トルコ民族の起源・範囲ははっきりしていない。「民族」を定義するものには、その容貌、生活文化といったものが考えられるが、19世紀の学者たちは民族の起源を分析する材料として言語に着目し、6〜7世紀に中国の北方で活躍していた遊牧民族「突厥」がトルコ系の言語を用いていたことをつきとめた。紀元前3世紀に存在した「丁零」もまたその名称からトルコ系と推定され、「突厥」の母体となった「鉄勒」も当然トルコ系だったと思われる。他方で5世紀頃に東ローマ帝国を脅かした「ブルガロイ」もその言語からトルコ系であることが明らかである。トルコ系の言語を話す、つまりトルコ語族に属する人々は、アゼルバイジャン人・トルクメン人・ウズベク人・カザフ人・キルギス人・ウイグル人等が存在しているが、ただしこれはあくまで言語による分類であり、現実にこれらの人々が「トルコ系」という意識を持っているかどうかは甚だ疑問(一部知識人は除く)である。従って、通常「トルコ民族」とは現在(2001年)トルコ共和国に在住する人々(一部少数民族も「トルコ国に住むからトルコ人である」と強引に解釈している)を意味するが、20世紀初頭の一部の知識人たちは、それ以外の「トルコ語族」を全部統合する「汎トルコ主義」にとりつかれていた。エンヴェルもその1人であった。
かような考えは実はわりと最近になって登場してきたものである。そもそも「オスマン・トルコ帝国」とは、「トルコ人(民族)」が独占的に支配する国家では決してなかった。トルコ人の異民族支配は民族別ではなく宗教別に行われており(これを「ミレット制」という)、その中では言語に基づく民族の違いはあまり意識されていなかった(トルコ民族主義)。もちろん帝国を建設したのはまぎれもなくトルコ人(トルコ語を母語として話す人)であり、帝国の行政語にもトルコ語が用いられていたが、その支配階級には他言語を母語とする人々が多数含まれており(トルコ語をマスターすることで支配階級の仲間入りが出来る)、それらを全部ひっくるめて「オスマン人」といった認識がなされていたのである。
もう少し順をおって説明する。本来、この帝国はなによりもまず「イスラム国家」であった。ところが19世紀に入って帝国内のキリスト教徒の独立運動が激化してくると、国内におけるイスラム教徒とキリスト教徒の差別をなくし、全く平等なオスマン帝国国民という意識を生成しようとの政策を打ち出すようになる。これを「オスマン主義」という。しかし努力のかいなくキリスト教徒の多くは独立を強行してしまい(ギリシア・セルビア・ルーマニア等)、残った臣民の大半(全部ではない)がイスラム教徒という状態となる。もちろんその内部はトルコ語・アラブ語・アルバニア語といった多くの要素(註1)の集合体であることから、帝国としては今度は彼等に共通する「イスラム教」を統合の要とするに至った。これを「イスラム主義」という。だがその中でも次第にアルバニアやアラブの民族主義が芽生えだし、それに遅れる形でようやくトルコ語を話す人々の間にも「トルコ人(註2)」たる民族意識が形成されるに至るのである。
註1 言語を中心とし文化と歴史を共有する文化集団としての「民族」というものは古くから存在する。前近代の「○○人」というものがそれである(「○○に住んでいる人」という意味もある)。これを凝固剤もしくは基盤として、独立した主権を持つ政府、その主権が独占的に行使される領土、同じく国民(政治における主体的構成員)によって形成される「近代国家」を持とうとするのが近代における「民族主義」である。西欧(例えばフランス)において早くから成立した「近代国家」も当然民族(文化的均一性)の上に立つものであり、東欧やアジアが「近代国家」をつくろうとする際にも、これも当然のこととして、古くから文化的・政治的まとまりを保持してきた「民族」に基盤を求めることとなる。「民族性」とは他民族との差異を強調することによって成立するものであり、なおかつ「近代国家」が民族を基盤とする以上、それは必然的に他民族に対する排他性を有することになるのである。『オスマン帝国の解体』を参考とした。
