共和国領、高級士官学校に在学中のケマルは(既に少尉に任官していて給料が出るので)夜な夜な首都の酒場に現れては飲み買いしつつ色々な階層の人々の話を聞いていた。ちなみにエンヴェルは酒は飲まない。ケマルは陸軍大学校を24歳で卒業して大尉の位を得た。
註5 一説では1880年。
註6 この時代のトルコ人は名のみで姓をもたなかった。ムスタファ・ケマルは生まれた時は単なる「ムスタファ」なのだが、師が弟子に第二の名を贈るという習慣により、陸軍幼年学校の数学教師から「ケマル」という名をもらって「ムスタファ・ケマル」となるのである。その後、大統領となったケマルの改革によってトルコ人も姓を持つことになる。
……その後政治的な問題を起こしてシリアに左遷されていたケマル(註7)が、故郷サロニカに駐留する第3軍団に転属になったのは1907年である。サロニカはマケドニア第一の都市だが、マケドニアでは民族主義ゲリラの活動が続いており、既にシリアのゲリラ(ドルーズ派)掃蕩に手腕を発揮していたケマルのそちらでの活躍が期待されたのである(ケマル・パシャ伝)。
註7 ちょうどこの頃おこった「日露戦争」にて極東の小国日本がロシア帝国(オスマン帝国の宿敵)を撃破した。ケマルは日本に注目してこれを研究し、後に大統領になった際に日本の明治維新をトルコ近代化のお手本としている。
そのサロニカにはタラートやエンヴェルの「オスマン自由委員会」の本拠が置かれていた。タラートはパリの「統一と進歩委員会」とも連絡をとり、1907年9月をもって両者の合同を実現した。名称はパリ・グループの「統一と進歩委員会」に統一されたが、その後の組織の枢要はタラートのグループが握ることになる。本稿では慣例に従って「青年トルコ党」と記すことにする。サロニカに戻ったケマルもすぐにこの組織に加盟し、エンヴェルやタラートの知遇を得た。この頃のケマルはさほど目立った動きを見せていない。
1908年6月、ロシア皇帝とイギリス国王が会見し、オスマン帝国の分割について話し合った、との未確認情報が流布された。青年トルコ党所属の士官たちはこれに憤激し、早急に現政権の専制政治を打倒して立憲政治を実現すべきとの党の目標を確認した。
7月3日、まずアフメット・ニヤーズィ少佐が決起を宣言し、オクリッド付近の山に立て籠った。エンヴェル少佐もこれに続いた(註1)。反乱はサロニカの第3軍団からエディルネの第2軍団にまで飛び火した。スルタン アブデュルハミト2世はアナトリア(註2)の軍団を送り込んだがこれも反乱軍に同調した。21日、反乱軍はスルタンに憲法の復活を求める(註3)最後通牒を突き付けた。24日、スルタンは反乱軍の要求受け入れを表明し、一発も撃たないままの革命が実現した。これが「青年トルコ党革命」である。
註1 レモネード商人に変装して秘密警察を買収したという。
註2 現在トルコ共和国の主要な国土となっている巨大な半島。北は黒海、南は地中海、西はエーゲ海に囲まれ、北西部でバルカン半島と極めて隣接する。革命が起こったサロニカはバルカン半島に所在する。
註3 実は1876年に一度憲法が発布されている(ミトハト憲法)が、翌年のロシアとの戦争勃発を口実として廃止されていたのである。
ニヤーズィとエンヴェルは「自由の英雄」と讃えられた。サロニカに凱旋してきた彼等は憲法発布を宣言して大喝采を浴びた。群集の中には、今回の革命に際し静観を守っていたケマル大尉(註1)の姿もあった。だが、彼等は憲政の復活以上のことは考えていなかった。今回の革命の主力となった青年将校たちでは組織も経験も全く不足であり、せいぜいスパイ網の廃止と腐敗官僚の追放程度のことしか実現しなかった。アブデュルハミト2世はそのまま位を保ち、新しく大宰相となったキュチュク・メフメット・サイードも、アブュデュルハミトの下で既に6度も同じ役職をこなした人物であった。青年トルコ党は政府に参画せず、圧力団体の地位にとどまっていた。
