後編その1

   

   エンヴェル亡命   目次に戻る

 「もはや祖国のために有益な仕事をイスタンブールで果たす可能性がなくなったので、アゼルバイジャン・イスラム政府(オスマン帝国が樹立していた傀儡政権)のために働くべくカフカースに行こうと思う」。以上の置き手紙を残し、エンヴェル・パシャは姿を消した。まだ38歳、人生を投げ出すには早すぎる歳であった。

 エンヴェルとその同志たちを乗せたドイツ艦はイスタンブールから黒海北岸のクリミア半島へと針路を定めた。ドイツが降伏したのは11月11日だが、「ブレスト・リトフスク講和」によってドイツに割譲されていたウクライナやクリミア半島から撤退するにはまだしばらくの時間を必要としていた。クリミアのエウパトリアについたエンヴェルはここから1人でカフカースを目指すこととし、他の亡命者は鉄道でベルリンへと旅立っていった。

 エンヴェルは小船を雇って再び黒海へと乗り出した。ところがこの船は暴風雨にあってクリミアに吹き返され、やむなくエンヴェルはベルリンの亡命者を頼ることにした。「青年トルコ党」でエンヴェルとともに「三巨頭」をつとめたタラートはすでにベルリンに居を構えており、ドイツ政府は(降伏した後も)連合国による青年トルコ戦犯の引き渡し要求をはねつけ続けていた。連合国はエンヴェルにアルメニア人虐殺・アラブ人への拷問・イギリス捕虜殺害などの容疑をかけ、血眼の捜査を続けていた。

   

   ケマル・パシャの蹶起

 11月13日、イギリス・フランス・イタリア連合艦隊55隻がイスタンブールに入港した。連合国はアナトリア各地の都市に進駐した。諸国はこれを機会にオスマン帝国を分割する野心を抱いており、大国ではないが隣国のギリシアもアナトリアに古くから住むギリシア系住民を自国の統治下に置こうと策謀していた。現在(2003年)では完全なトルコ領(トルコ人しか住んでいない)となっているアナトリアのエーゲ海沿岸部や黒海沿岸東部、内陸部のカッパドキアにはこの頃までは多くのギリシア系住民が生活していたのである。

 19年5月15日、ギリシア軍がアナトリア西部のイズミル(スミルナ)に上陸し、その後背地一帯を占領した。イズミルは当時のオスマン帝国の第2の都市であり、エーゲ海最大の貿易港でもあった。ギリシア軍はトルコ人(この語の意味は既に論じた)との衝突を繰り返してその怒りを買った。敗戦のトルコ人は諸国軍の横暴に反発する形で次第に戦意を取り戻していった。特にトルコ人を怒らせたのはギリシア軍の進駐である。もともとギリシア人はオスマン帝国の臣民の1つにすぎなかったのだし、今回の第一次世界大戦に際しても実はたいした働きをしていない(註1)のである(ケマル・パシャ伝)。

 註1 第一次世界大戦におけるギリシアの動向については当HP掲載の「ギリシア近現代史」を参照のこと。

 ギリシア軍上陸の翌日、数人の同志とともにイスタンブールを出立した男がいた。「ゲリボルの英雄」ムスタファ・ケマルその人である。彼は肩書きの上ではアナトリア駐留の第9軍の監察官という新しい任務を帯びていた。青年トルコ三巨頭のいなくなったイスタンブールでは反「青年トルコ」派が実権を握り、とにかくスルタンとその政府を守ることだけを願っていた。スルタンはケマルの皇室に対する忠誠を信じていた(トルコ近現代史)が、しかしアナトリアに到着したケマルは連合国軍の進駐に反対する集会を開催し、その一方で国民の声を国際世論に訴えるための国民会議を開くべしとの「アマスィヤ宣言」を行った。連合国がイスタンブール政府にケマルを召還することを強要すると、ケマルは逆に任務と軍籍を放棄し、「トルコ領土の保全」を訴える「エルズルム会議」を主宰した。この会議には15州の代表が参加しており、連合国に頭のあがらないイスタンブール政府が差し向けてきた討伐軍を撃退して気勢をあげた。ケマルはギリシア軍を中心とする連合国と、イスタンブールのオスマン帝国政府の双方を敵として戦うことになった。