註2 もともと「トルコ人」という言葉は、アナトリアの粗野で無教養な農民や遊牧民を指す蔑称であった。(トルコ近現代史)
ただし〜読者の方々は既におわかりと思うが〜ここでいう「トルコ人」を定義するものは、まず言語、それから宗教、過去の記憶としての様々な文芸といったものであり、「血筋」はあまり関係ない。そのことは、「トルコ民族主義」を誰よりも強調するエンヴェルやケマルからしてアルバニア人の血をひいており、青年トルコ三巨頭の1人タラートはその容貌からしてジプシー系であったことを述べれば充分であろう。(註3)
註3 現在のトルコ共和国の憲法では「トルコ国民=トルコ人」と定義されている。また、旧ユーゴスラヴィアのボスニアのイスラム教徒の多くは、トルコ語を話す訳でも血がつながっている訳でもないのに自らを「トルコ人」であると考えているといい(バルカン現代史←1977年発行)、オスマン支配時代には彼等は「トルコ人以上にトルコ的な外観」をそなえていたという(ユーゴスラヴィア史)。その一方で、トルコ系諸民族の中でも中央アジアに住む人々とアナトリアに住む人々とはかなり容貌が異なる。これはアナトリアに移動してきたトルコ系遊牧民が土着の人々との混血を繰り返したからである。
エンヴェルは、東方のシルクロード沿いのトルコ系民族を統一し、サマルカンド(現在はウズベキスタン共和国)に首都を置くという誇大妄想的な計画を抱いていた。これはエーゲ海から中国の新疆まで含むというもので、その障害の第1番がカフカース地方(註1)を支配するロシア帝国であり、大遠征の第1歩が既に触れた「サルカムシュ」作戦なのであった。英仏軍が首都の鼻先への上陸作戦を練っている矢先(後述する)の、しかもそちらとは完全に逆方向への出陣は、純粋な戦略という点では甚だ心もとないものであった。エンヴェル直々に率いる遠征軍はすぐに進路をさえぎられ、寒天の下で耐寒装備や糧食が足りないまま敵の包囲に落ちた。9万の将兵のうち帰還出来たのはわずかに1万2000といわれ、エンヴェル本人も軍勢を捨てて首都に逃げ帰る始末であった。
註1 詳しくは後述するが、オスマン帝国の東に位置する、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、現在のグルジア・アルメニア・アゼルバイジャン等が所在する。
エンヴェルはこの敗戦の責任をとることもなく陸軍大臣に留任し、厳格な報道管制によって事実を押し隠した。だが、ロシア軍は容赦なく進んでくる、そこに途方もない悲劇が出来した。
アナトリアの東部とロシア領に跨がって居住するアルメニア人が「独立の好機」とばかりに数千人単位でロシア軍に馳せ参じ、オスマン帝国へのゲリラ戦を開始した(トルコ近現代史)のである。本来アルメニア人と青年トルコ党との関係は良好であり、大戦勃発時にもアルメニア教会(キリスト教の一派)ではオスマン帝国の勝利を祈る集会が催されていた(悲劇のアルメニア)。ところが「サルカムシュ」作戦が失敗に終わった15年2月になるとまず帝国内のアルメニア人官吏が解雇され、続いて軍のアルメニア人部隊の武装解除、そしてロシア軍との戦闘地帯からのアルメニア人の強制移住が強行された。移住の過程、及び移住先における死者はトルコ人の推定によっても20万、アルメニア人によれば200万人にも達したといい、近年の研究によれば当時のアナトリアに在住していたアルメニア人約150万(註2)のうち60〜80万人が死亡したと考えられている(トルコ近現代史)。アルメニア人部隊の武装解除についてはエンヴェルが処理にあたり、アメリカ大使に対して、アルメニア人処理に関する全責任が自分にあることを明言したという(納得しなかった男)。
註2 アルメニア人の中でもイスラム教徒及びカトリック・プロテスタントは一般に追放の対象にはならなかった。
