後編その2

   

   東方諸民族大会   目次に戻る

 20年8月14日、エンヴェルがモスクワに到着した。イスラム世界の有名政治家の到着を受けて、ロシア各地に住むイスラム教徒が引きもきらずに歓迎に押しかけ、宿舎として提供された「砂糖宮」はボリシェヴィキが重要人物の接待に用いる豪勢な建物であった(ただし、御飯の肉は悪臭を放っていたという。逼迫した食糧事情のためである)。25日に開かれた歓迎式典にはトルコ人やタタール人やペルシア人が列席し、それぞれの言葉で「インターナショナル」を合唱した。もちろん、チチェーリンやブハーリンといったボリシェヴィキの幹部たちと対談するのも忘れなかった。エンヴェルがまず考えたのは、今現在ギリシアその他軍と戦っているアンカラ政府にボリシェヴィキから武器援助を引き出してやるというものであった。

 しかしボリシェヴィキの方も革命後の国内戦の真っ最中なのでアナトリアに送るほどの武器の余裕がなく、かわりにドイツから武器を買うことにしたが、その資金源は外国為替の闇相場を利用して稼ぎ出したもの(納得しなかった男)であり、それで手に入れた大量の物資をいかにしてアナトリアに持ち込むかがまた大問題であった。調達した物資は一旦ロシア領に集めてそこからアナトリアに送り込む手筈がとられたが、アンカラ政府も革命ロシアも戦争中とあっては、一体どれくらいの武器がアンカラ政府の手に渡ったのかも判然としないまま現在に至っている。

 と、かような工作を進めつつ、エンヴェルはモスクワに着いてから2週間後の8月27日にアゼルバイジャンのバクーを訪問すべく汽車に乗り組んだ。

 アゼルバイジャンは第一次世界大戦が終了した後しばらくイギリス軍の援助によるムサヴァト(アゼルバイジャン民族政党)政府が成立していたが、20年4月には装甲列車を先頭に押し立てたボリシェヴィキ部隊約8万人がロシアから南下してきて政権を覆し、力づくでソヴィエト政府を確立させていた。

 そしてこの年9月1〜8日にアゼルバイジャンのバクー市にて「東方諸民族大会」が開催されることとなった。そこで、カフカースから中央アジアにかけてのイスラム諸民族を「反帝国主義」に結集するに際し、トルコ系のイスラム教徒に強い影響力を持つエンヴェルの登場がまたとない効果をもたらすと期待されたのである。しかしながら、エンヴェルに対してはアルメニア人やグルジア人の反発が激しく、特にアルメニア人のエンヴェルへの恨みは激烈なものがあった。大戦中の「アルメニア人虐殺」の責任者はエンヴェル以外の誰でもないのである。

 という訳でエンヴェルは大会期間中に壇上に立つことが出来ず、演説の原稿を別人に読ませるという妥協を強いられた。その内容は以下のとおりである。

 「大戦においてドイツに味方したのは、イギリスの目的がオスマン帝国の絶滅にあったのに対して、ドイツは少なくとも我々の存在を許すことに同意していたからである」「我々が相携えて戦争を行ったドイツ人たちの中に帝国主義者の思考があったことを遺憾に思う。そして、ドイツ帝国主義とその帝国主義者たちに対しても、イギリス帝国主義とその帝国主義者たちと同じように敵視しているのだ。私の考えでは、労働せずに人々の懐から裕福になることを考える特権者たちは、いずれも絶滅されるにふさわしい。これこそ、帝国主義に関する私の考えである」「もし現在のロシア(ボリシェヴィキ統治下のロシア)がその当時に存在しており、今日の目的をもって戦っていたとすれば、疑いもなく我々が現在行っているように、我々が実例で示している献身によって、ロシアに味方していたであろう」。

   