 だが、ケマルはイスタンブールを離れた時点ですでにオスマン帝国と決別する決意を固めていた。本稿ですでに論じたように、「オスマン帝国」は決して「トルコ人の国家」ではなかった。「トルコはかつてのギリシアやブルガリア同様、オスマン帝国の囚人だった(灰色の狼ムスタファ・ケマル)」のである。これまで帝国諸民族の1つでしかなかったトルコ人もまた「トルコ人のみの民族国家」を建設することによって西欧とならぶ近代国家を建設すべきである。そのためにはまず、アナトリア各地に駐留する諸外国の軍隊を追い払う必要がある。アナトリアこそは11世紀のトルコ民族の英雄エルトールルが初めて外国の支配を受けない自分たちだけの国を築き、配下のトルコ人たちに「ここにお前たちの家を建てよ」と告げた民族揺籃の地なのである(前掲書)。アナトリアはトルコ民族固有の領土である(註2)。「非トルコ人地域の民族自決は認めるが、(その際の)非トルコ人地域の獲得は許されない」。ケマルがアナトリアのサムスンに上陸した1919年5月19日は、現在のトルコ共和国の国祭日として祝われている。

 註2 本当は、アナトリアの各地にはトルコ人が入ってくるより前からギリシア人が住んでおり、この時も100万人くらい住んでいた。この時点のケマルがそれについてどう思っていたのかは資料不足で分からなかった。

   

   モスクワへ   目次に戻る

 

 19年夏、エンヴェルとタラートはベルリンのモアービト刑務所を訪問し、収監中のカール・ラデックなる人物と面会した。ラデックはドイツ共産党の創設に重要な役割を果たし、その後のスパルタクス団の蜂起の際に逮捕されたというポーランド系のユダヤ人であった。そんな政治犯と亡命トルコ人が何故面会出来たのか?

 その裏には実はドイツ軍部の思惑が働いていた。敗戦後のドイツは国内の共産主義運動を弾圧しつつも英仏に対抗するための革命ロシアとの連携を画策しており、革命ロシアの方は諸国の干渉戦争(註1)の真只中にあってカフカースのイスラム教徒を味方につけようと躍起になっていた。この両者のパイプ役として選ばれたのがエンヴェル・パシャだったのである(納得しなかった男)。

 註1  革命ロシアと、国内の反革命勢力・それを支援する外国軍との間に戦われた「国内戦」についてはいずれこのHPにも掲載予定。(あくまで予定)

 エンヴェルは飛行機を使ってロシアに行こうとした。ドイツとロシアの間にあるポーランドを通る許可が下りなかったためだが、これがとんでもない冒険になった。

 最初に乗った飛行機はドイツ領を出る前に墜落、2度目はリトアニア領に不時着し、不審人物として刑務所に収監される羽目になった。面白いのはここである。エンヴェルは刑務所長と仲良くなり、塀の外を散歩する特権まで得たというのである。それだけでも小説じみているが、さらにその所長のメイドが実はドイツの諜報員で、彼女の連絡で飛んできた飛行機が散歩中のエンヴェルを拾い上げてドイツに連れ帰ったという。全く嘘のような実話である。

 3度目の飛行機は離陸して10分後に墜落、4度目もまた墜落した。それでも懲りないエンヴェル・パシャ。まるで鑑真である。5度目は、墜落こそしなかったものの今度はラトヴィア領に強制着陸させられた。エンヴェルは3ヵ月間拘留された後、おそらくドイツの工作によって釈放され、またベルリンに戻ってきた。

 20年8月、今度は東プロイセンからリトアニアを通るルートを選んで汽車に乗り込んだ。去る4月、というからエンヴェルがラトヴィアに勾留されている最中、革命ロシアとポーランドが戦争をおこし、8月上旬の時点では、リトアニアと国境を接する部分のポーランド領は革命ロシアの「赤軍」の占領下に置かれていた。エンヴェルは東プロイセン・リトアニア国境を偽のパスポートで通り過ぎ、後は比較的簡単に赤軍占領地に入ることが出来たのだった。

   

   セーヴル条約   目次に戻る

 この間、ケマルは着実にその勢力を拡大しつつあった。19年10月にイスタンブールで成立したアリー・ルザー内閣は総選挙にケマル派を参加させるという形での妥協案を提示した。イスタンブール政府の思惑はケマル派を少数派として懐に取り込むというところにあったのだが……しかし12月に行われた総選挙の結果はケマル派の大勝であった。ケマル派を多数派とする新国会は国土の統一と民族の独立を求める「国民誓約」を採択した。