舞台を西に移す。ヨーロッパとアジアを隔てる2つの海峡は、東がボスフォラス海峡、西がダーダネルス海峡と呼ばれ、前者はオスマン帝国の首都イスタンブールの目の前である。この隣接する2海峡はイギリス艦隊のいる地中海とロシアのいる黒海のつなぎめにもあたり、英仏軍からみれば、ここを突破することによってイギリス・ロシア間の補給路確保、及びイスタンブールの直接攻撃が可能となる訳である。
もちろんその実現には大損害が予測されるが、極めて魅力の多い作戦でもある。イギリス艦隊が黒海に突入することが出来れば、現在中立を保っているルーマニアを動かしてオーストリアの側面を突かせることが出来、イスタンブールを占領すればオスマン帝国の降伏もほぼ間違いない。イギリス海相チャーチル自らが作戦の最高指揮を買って出た。「オスマン帝国を、ふたつに断ち切り、世界史の面をかえてしまわなければならない」。
15年3月18日、英仏連合艦隊がダーダネルス海峡へと突入した。オスマン軍の砲台からの反撃はそれほど大したものではなかったものの、戦艦3隻が機雷に触れて沈没するという大打撃を被った。ここを突破するにはやはり狭い海峡の両岸、特にヨーロッパ側のゲリポル半島(英語でガリポリ)を陸軍部隊が占領して艦隊通行の安全をはかる必要がある。
しかし今回の英仏艦隊突入はオスマン軍に対する充分な警戒警報となってしまった。ドイツ人軍事顧問フォン・ザンデルス将軍はオスマン軍6個師団を海峡の両岸に配置してその司令部をゲリボル半島に設定し、うち1個師団の師団長はソフィア駐在武官から帰国してきたムスタファ・ケマル大佐にまかされた。
4月25日、艦隊の援護射撃を受けたイギリス・オーストラリア連合軍の第1陣約4万人がゲリボル半島への敵前上陸を開始した。半島には小丘陵が波のように続いており、連合軍は丘陵を越えようと立ち上がるたびにオスマン軍の集中砲火を浴びて甚大な犠牲を支払った。総勢8万の連合軍が1ヵ月かけて進んだ距離はわずか3?であった。最も激しい戦闘はジョンクバユル高地をめぐって行われた。ジョンクバユル高地は連合軍主力が上陸したアルプルヌ海岸に近く、その頂きに立てばダーダネルス海峡を眼下に一望することが出来る。切り立つような急な坂と岩石に覆われたこの高地は連合軍の攻撃路に立ちはだかるかのようであり、連合軍の上陸開始当日にその上陸地点を知ったケマルは、即座にこの高地の防衛に手持ちの全兵力を投入した。「わが軍が勝機を掴んだのはまさにこの時であった」。ケマル自身が先頭に立ち、不完全な地図と小さな磁石を手に高地の頂上へと駆け上がった第19師団は、数刻遅れて高地に殺到してきたオーストラリア軍を撃退した。海では、5月13日にオスマン海軍の水雷艇「ムアヴェネット」がイギリス戦艦「ゴライアス」を撃沈した。まあもっとも、「ムアヴェネット」はドイツ製かつ艇長もドイツ人であったが……。
5月26日、再び英仏艦隊がダーダネルス海峡へと突入した。ところが海峡の最狭部へと差し掛かったことろでイギリス戦艦「マゼスティック」が潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、フランス戦艦「ブーウェー」もまた機雷に触れて沈没した。浅くて狭い海峡のど真ん中に大型艦が2隻も沈んだため、他の艦艇は機動的な操艦が出来なくなってしまった。やはりガリポリ半島の制圧が先である。
しばしの膠着状態を経た8月6日、新たな増援を得た英仏軍15個師団が攻勢を開始した。オスマン軍は一旦は後退し、要地ジョンクバユル高地も奪われたが、9日には新たな増援を得て反撃に出た。ドイツ顧問ながらもこの方面の総指揮をとっていたフォン・ザンデルス将軍はその全権をケマルに委ねるとの決断を下していた。英仏軍が補給につとめていたここ数ヵ月、オスマン軍もまた15個師団を揃えており、ケマル自身も機関銃弾で腕時計を打ち抜かれつつジョンクバユル高地のイギリス・ニュージーランド軍を相手に白兵戦を展開した。イギリス軍は高地に大砲を持ち込もうとしたが斜面がきつすぎて思うにまかせなかった。数時間後、ジョンクバユル高地には再びオスマン軍の旗が翻った。この高地だけで、敵味方あわせて5万の死者が出た。連合軍の指揮官ハミルトン卿は本国にさらに10万の増援を仰いで断られ、何度かの絶望的な攻勢に失敗した末、ついに全面的な撤退を決意した。12月18日から翌年1月8日にかけて行われたほぼ無血で行われた。それだけは評価に値するが、いずれにせよ10ヵ月に渡って戦われた「ゲリボルの戦い」はオスマン軍の大勝によって終了したのである。