註1 当HP収録の「ギリシア近現代史」に「青年トルコ党革命にも参加した」と書いてしまった。ただ、党に加盟していたのは間違いない。
かように、革命そのものは大した混乱も変革ももたらさなかったが、影響力だけは甚大なものがあった。まず一般庶民が革命の自由な雰囲気に触発されてストライキを頻発させ、周辺諸国も「革命」を「混乱」と解釈して様々な要求を突き付けてきた。10月にはそれまでオスマン帝国内の自治公国だったブルガリアが完全独立を宣言し、オーストリアも、それまで名目的にはオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナ(註2)の併合を通告してきた。12月に招集された議会では帝国内のキリスト教諸民族が各々の利益を主張した。それとは全く逆の動きとして、青年トルコの進歩性に反発する保守的なイスラム教徒が「イスラム連合」を結成して下層市民や神学生の支持を集めた。青年トルコ党は労働者のストに対しては「現時点では資本家との提携の方が大事である」と考えて弾圧側にまわり、軍の人事においても革命前に重要されてきた人々を冷遇(註3)してその不満を増幅させていた。
註2 1878年以来オスマン帝国の宗主権を認めつつオーストリアが行政権を握る。
註3 アブュドゥルハミト2世は士官学校卒業生(余計な教養を持っていて信用出来ない)を警戒し、下層からの「叩き上げ」士官を優遇していた。(トルコ近現代史)
1909年4月13日、イスラム連合に扇動されたアルバニア人狙撃大隊が反乱を起こして首都を制圧した。「シャリア(イスラム聖法)を守れ、シャリアは危機にある」。アブデュルハミト2世までもが反乱に共鳴した。しかしこの「反革命」はサロニカの青年トルコ党本部から急派されてきた第3軍団によって速やかに鎮圧された。この軍団の参謀長にはケマルがいたが、ドイツにいたエンヴェルも大急ぎで帰国してきて事態の収拾にあたった。彼は革命の後ベルリンのオスマン大使館で陸軍駐在武官を勤めており、ドイツ語とその兵学を学んでいた。
この事件の結果、アブデュルハミト2世は廃位となり、その弟メフメット5世が即位した。だが、これはまだ中途半端なものであった。今回の騒ぎで第3軍団を率いたマフムート・シェヴゲト・パシャ(註4)は実は青年トルコ党にも懐疑的で、新しく成立した政府でも、青年トルコ所属の閣僚は2人だけにとどまっていた。ここではむしろ、青年トルコ党内部の地方分権・非イスラム派が失速して中央集権派が実権を握ったことの方が重要である。中央集権派は、帝国内の諸民族が別個の利害を追及するのを妨げようとしたが、これは、すべての帝国国民は「オスマン国民」として平等な権利と義務を負うべきとの理想に基づく動きであり、それと一体の中央集権政策は、反革命の再発防止を想定するものであった(トルコ近現代史)。その中央集権策を推進するにあたって最も重要な意味を持つ官職は内務大臣だが、今回その内相に就任した青年トルコ所属のメフメット・タラートなる人物は、かつてサロニカで「オスマン自由委員会」を結成して青年トルコ党運動の一翼を担った郵便局員タラートその人なのであった。
註4 「パシャ」とは、オスマン帝国の文武の高官に与えられる称号である。