 驚いた連合国(特にイギリス)は「スルタンの権威強化」を口実としてイスタンブールを占領した(イギリス軍はアナトリアからはほぼ撤退していたが、この作戦では主力をつとめた)。ここで国会のケマル派議員が逮捕・追放されると、ケマルは報復としてアナトリアのイギリス将校を拘束、全世界のイスラム教徒に対し連合国へのジハード(聖戦)を訴えた。連合国の傀儡という程に落ちぶれたイスタンブール政府はケマル派を「叛徒」と断じ、イギリスの武器援助のもとに「カリフ擁護軍(註1)」を編成した。

 註1 「カリフ」とはイスラム教世界の宗教指導者のこと。オスマン帝国では代々のスルタンがカリフを兼任する「スルタン-カリフ制」をとっていた。

 20年4月23日、アナトリア内陸部のアンカラに拠点を移したケマルはここで「トルコ大国民議会」を招集、その議長に就任した。5月23日には内閣も成立した。これを「アンカラ政府」と記すとこにする。しかしイスタンブールの「カリフ擁護軍」とそれに同調する反乱軍がアナトリア各地に猖獗し、6〜7月にはスミルナ(イズミル)のギリシア軍がさらに奥地への進撃を開始した。ギリシア軍、さらにフランス軍・イタリア軍に対し各地のパルチザン(ゲリラ)が激しく抵抗したが、ケマルはまずバラバラに行動しているパルチザンをに自分の指揮下にまとめる必要に迫られた。パルチザンの無政府的な行動やアンカラ政府の徴発が農民を苦しめるというどうしようもない場面もあった(中東現代史?)。特に問題なのはカリフ擁護軍で、カリフ(=スルタン)に「神の敵」のレッテルを貼られてしまったのではアンカラ政府の要人たちの腰もひけるというものである。東進してくるギリシア軍とそれを迎え撃つトルコ人パルチザンの戦いに際し、発足したばかりのアンカラ政府は各地のパルチザンに声援を贈る以上のことは出来なかった。

 8月、イスタンブール政府が連合国によって提示された「セーヴル条約」に調印した。ここで示されたオスマン帝国領は大戦勃発前どころか現在のトルコ共和国と比べても微々たるものであった。シリア・パレスチナ・アラビア半島を手放すのはまだ我慢出来るとしても、アナトリアの3分の2、イスタンブール周辺を除くヨーロッパ領までがことごとく連合国によって分割されるというのである。この亡国的な条約を認めたスルタン(=カリフ)メフメット6世への信望は一挙に失われた。

 国家滅亡の危機に際し、愛国的なトルコ人の支持はその多くがアンカラ政府のもとに集まった。「カリフ擁護軍」からアンカラ政府に寝返る部隊が続出した。イスタンブール政府の失策のおかげで自分の権威を高めることが出来たケマルがさらに考えた政策は、革命ロシアに支援を訴えることであった。ところが、これがなかなか厄介な問題だった。アナトリアと旧ロシア帝国領の中間にあるアルメニアは「セーヴル条約」によって独立を認められていたが、これをどう扱うかでアンカラ政府と革命ロシアとの激しい論争が起こっていたのである。

   

   ジェマル・パシャの動向   目次に戻る

 エンヴェルがロシアに入ろうとあれこれ尽くしている間に、同じ「青年トルコ三巨頭」の1人(海軍大臣)で、やはりドイツのミュンヘンに亡命していたジェマル・パシャが別ルートでモスクワに到着していた。ジェマルはボリシェヴィキに対し、自分とアンカラ政府との緊密な繋がりを誇示することによって己の政治力を保持しようと考え、実際にケマルに委任状を送るよう頼んだりした。しかしケマルにとってはジェマルの存在は邪魔物以外の何者でもなかった。ジェマルなどにうっかり委任状を与えて、アルメニア問題に関するボリシェヴィキ側への譲歩を勝手に約束されたら困るのだ。実際にジェマルは、アルメニア問題に関するボリシェヴィキ側の要求をそのままケマルに伝えるようなことをやっていた。ジェマルはアフガニスタン国王アマヌッラーの招聘を受け、そちらの軍の近代化を指導すべく旅立っていった。

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