ケマルの有名な台詞「余の命令は『攻撃せよ』ではない。余は諸君に『死ね』と命じる」。もちろんこの「ゲリボルの戦い」には数十万のオスマン兵が投入されており、ケマル個人の勇猛さだけを強調するのは間違っている。しかし彼は今回の功績によって少将に進んで「パシャ」の位階を受け、イスタンブールの新聞から「首都とダーダネルスの救済者」と、最大限の敬意をもって讃えられた。勇猛で兵士の心を掴むのが巧みなだけではなく、ジョンクバユル高地の重要性を素早く見抜いたこと等、優れた戦略眼の持ち主でもあったムスタファ・ケマルは、この「ゲリボルの戦い」をもって、オスマン帝国の軍事・政治を代表する英雄としてデビューするに至ったのである。
その後ケマルはカフカース戦線に配属され、そちらでいくらかの失地を回復した。ロシアにて革命が近付いており、ケマルとしては自軍を何とか戦える状態に鍛えなおせば互角以上の勝負が可能であった。17年春、ロシアで「二月革命」が起こり、カフカース方面のロシア軍はほとんど解体した。おかげでオスマン軍は戦前の国境線まで失地を回復したが、陸軍大臣のエンヴェル・パシャはケマルをシリア方面へと転任させることにした(その後のこの方面の戦局については後述)。ケマルひとりにあまりに勲功が集中するのを嫌ったからだという。
その陸軍大臣エンヴェル・パシャは「汎トルコ主義」だけではなく、「ジハード(聖戦)」の名における全イスラム教徒の連合をも押し進めていた。ゲリボル戦の始まる少し前、エンヴェルはケマルに対し3個聯隊の兵力をもってイラン(註1)からインドのイスラム教徒(註2)に激を飛ばす作戦を説明し、この時はケマルに断られたものの、ドイツ人工作員ヴィルヘルム・ワッスムスによるイラン南部の反英暴動工作には成功した。また、リビアの宗教指導者サイード・アフメットに反イタリア蜂起をけしかけて成功したのは、おそらく「伊土戦争」の時のエンヴェルの人脈がものをいったのであろう。
註1 イランは中立を宣言していたが、権益を持つイギリス軍が勝手に行動した。
註2 いうまでもなくインドはイギリス領である。インドのイスラム教徒はオスマン帝国からのジハードの呼びかけには全く応じなかった。
ところが、イスラムの聖地メッカ(オスマン領)の守護者シャリーフ・フセインが16年6月5日をもってオスマン帝国に対する決起を宣言、アラブ人を糾合して、イギリス軍の援助のもとに北上を開始した。こちら側に対応したのはジェマル・パシャに、カフカースから転出されてきたムスタファ・ケマル、それとドイツ人の顧問団(といっても、軍団長までドイツ人である)だが、ケマルはドイツ顧問と不仲になり、病気の療養を兼ねて一旦イスタンブールに戻ることにした。イギリス・アラブ軍が勢力を拡大する最中、エンヴェル・パシャはカフカースへの非現実的な夢に浸っていった。
ここでカフカースの情勢を見てみよう。カフカースとは黒海とカスピ海に挟まれた地域であり、その大部分はロシア帝国領である。そしてその中央を東西に走る大カフカース山脈の南側が本稿の重要な舞台となる「ザカフカース」(註1)である。ザカフカースに住む大民族はアゼルバイジャン・アルメニア・グルジアの3つがあるが、その中でトルコ系なのがアゼルバイジャン人である。この民族は本来イランの支配下に置かれてきたが、1827〜28年のロシア・イラン戦争によってロシアに併合され、カフカース総督府の支配を受けるに至っていた。1911年、トルコ化・イスラム化・近代化を綱領に掲げるアゼルバイジャン民族政党「ムサヴァト」が結成され、第一次世界大戦に際してはロシア支持を表明し、17年2月、ペトログラード(ロシアの首都)で「二月革命」が勃発するとやはりこれを支持した。それとは別に、(アゼルバイジャンの)カスピ海沿岸の油田都市バクーでは労働者の支持を競ってボリシェヴィキ(註2)、メンシェヴィキ(註3)等の勢力が分立しており、「十月革命」にてボリシェヴィキが首都の権力を握ると、バクーにおいてもボリシェヴィキと守備隊代表その他がいわゆる「バクー・ソヴィエト(註4)」による権力掌握を宣言した。