しかし、彼等の思考ははっきりいって観念的にすぎるものであった。中央集権化の試みと、青年トルコ所属財務相ジャーヴィトの税制改革(課税強化)が特にアルバニア人を憤激させ(前掲書)、1910年3月には(アルバニアで)大規模な反乱が勃発するに至った。アルバニア人はこれまでオスマン帝国の最も信頼出来る臣民であった。かような情勢を鑑みた青年トルコ党は内相タラートを辞職させる等の妥協を行うが、そのことが今度は、アルバニア人鎮圧に積極的な軍部の指導者シェヴゲト・パシャの青年トルコへの猜疑心を募らせてしまった。5月、財務相ジャーヴィトも辞職に追い込まれ、6月には青年トルコの機関誌が発禁処分となった。
政界が険悪なムードに包まれている最中の9月28日、イタリア軍がオスマン領トリポニタニア(リビア)に上陸し、世に言う「伊土戦争」をひき起こした。昨年の反革命鎮圧の後ベルリン駐在武官職に戻っていたエンヴェルはただちに職を辞して現地に向い、「献身隊」を率いて奮戦した。海軍の貧弱なオスマン帝国は海路からではトリポリタニアに大軍を投入することが出来ず、陸路ではエジプトの支配権を握るイギリス(註1)が「中立」を宣言してオスマン軍の進路を妨げていた。戦闘に加わりたい人々は、個人で、自分の才覚でトリポリタニアを目指さなければならなかった(註2)。しかしトリポリタニアのオスマン軍は少数ながらも現地リビア人の宗教指導者を味方につけ、イタリア軍をたびたび撃ち破った。エンヴェルは中佐に昇進し、リビア人を心服させるあらゆる努力を支払った。戦いの最中にケマルも参陣してきた。ベドウィン(沙漠のアラブ人遊牧民)に変装してエジプトを抜けてきたのだという。2人の関係はつねに険悪だったというが、イタリア軍の方にあまり戦意がなく(熱しやすく冷めやすいラテン気質ゆえ)、戦争は長期戦の様相を呈していった。
註1 エジプトは本来オスマン帝国の領土だが、19世紀はじめ頃から半独立の状態となり、さらにイギリスの支配下に置かれるに至っていた。
註2 エンヴェルはイタリアが海上封鎖を行う前にリビアに到着している。
その間の12年1月、本国にて総選挙が行われ、「棍棒選挙」と呼ばれる力づくの運動の末に青年トルコが大勝した。これで内閣は青年トルコ一色に染まったが、反対派の憤激も著しく、政界や軍の有力者の圧力もあって8月には議会が解散に追い込まれた。青年トルコ党は一旦中央から締め出された。
10月、今度は「バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ギリシア・ブルガリア)」が相次いでオスマン帝国に宣戦し、「第一次バルカン戦争」が勃発した。オスマン政府はすぐにイタリアと休戦してそちらにあたったがバルカン同盟軍の進撃を止められず、11月8日には青年トルコの本部のあるサロニカまで陥落した。リビアで帰国命令を受け取ったケマルが、フランス・オーストリア・ルーマニアと中立国を経由して戻ってきた頃には、すでにブルガリア軍が首都イスタンブールから20?の地点に迫っていた。青年トルコ党はそれでも徹底抗戦を唱えたが、反青年トルコの大宰相キャミール・パシャが弾圧を行って党員50名を逮捕、12月3日に休戦に持ち込んだ。
エンヴェルを中心とする青年トルコ強硬派は武力による政権奪取の準備を整えた。中央政府はバルカン同盟との講和会議が進めていたが、ここで、オスマン帝国の古都であり、今次の戦いでもブルガリア軍の攻撃を撃退し続けていたエディルネ(アドリアノープル)市の(ブルガリアへの)割譲が認められるとの噂が流布された。
13年1月23日、武装した小部隊を率いるエンヴェル中佐が大宰相府に乗り込み、陸相を射殺し大宰相キャミール・パシャに辞職を強制した。ここまでやっても青年トルコは政権をとらず、新しい大宰相職は、去就が不明瞭だが1909年の反革命鎮圧で協力してくれたマフムート・シェヴゲト・パシャにお願いした。「大宰相府襲撃」で拘束した反対派はまもなく釈放され、望む者には金品を与えて国外に出てもらった。エンヴェルたちの目的は戦争継続のみに絞られていた。