   アルメニア問題   目次に戻る

 結局、エンヴェルは会場に姿を見せなかった。そもそも彼は共産主義者でもなんでもなく、ボリシェヴィキの力を借りて本国に凱旋することを夢見ていただけであった。

 とはいっても本国ではムスタファ・ケマルの権勢が高まりつつあった。エンヴェルは本国の軍内部にいる昔の部下たちと連絡をとり、特にアナトリア北東部のトラブゾン港に根強く残る旧「青年トルコ」勢力をまとめるために叔父のハリル・パシャを送り込むことにした。ところがハリルはアンカラ政府の国外退去令を受けて2ヵ月後には追い出されてしまった(21年5月)。エンヴェルはケマルに対し「自分は地位や役職への未練はない」「(自分が帰国しても)祖国に党派対立をもたらすつもりはない」と訴えたが、ケマルは一切聞く耳を持たなかった。アンカラに潜入したエンヴェルの部下ナイールも、「ムスタファ・ケマルは尊敬に値します。あなた(エンヴェル)が周囲の雑音に惑わされないように願っています。アナトリアは、我々が出発(逃亡)した時と変わりました。ムスタファ・ケマルから利益を引き出せない者があなたにいろいろふきこんで、一刻も早い帰国を希望しているだけなのです」と報告してきた。今エンヴェルが帰国すればそれはケマルの政敵が喜ばせるだけであり、ケマルが失脚するようなことになればトルコ(ここではアンカラ政府のこと)は破滅となりかねない。少なくともケマル本人はそう考え、現実にトルコの情勢はいまだ危機的なものがあった。ケマルの決意は堅く、(これはここで吐いた台詞ではないが)「ここで諸君は覚悟を決め、諸君に指導者を与えるべきだ。成功にはただ1つのことが不可欠だ。すなわち、運命を指導し、それを勝利に導くには、諸君の上に1人の男を、それもただ1人を置かなければならない」「私が常に諸君の軍事上の長ならば、私の命令には盲従してほしい」とまで言い切っていたのである(灰色の狼ムスタファ・ケマル)。

 ケマルの第一歩は成功した。セーヴル条約で独立が認められたアルメニアには民族政党ダシナクによる政権が誕生していたが、アンカラ政府はこの新国家に軍隊を送って多くの領土を奪ったのである。もちろんケマルは前もって革命ロシアに話をつけていた。この度アンカラ政府の軍勢が占領した地域はトルコ固有の領土であり、「わが国にはアルメニア人はいないし、アルメニアと称することの出来るような国もない。トルコに住んでいた彼等は、虐殺・殺戮を重ね、そのあげくイラン・アメリカ・ヨーロッパに逃げ出した」というのがケマル側の言い分であった(悲劇のアルメニア)。アルメニアの残りの領土にはソヴィエト政権が樹立された。これでお互いに満足したアンカラ政府と革命ロシアは3月16日をもって正式の友好和親条約を締結した。歴史的名言「両国は力によって押し付けられた条約を認めない」の「条約」とはこの場合はセーヴル条約のことだが、これにはそのセーヴル条約で認められたアルメニアの独立も否認するとの意味も込められていたのである。ところが、そうやって革命ロシアとの友情を確立しつつも、ケマル本人は断固たる反共産主義者であった。ギリシアその他軍と戦うパルチザンの中には共産主義を掲げる「緑軍」という組織が存在したが、ケマルはこれが必要以上に大きくなるとただちに弾圧し、かわりにアンカラ政府傀儡の「公式」共産党を組織した。革命ロシアとの友情は武器援助とアルメニアの確保だけが目当てであった。

 西欧諸国との外交がまた巧妙を極めていた。「セーヴル条約」は連合諸国の欲望を完全に満たすものではなく、特に大きな利益を獲得したイギリス・ギリシアに対するイタリア・フランスの不満は相当のものがあった。そこにケマルの付け入る隙があった。アナトリアに駐留するイタリア軍もフランス軍もパルチザンとの戦いで疲弊しており、ケマルが話し合いを求めるとすぐこれに飛びついてきた。ケマルはまずイタリアにアナトリアにおける経済利権を与えるかわりにアンカラ政府への援助を約束させ、フランスに対しても同様の手をうった。イギリスは第一次世界大戦の疲れと国内世論から強硬な態度がとれず、かくしてケマルの敵は実質的にギリシア一国に絞り込まれた。

 いや、正確にいうと、世界大戦で疲弊した諸国はアナトリアに構っている余裕がなく、一番切実にアナトリアを欲しがっているギリシアだけが突出していたのである。ギリシアから見れば、(前述した通り)アナトリアの西部には古くから大勢のギリシア人が居住しており、長い間オスマン帝国の支配下に置かれてきた彼の地を奪い取るチャンスは今しかない。しかも、遠い本国や他の植民地から遠征軍を送ってくる必要のあるイギリスその他と違い、ギリシアはアナトリアのすぐ隣に位置しているのである。

 その一方のアンカラ政府は前述の「緑軍」を弾圧した後も各地のパルチザンを「正規軍」に統合する懸命の努力を続け、21年1月には臨時憲法も制定した。その年2月、連合国はイスタンブールとアンカラの両政府をロンドンに招いて「セーヴル条約」の若干の修正を示したが、この会議はアンカラ政府が「連合軍(実質的にはギリシア軍)のアナトリアからの完全撤退」を唱えて譲らなかったことから何の進展もないまま決裂した。

   