註1 「外カフカース」「トランス・コーカシア」ともいう。
註2 レーニンが率いる。「共産党」の前身。少数精鋭の革命家集団が労働者(プロレタリア)と農民を指導することによって来るべき社会主義社会の建設を目指そうとする。「封建制(国王や皇帝の支配)→ブルジョア革命(ブルジョア主体)→資本主義(ブルジョアの支配)→プロレタリア革命(プロレタリア主体)→社会主義(プロレタリアの支配)」との段階発展論にもとづき現在のロシアを封建制社会ととらえ、ロシア革命を「ブルジョア革命」と定義するが、その主体をブルジョア(資本家)ではなく労働者と農民に求めるところに大きな特色を持つ。詳しくは当HP掲載の「ロシア革命」を参照のこと。
註3 「ブルジョア革命」たるロシア革命の主体はあくまで資本家(ブルジョア)であるとする政党。この政党そのものは労働者主体だが、ブルジョア革命においては労働者はブルジョアを横から助けるだけでよいと考える。
註4 「ソヴィエト」とは「評議会」の意。ブルジョアを除外した労働者・兵士(あるいは農民)のみの代表機関。これが政権を担当すべきというのがボリシェヴィキの政策である。
ところが、バクー・ソヴィエトの支配権は近代都市バクーに限られており、特にアゼルバイジャン人の農民たちは労働者主体のバクー・ソヴィエトに懐疑的であった。20世紀の初頭に世界の石油の半分を産出したというバクーはここ数十年で急激な成長を遂げた都市であり、その人口構成は地元のアゼルバイジャン人だけでなく、ほぼ同数のアルメニア人、それより多いロシア人、さらにはイランからの出稼ぎ人といった多数の民族によって成り立っていた。各民族の利害をまとめるのは容易であるはずがなく、名目的にはバクー・ソヴィエトに所属するアゼルバイジャン人部隊「野蛮師団」の動向が注目されていた。
その一方で、グルジアのチフリスではメンシェヴィキの勢力が支配的であり、11月15日にボリシェヴィキを退ける形で「ザカフカース委員部」を設立し、ザカフカース全域の権力を握るとの宣言を行っていた。これは前述のアゼルバイジャン民族政党「ムサヴァト」や、同じくアルメニア民族政党「ダシナクツチュン」の代表をも含むものであり、英仏米の支持を受けて、ボリシェヴィキ主体のバクー・ソヴィエトと対立するに至った。しかし、アゼルバイジャンは親オスマン、アルメニアは反オスマンで親ロシアといった具合に意見の相違は常に存在した。(念のために書いておくと、グルジアもアルメニアもアゼルバイジャンもあるいはザカフカース全域もこの時点ではまだロシア領の一部であり、独立宣言はなされていない。ただロシア中央から遠隔のため、十月革命で権力を握ったボリシェヴィキの権威が徹底されていないのである)
18年3月3日、ロシア政府(十月革命後に成立したボリシェヴィキ主導の臨時労農政府のこと。以後、「革命ロシア」と記す)がドイツ・オスマン帝国と「ブレスト・リトフスク条約」を結んで戦争を終結させた(註5)が、その際に、ザカフカース委員部に何の相談もないまま、オスマン国境地帯(アルメニア等)のバトゥーム・カルス・アルガタンのオスマン帝国への割譲を認めてしまった。これらの地域は1878年までオスマン領だったのである。
註5 革命ロシアはそれまでドイツ軍に攻められて苦境に立っていたのである。ドイツとオスマン帝国に譲らされた国土は極めて広大なものであった。