2月3日、ブルガリア軍がエディルネ市への攻撃を再開した。エンヴェルは、海を廻ってブルガリア軍の背後に上陸、エディルネ包囲の敵軍を逆包囲するとの作戦を立てた。ところが5日後に始まった上陸作戦はブルガリア軍の逆襲にあって寸断され、部隊の半数以上を失って退却する有り様となった。3月26日、エディルネが陥落した。4月1日、オスマン帝国は再度の休戦を受け入れた。
6月11日、大宰相マフムート・シェヴゲト・パシャが暗殺された。一説にエンヴェルの陰謀という。青年トルコ党所属のイスタンブール軍政長官ジェマルは、事件の犯人を反青年トルコ派によると断定し、約300人の反対派を首都から追放した。後任の大宰相には党総書記のメフメット・サイード・ハリム・パシャが就任した。1908年の「青年トルコ党革命」から5年、ようやく完全な「青年トルコ政府」が実現したのである。
政権奪取から1ヵ月もたたない6月29日、願ってもない朗報が舞い込んできた。「バルカン同盟」の諸国が先の戦争の戦利品分配をめぐって仲間割れを起こしたのである。
この「第二次バルカン戦争」を先に仕掛けたのはブルガリアだが、すぐセルビア・ギリシア・モンテネグロの反撃にあって敗退し、さらに(前の戦争に関係なかった)ルーマニア軍の攻撃を受けて危機的状況に陥った。7月13日、オスマン帝国もまたブルガリアに宣戦した。ブルガリア軍は既に壊滅しており、大した抵抗も受けないまま進撃するオスマン軍は21日にはエディルネを奪回した。先陣をきって古都に入城したエンヴェルは市長からパンと塩という伝統的な献げものを手渡され、市内のトルコ人の大喝采を受けた。ブルガリア軍は休戦した。
この大戦果により、エンヴェルは大佐に昇進し、さらに士官学校校長の任を受けた。1908年の革命の際にエンヴェルと並んで「自由の英雄」と呼ばれたニヤーズィは既にこの世になく(12年に暗殺された)、青年トルコ党内は元郵便局員の現内相タラート、首都軍政長官ジェマル、そしてエンヴェルの3人による「三頭独裁」が整った。
14年1月、エンヴェルは少将に昇進、陸軍大臣・参謀総長に就任して遂に「パシャ」の位階を贈られた。スルタンの姪ナジエ内親王と結婚したのもこの頃で、下層出身のエンヴェルが望み得る最高の栄誉をすべて手にした訳である。「三巨頭」の残り2人のうちジェマルもまた「パシャ」の位階を受けて2月には海軍大臣に就任した。もっともジェマル本人は陸軍軍人で、第一次世界大戦においても第4軍団司令官を兼任してシリア方面の陸戦を監督することになる。海のことなどまるで知らない海相はオスマン海軍のヘボさを象徴する存在といえた。タラートはそのまま内相に留任し、17年2月にはさらに大宰相に就任する。位人臣を極めても生活はつつましく、「パシャ」の位階もなかなか受けようとしなかった。何度も繰り返しているように元郵便局員(集配人)である彼は電信技手を務めたこともあり、大臣になってからも部屋に電信機を置いて仲間と電報のやりとりを楽しんでいたという。
この年6月28日、ボスニア州のサラエヴォでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、犯人の母国セルビア(註1)とオーストリアとの関係が一触即発の状況となった。もちろんこの時点での各国政府は世界レベルの大戦争など想定しておらず、仮に戦闘が起こったところでセルビア・オーストリア間の局地戦に限定出来ると考えられていた。しかしセルビアの背後にいるロシアがオーストリアに対し強硬に反発して総動員令を下し、オーストリアの同盟国ドイツもこれに対応して「臨戦危険状態」を布告した。ロシアの同盟国フランスとイギリスも戦争に向って動き出した。オスマン帝国はどう動くのであろうか?