   ギリシア軍進撃   目次に戻る

 21年3月15日、ベルリンにいた元オスマン帝国大宰相タラート・パシャがアルメニア人の刺客に暗殺された。アルメニアが革命ロシアとアンカラ政府によって分割された後、望みを失ったアルメニア人の一部過激派が、大戦中のアルメニア人虐殺の責任者の命を求めて世界中に散っていたのである。タラートとエンヴェルはともに「青年トルコ三巨頭」に数えられ、亡命後も緊密な連絡を取り合っていた。しかしエンヴェルが亡命活動への援助をロシアのボリシェヴィキに託していたのに対し、タラートの方はドイツに大きな期待をかけていたこと等から両者の関係は必ずしも良好ではなかった。エンヴェルがタラートの死を喜んだとまでは言わないが、しかし自由な行動がしやすくなったのは事実であった(納得しなかった男)。

 3月下旬以降、ヨーロッパ各地のトルコ人亡命者はエンヴェルの母国への帰還を声高に要求し始めた。この頃アナトリアではギリシア軍4個師団が険しい山岳地帯を越えて交通の要地エスキシェヒルにまで迫っており、かような対外危機と国内の無秩序を回復出来るのはエンヴェル・パシャしかいないというのである。オスマン帝国は大戦中に(ギリシアが敵国となったので)アナトリアのギリシア系住民を厳しく迫害していたが、今度はギリシア軍がトルコ人に対し見境いのない暴虐を働いた。

 トルコ軍(アンカラ政府の軍隊)は3月30日の「イノニュの会戦」で一旦はギリシア軍を退けた。しかしギリシア軍は錬度や体格の低い兵員まで総動員して増強につとめ、7月以降は再び攻勢に転じてきた。その兵力は9万6000、イギリスの援助のおかげで大砲も飛行機も自動車も充分に揃っている。武器も兵数もはるかに劣るトルコ軍は次々と陣地を捨てて後退し、7月17日にはキュタヒヤが、その2日後にはエスキシェヒルが攻め落とされた。トルコ軍は200?もの後退を強いられた。エンヴェルはこの危機から祖国を救うという名目でケマルから軍の主導権を奪う時のために陸軍大将の制服と軍刀を用意していたが、それは妄想でもなんでもなく、当時イスタンブールにいた日本の内田定鎚公使も、イギリス陸軍総指令部もケマルの失脚とエンヴェルの復帰を予測していたといい、前線での苦戦を受けたアンカラ政府の中枢でもエンヴェルに戻ってきてもらおうとの意見が出始めていた(納得しなかった男)。ギリシアからは国王コンスタンディノスまでがアナトリアに出御してきて部隊を激励していた。

   

   バツームのエンヴェル   目次に戻る

 8月9日、エンヴェルは本国に戻る本格的な準備を整えるべくトルコ・グルジア国境に近い港町バツームを訪れた。これはもちろんボリシェヴィキの許可を得たものであった。革命ロシアはこの機とエンヴェルを利用してアナトリアにおけるボリシェヴィキ革命を扇動すべきであるとの明確な判断を下したのである(前掲書)。エンヴェル本人も「我々は、バツームに滞在して、祖国の状況を間近からつぶさに見つめようと思う。もし祖国が防衛し続けられる場合には、特に利益があるとも思えないので入国をあきらめる。それとは反対に、もし軍がきたる事態において敗北し、祖国を助ける必要が生じるなら、我々は入国することになるであろう」と語っていた。

 とはいっても、バツームでのエンヴェルはアルメニア人の刺客から逃れるために粗末な客車に寝泊まりしなければならなかった。段取りが悪かったのかどうなのか、エンヴェルの側に従うのは1人だけで、同じくバツームに滞在する叔父のハリルの豪邸を借りることすら出来なかったのである。熱気と蚊の大群が充満する壊れた客車の中で、エンヴェルは母国に帰還する手筈と、ケマルにとってかわっての新政権樹立のシナリオを練りつづけた。

   

   サカリア川の会戦   目次に戻る

 エンヴェルの境遇は惨めであったが、しかしケマルの方は極度の警戒態勢をとっていた。エンヴェルがアナトリアに入るべく策謀しているとの情報はアンカラにも早い段階でもたらされていた。ケマルはかつてエンヴェルの部下だった軍人たちの更迭をはかるとともに、エンヴェルがもし国境を越えてアナトリアに進入すれば即座にその身柄を拘束すべきことを命令した。

