中央アジアの「西トルキスタン」は現在のウズベキスタン、トルクメンニスタン、クルグス、タジキスタンの各共和国にほぼ相当し、北はカザフ草原、南はイラン・アフガニスタン、西はカスピ海、東は中国の新疆(東トルキスタン)によって区切られている。「トルキスタン」とは言うまでもなく「トルコ人の土地」という意味で、トルコ系の様々な民族があるいは遊牧、あるいは定住の生活をおくっていた(イラン系のタジク人も活躍している)。19世紀初頭の西トルキスタンにはトルコ系ウズベク人による独立国家として、ブハラ汗国・ヒヴァ汗国・コーカンド汗国の3つが存在していた。これら諸国は北西からのロシア帝国の圧力が強まるにつれて同じ宗教のオスマン帝国との友好関係を重視しようとしたが、ロシア帝国の西トルキスタンへの野心は19世紀中頃から次第に本格化し、まず1865年にコーカンド汗国の商業都市タシュケントが占領されるに至った。コーカンド汗国はロシア軍だけでなく同じウズベク人国家であるブハラ汗国の攻撃や国内のクルグス人の反乱によって76年には滅亡した。その間ブハラとヒヴァもロシア軍の攻撃を受けるが、しかしこの両国は完全には滅亡することなく、内政上の自治権を持つ「保護国」としてロシア帝国内に組み込まれることとなった。両国の汗もそのまま存続して絶対的な権威を保ち続けた。
そんな中、ロシア帝国内のイスラム教徒の地位向上を目指す「ジャディード」運動が盛り上がりつつあった。これは具体的には伝統的な書き言葉としてのアラビア語を話し言葉たるトルコ系言語に置き換えようとする動きから始まっているが、かような運動はロシア帝国と保守的イスラム教徒の双方から強く反対されることになった。
かような情勢が一挙に転回したのが1917年にロシアでおこった「二月革命」である。これは西トルキスタンの人々に大きな希望を与え、何十という新聞・雑誌が創刊されてまさに百家争鳴の観を呈するに至った。しかし、少し冷静になって考えてみるとそこには大きな問題が山を成していた。まずブハラとヒヴァの保護国の人々は、とにかく昔ながらの専制君主(汗)を打倒することに力を注ぎ、ロシアの直轄領に住んでいた人々は西トルキスタン全域の統合を主張していた。また、進歩的な「ジャディード」と保守的イスラム教徒の対立も絶えることなく続いていた。ジャディードはブハラでは「青年ブハラ」、ヒヴァでは「青年ヒヴァ」を組織して議会の開設を求めようとした。
同年10月、「十月革命」が起こってボリシェヴィキの「ソヴィエト政権」が確立した。中央アジアの各都市にも続々とボリシェヴィキ主導のソヴィエトが誕生した。しかし(中央アジアにおける)ソヴィエトの中核となったのは地元のトルコ系民族ではなく都市部に居住するロシア人の労働者や兵士たちであった。それと並立する形で、西トルキスタン全土の統合を目指すトルコ系住民が「コーカンド自治体」を組織したがこれは18年2月22日にボリシェヴィキによって滅ぼされた。
新ブハラ市にもソヴィエト政権が誕生した。しかしボリシェヴィキについた武装兵力は約600、それに協調する青年ブハラは200人程度にすぎなかった。それでもコーカンドでの勝利の勢いにのったブハラ・ソヴィエトは旧ブハラ市に拠る汗国政府に最後通牒を突き付けたが、しかしこのことは汗に忠誠を誓う保守派イスラム教徒を激昂させ、ソヴィエトはたちまち沸き出した3万5000の大軍によって押し潰されてしまった。
20年8月、ようやく組織を立て直した青年ブハラ党が汗国政府打倒の準備を整えた。28日にはフルンゼ指揮下のボリシェヴィキ部隊(赤軍(註1))7000の支援を受けた青年ブハラ党が旧ブハラ市を占領、汗はアフガニスタンに逃走した。ブハラは青年ブハラ党を中心とする独立国家「ブハラ共和国」を建設した。本当は青年ブハラはボリシェヴィキを信用していた訳ではないのだが、とにかく出遅れないためには手を結ぶ以外の選択肢を持ち得なかった(革命の中央アジア)のである。ちょうどこの頃アゼルバイジャンのバクーで開かれエンヴェルの演説文が読み上げられた「東方諸民族大会」でも「ブハラ革命」が報告された。しかし、一般大衆の多くは素朴なイスラム教徒であって青年ブハラの進歩主義にはなかなかついてこようとはしなかった。具体的な数字をあげれば、ブハラ各地に駐留する赤軍(ロシア等の他地域からやってきた)3万に対して「ブハラ共和国」直属の兵力は400程度にすぎず、共和国の実権は次第に青年ブハラからボリシェヴィキへと移っていくことになる。