註1 犯人の国籍はオーストリアであるが、民族的にはセルビア人。
ドイツは、皇帝ヴィルヘルム2世がオスマン帝国への影響力拡大を狙って(註2)の軍事顧問団を送り込み、政治工作用の資金(賄賂)を年間100万マルク用意してもよいと語っていた。彼は1898年にイスタンブールを訪れてスルタンと親しく会見し、ドイツ資本の鉄道を敷設するかわりに大借款を与える等の肩入れを続けていた。ドイツはヨーロッパの列強の中で、オスマン帝国に戦争を仕掛けたり領土を要求したりしなかった唯一の国であり、今の帝国の指導者であるエンヴェル・パシャはドイツ駐在武官勤務の経験からドイツ贔屓に染まっていた。しかしながらイスタンブール駐在のドイツ大使は個人的にはオスマン帝国は「同盟国としては価値がない」と考えており、軍事顧問団とオスマン将校団の関係も必ずしも良好という訳ではなかった。
註2 ヴィルヘルム2世は「東方への情熱」と呼ばれるほど近東への進出に熱心であった。
青年トルコの三巨頭のうち内相タラートはロシア皇帝ニコライ2世を訪れて同盟を打診し(註3)、海相ジェマルはサラエヴォ事件(6月28日)のすぐ後にパリを訪れてそちらの反応を探っていた。ジェマルは海軍の近代化のための親英政策を押し進め、先に発注していた新型戦艦2隻を受け取るための海軍士官・水兵400人をイギリスへと送り込んでいた。オスマン海軍近代化の第一歩に国民は大喜びだった。この点から見ても、「第一次世界大戦」に際してオスマン帝国がどちらに味方するかははっきりしなかった。
註3 断られた。ロシアの南下の野心にそぐわなかったからである。リデル・ハート『第一次世界大戦』
ところが、戦艦を取りにいった時期がまずかった。セルビア・オーストリアが戦争状態に入ったのが7月28日、トルコ人たちがイギリスに到着した8月1日にはドイツがロシアに宣戦して一挙に戦線が拡大するに至っていた。イギリスはまだ参戦していなかったが、大急ぎで軍事資材調達に乗り出しており、約束の戦艦をオスマン帝国に引き渡さずに自国海軍に編入してしまったのである。
当然ながらオスマン帝国全土に憤激が巻き起こった。そもそも連合国(イギリス・フランス・ロシア)はオスマン帝国を大して重視しておらず、タラート内相やジェマル海相からの同盟交渉もはっきりと拒絶していた。対してドイツ皇帝は既に見たとおり(出先機関の個人的感情は別として)オスマン帝国との同盟に極めて積極的であった。8月2日、あくまで親独派のエンヴェルがジェマル海相に内緒で進めていたドイツとの交渉が実を結び、対戦相手をロシアに絞った上での秘密同盟が調印された。エンヴェルはこの時点では対英仏戦を想定しなかったといわれるが、8月3日にはドイツ・フランス間に、4日にはドイツ・イギリス間に戦闘が始まり、都合のいいことばかり考えている訳にもいかなくなってきた。
しかしながらイギリスの方もオスマン帝国を敵にまわしたいとまでは思っていなかった。イギリス海相ウィンストン・チャーチルは接収した戦艦の代償を約束し、オスマン帝国がこのまま中立を守るならば1日1000ポンドを支払うとまで提案した。エンヴェルはこれを拒絶した。かわって11日、ドイツ海軍の巡洋戦艦「ゲーベン」と巡洋艦「ブレスラウ」がオスマン帝国の領海に侵入してきた。中立国たるオスマン帝国はこの2隻を武装解除もしくは退去させる必要に迫られた。この決断はエンヴェルとドイツ軍事顧問団のクレス中佐が行った。クレスは巧みにエンヴェルを誘導した。「もし英国艦が追撃してオスマン領海に入った場合、発砲してよろしいか」「この件は内閣の決定を待たねばなりません」「閣下、我々は即座に明確な支持を与えずに、同僚をこのような状態に放っておくことは出来ません。