これはオスマン帝国にとっては棚からぼた餅であるが、ザカフカース委員部には承服しがたい話であった。バトゥームには割譲を認めない代表部の部隊が陣地を構えたが、勢いにのって進撃してきたオスマン軍の敵ではなかった。アルメニア人はカルスの死守を誓ったものの、アゼルバイジャンはロシアから独立した上でオスマン帝国と独自の条約を結ぶと表明し、オスマン軍との戦いに耐えられなくなったグルジアもそれに賛同した(悲劇のアルメニア)。結局、ザカフカース委員部はザカフカース全域を独自の主権を持つ「ザカフカース民主連邦共和国」として独立させることを決定した。そうするとオスマン軍は「状況がかわりブレスト条約を基礎にすることは出来ない」としてブレスト条約で決められたラインよりもさらに奥地への進撃を続行した。
オスマン帝国としては本当は、混迷を極めるカフカースなど放っておいて、イギリス・アラブ軍が北上してくるシリア・イラク戦線に全力を投入すべきであった。また、英仏その他軍が反抗の準備を整えているバルカン戦線(註6)の守りも全く手薄なものであった。エンヴェルはこれらの情勢を無視し、観念的な「汎トルコ主義」の実現だけのために戦略的に無意味なカフカース攻略作戦を練っていた。
註6 17年7月にギリシアが連合国側に立って参戦しており、連合国はギリシア領のテッサロニキ(サロニカ)を起点としてのブルガリアへの大攻勢を企図していた。
だが、オスマン軍があまりカフカースに深入りすることはドイツの意志にも反していた。ドイツは前々からグルジアに野心を抱いており、オスマン帝国がそちらの権益を独占することに否定的であった。オスマン軍の攻撃にさらされたザカフカース民主連邦共和国の中のグルジア人たちは、グルジアを連邦共和国から脱退させるという形でドイツと協定し、そちらの仲介でオスマン帝国との講和を実現した。ドイツの介入はエンヴェルを怒らせ、ドイツ軍の進駐してきたグルジアを「敵の支配地」と呼ぶ程となったが、アゼルバイジャンはもともと親オスマンであることから問題なく、疲弊しきったアルメニアに強圧的な要求を全部飲ませることも容易い話であった。
その間、バクー・ソヴィエトは陸の孤島と化しながらも存続を続けていた。3月30日、アゼルバイジャン人の「野蛮師団」が反乱を起こし、これは鎮圧されたものの双方あわせて約3000の死者が出た。この際、ソヴィエトに属するアルメニア人部隊がアゼルバイジャン人非戦闘員多数を虐殺した。野蛮師団の残党はオスマン軍を頼った。
9月14日、オスマン軍がバクーへと進撃し、ソヴィエト側部隊を撃破した。15日にバクーに入城したオスマン軍及びアゼルバイジャン人部隊は先の野蛮師団反乱鎮圧の際の報復としてアルメニア人多数を虐殺した。アゼルバイジャン人は、同じイスラム教徒であるオスマン軍が、キリスト教徒であるロシア人やアルメニア人を追い出したことを喜び、エンヴェルなどはその写真がプロマイドとして売り物になる程の人気を博していたという(納得しなかった男)。バクーに乗り込んだオスマン軍の指揮官ヌリ・パシャはエンヴェルの弟、それを統轄する東部軍集団司令官ハリル・パシャは叔父にあたる人物であった。第一次世界大戦におけるオスマン軍最高の快進撃であった。
その半月後の9月30日、バルカン戦線で(オスマン帝国の同盟国の)ブルガリアが降伏した。戦争継続をドイツの援助に頼ってきたオスマン帝国にとって、両国の連絡路にあたるブルガリアの脱落は破滅を意味していた(註7)。その翌日にはシリア戦線にて、イギリス・アラブ軍が要地ダマスカスを占領した。こちらでは1ヵ月ほど前に病気療養もほどほどに呼び戻されたムスタファ・ケマルが反撃の準備を整えていたが、もはや手遅れであった。
註7 ドイツにとっても、オスマン帝国産の穀物が得られなくなるのは致命的。
10月8日、大宰相タラートが辞職し、14日にはそもそも大戦参加に反対だったイッズェト・パシャが組閣を行った。10月30日、オスマン帝国は連合国との休戦協定に調印した。オスマン帝国の第一次世界大戦は終結した。