 さらに(それまで後方から戦線を監督していた)ケマルは前線にて思う存分の直接指揮をとる資格を得るためにアンカラの大国民議会の議場に立ち(8月5日)、「トルコは滅亡の危機に立たされている! 今は演説の時ではなく、行動の時である! 私は独裁権とあわせて、総司令官に任命されることを要求する」との声明を行った。議場からはケマルに反発する声も聞かれたが、「私は全権を委嘱されることをお願いするといっているのではない。それを要求し、必要としているのだ」「諸君が拒否されても、私は行動するだろう」「私の選択は既になされているし、私の兵士たちも、それに賛成してくれるだろう」との、ほとんど脅迫的(脅迫そのもの?)な言辞によってケマルの要求が押し通された(灰色の狼ムスタファ・ケマル)。

 そして、エンヴェルがバツームに到着したその当日(8月9日)、アンカラ政府は新たに「国民税」を導入した。各家庭に穀物・被服・寝具から靴下までの供出を求め、商人や民衆の手にある「商品」の40%が代金後払いで買い上げられ、職人たち全員を軍需品生産要員として登録するとのものである。しかも、それらの物資を苦戦する前線まで送る輸送手段をアンカラ政府が持たないため、民衆みずからが(無償で)荷車をひいて届けること、でなければ厳罰に処されることまで決められた。

 ケマルの作戦はただ一点に注がれていた。つまり、ギリシア軍の補給路が伸び切った所で徹底的な反撃を行う、それしかないのである。7月以降、アンカラとイスタンブールをつなぐ最重要鉄道連絡点エスキシュヒルも含めて東西200?もの国土をギリシア軍に明け渡して退却したのはそのためである。エスキシュヒルを放棄する際、ケマルは「全線から転進する命令をだせ、サカリア川まで200?後退せよ、そこでアンカラを包む新陣地を構築するのだ。そうなれば敵の補給線は伸び、それだけ我々の方は短縮される。その上、我々は兵力を建て直すに必要な時間が稼げるというものだ」と語っていた。

 そして、反撃の好機は8月23日に始まった「サカリア川の会戦」にて訪れた。サカリア川は700年前のトルコ民族の英雄エルトールルが配下のトルコ兵たちに「ここにお前たちの故郷をつくれ」と命じた民族ゆかりの土地であり、現在のアンカラ政府を守る最後の防衛線であった。ギリシア軍8万9000に対してトルコ軍は4万5000、トルコ軍の師団長が7人も戦死する(ギリシア軍の師団長も13人戦死)という激戦において、ケマルは前線のすぐ近くのアラゴス村に総司令部を置いて作戦を指導した。「確保するのは防御線ではなく防御面だ。そしてその面とは国土全体のことだ」。ギリシア軍が大砲を撃ちまくっている間はトルコ軍はじっと陣地に籠ってやり過ごし、相手の息が切れたことろで白兵突撃にうって出る。そんな死にものぐるいの戦いが丸々2週間、重要な陣地を1つも奪えないギリシア軍に焦りが生じてきた。9月7日、ギリシア軍はトルコ軍の右翼に攻撃を集中していたが、ケマルは自軍左翼をもってギリシア軍右翼に攻勢をかけた。それを見たギリシア軍が慌てて部隊の配置替えにかかったことが大混乱につながった。配置替えを全面撤退と誤解した部隊が無断で後退し、そのまま全部隊が本当に退却する羽目に陥ったのである。「ギリシア軍の攻撃力は弱まり、戦機を逸しつつあり。我が軍はこの機に乗じて主導権を回復せんとす」。もっとも激戦で疲れきったトルコ軍にはこれ以上の追撃戦は不可能であり、ギリシア軍は総崩れに陥ることもなく西方へと後退していった。

 しかし、少なくとも最大の危機は乗り越えた。アンカラの大国民会議から「ガーズィー(信仰戦士)」の称号を受けたムスタファ・ケマルの威信はもはや完全に揺るぎのないものとなった。イタリアは既にアナトリアから完全撤退しており、フランスもサカリア戦を見た後そそくさと秘密協定に調印した上でアンカラ政府に武器を売って撤収した。まだアナトリア西部に退却したギリシア軍が健在ではあるが、トルコの最終的勝利はもはや誰が見ても確実なものとなったのである。

 こうなるとエンヴェルの出る幕は全くない。バグダードのイギリス高等弁務官は本国に次のように申し送った(納得しなかった男)。「武勲赫々たる戦略と壮大な戦術によって、ムスタファ・ケマルはギリシア軍の攻勢を粉砕した。そこで、我々としては、今のところケマルがエンヴェルの影を完全に薄くしたと考えてもよい」。革命ロシアもケマルとの友好関係を保つことの方が得策だと考えるようになり、エンヴェルに対する風当たりは急に冷たいものになってしまった。意気消沈したエンヴェルはバツームを引き払い、新しい活動舞台をもっと別の土地に求めることにした。

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