発砲してよろしいか」「よろしい」。このようなやりとり(第一次世界大戦上)の結果ドイツ艦は武装したままオスマン帝国の港に入り、オスマン政府はこの2隻を買い取ったと説明した。実はこの2隻はドイツ海軍が開戦直前に地中海に有していた全兵力であり、ドイツ・フランス間の戦闘が始まった3日の時点でオスマン帝国に向うよう指示されていた。ドイツ艦を率いてきた司令官ゾーヒョン少将はそのままオスマン艦隊の司令長官に就任した。15日、オスマン海軍からイギリス軍事顧問団が引き揚げた。ドイツ顧問団は800人に膨れ上がった。ジェマル海相等による参戦回避の努力はまだ続いていたが、イギリスはドイツの2艦がオスマン帝国の手に渡った時点で態度を決めていた。ロシアがオスマン帝国の首都イスタンブールを欲しがっているのは周知の事実(註4)だが、現在のロシア経済が英仏資本に依存している以上、その要求を満たしてやっても大した問題はないと思われた(オスマン帝国衰亡史)。
註4 かような「南下政策」は昔からのロシア帝国の国是である。
8月29日、「タンネンベルクの戦い」にて、ドイツ軍がロシア軍を大破した。この世界戦史にも稀な大勝利を見たエンヴェルは、オスマン・ロシア国境の向う側、かつてロシアに奪われた領土(註5)を取りかえしたいとの欲求を押さえられなくなってきた。9月上旬、イギリスではすでに対オスマン作戦が練られていた。9月27日、エーゲ海にてイギリス艦とオスマン艦の小競り合いが起こった。オスマン帝国は主要航路に機雷を仕掛けてこれに対抗したが、そのために貿易がストップしてかえって苦境に追い込まれてしまった。10月28日、ドイツはオスマン帝国参戦と引き換えに2億ポンドの金塊を提供すると申し出た。
註5 19世紀に起こった何度かのロシア・オスマン戦争により、オスマン帝国は多くの領土を奪われていた。
同日、オスマン艦隊の一部がロシア領の黒海北岸地方を砲撃した。大宰相サイド・ハリムはまだ開戦を躊躇っており、今回の艦隊の行動はオスマン政府の知るところではないと弁明した。しかし大宰相を前にしたエンヴェルは拳銃をテーブルの上におき、「軍部は政府の意向がどうであろうとも行動を起こす。どうしても戦争を避けたかったら私を殺せ。この部屋を出ていくまでに背後から撃つがいい!」と大見得をきったという。
かくして11月2日にはロシアが、5日にはイギリスがオスマン帝国に宣戦を布告し、オスマン・トルコ帝国は正式に第一次世界大戦へと参陣した。メフメット5世は11日に「ジハード(聖戦)」を布告した。戦線はヨーロッパから中東全域へと拡大した。
エンヴェルの最大の目標は現在ロシア領に含まれている旧領の回復にあった。11月の時点で東部アナトリア(註6)に侵入してきたロシア軍を阻止していたトルコ軍を、さらに9万の精鋭に再編してロシア領に雪崩れ込もうとの「サルカムシュ」作戦である……
註6 「アナトリア(小アジア)」は現在のトルコ共和国の国土の大半を占める大半島のことである。トルコ近代史にとって大きな意味を持つ地域なので、忘れないこと。
……ここまで、第一次世界大戦参戦に至るオスマン帝国の動きをざっと眺めてきたが、このようなその場その場の国際情勢への対応といったことだけで彼の国の参戦問題を論じることは出来ない。また、オスマン帝国は単なるドイツの操り人形ではなく、特にエンヴェル・パシャは大戦の最中にあってもドイツの意向を無視することが2度3度ではなかった。彼には彼なりの理想があり、ドイツ側に立っての参戦はそれを叶え得ると信じてのものであった。‥‥この辺りをもう少し詳しく見てみよう。