註1 ボリシェヴィキの兵力である「赤軍」は18年1月に「志願兵」として設立され、その年5月の徴兵制の導入によって強化されていた。
その一方、「ブハラ革命」の前後から、ボリシェヴィキや青年ブハラの急進的な政策に反発する保守的イスラム教徒のゲリラ「バスマチ」が勢力を拡大していた。バスマチは18年2月にやはりボリシェヴィキに潰された前述の「コーカンド自治体」が押さえていたフェルガナ峡谷から起こったもので、ブハラ領内のものを含めて約2万の武装兵力を有していた。
大衆的基盤を持たない(大衆はバスマチに与している)ブハラ共和国はますますボリシェヴィキの軍事力に依存していくが、バスマチの猖獗に手を焼くボリシェヴィキは、ここで「トルコ系諸民族の英雄エンヴェル・パシャ」を赤軍の指揮官として送り込むことによって民衆の心をバスマチから引き離そうと考えるに至る。アナトリアへの凱旋に失敗したエンヴェルに再び運が向いてきたのである。
「私がバツームに出かけたのは、(アンカラ政府が)サカリアの会戦に敗れて混乱でも生じるなら、援助に馳せ参じるつもりだったからだ。しかし、会戦に勝利を収めた今、もはや必要はなくなりました」といいつつ、エンヴェルの目はサカリア会戦の決着がつくより前からトルキスタンへと向けられていた(納得しなかった男)。少なくとも、モスクワに帰るつもりはなかった。
しかし叔父のハリル・パシャ等はトルキスタン行きには賛成しなかった。万が一エンヴェルが現地の反革命運動に巻込まれてしまった場合、同志に迷惑がかかるのではないかというのである。その危惧は正解であった。エンヴェルは、実はこの頃既にボリシェヴィキを裏切る決意を固めていた。今回言いだしたブハラ行きは、つまり現地で暴れまわるバスマチを自分の兵力として再編するためなのであった。「私はブハラに入る決意を固めた。事が成ればガーズィー(信仰戦士)、然らずんばシェヒード(殉教者)になるのみだ‥‥」
ハリルの制止を振り切ったエンヴェルはまずアゼルバイジャンのバクーに向い、そこから船でカスピ海を渡ってトルキスタン地方に入ることにした。
21年10月中旬、エンヴェルがブハラの町に到着した。11月8日カモシカ猟を口実として馬に乗って町を出たエンヴェルは、そのまま何の連絡も寄越さず姿を消した。ボリシェヴィキはすぐにエンヴェル出奔に気付いて追撃をかけたが間に合わず、山地や沼沢地を越えて騎馬を進めるエンヴェルは25日にはバスマチの勢力地帯に入ってしまった。エンヴェル反逆の報を受けたボリシェヴィキはモスクワ等にいるトルコ人亡命者(ハリル・パシャ等)を残らず国外退去とした。彼等はアフガニスタンにいる同志に「うちひしがれており、金がないために行動に力強さがありません。どうしたらよいでしょうか」と書き送るほどに落魄した。
この時からエンヴェルは命令文書に「大トゥラン革命軍司令官にして中心中の中心の議長」なる署名を行うことになる。「トゥラン」とはバルカン半島から中国の新疆に至るトルコ系諸民族の住む地域全てという意味で、「青年トルコ党」時代から抱き続けてきた「汎トルコ主義」の野望をここで実現しようというのである。「同志諸子! 私はトルキスタンの聖なる大義の戦いに加わるためにやってきた。諸子のなかで、私と共に働きたいと望む者がいれば、私が提起する誓いを受け入れてほしい! しかしながら、諸子のなかでその家族がロシア人の手中に陥ることをおそれ逡巡する者がいるなら、忌憚なく述べてもらいたい。余は命じる。諸子がその手にある武器を捨てるという条件で思いのままに行動するのは自由である、と」。威勢だけは最高(でもないか?)だが、なんとかその手におさめたバスマチは150人程度、「かつてオスマン帝国の事実上の最高司令官をつとめ、4年間に300万人ほどの大兵力を動員した人物が、いまや150人の大隊長として汲々としている(納得しなかった男)」というのは、いかんともし難い厳しい現実であった。
エンヴェルはさらにイブラヒム・ベクというバスマチの一派の頭目に協力を要請した。イブラヒムは狂信的な守旧派で、その点「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」の首領であったエンヴェルとうまくいくかどうかは甚だ疑問であった。エンヴェルと会見したイブラヒムは会場のまわりを大勢の手下で囲み、まずエンヴェル一行の武装を解除し、さらに行動の自由を奪ってしまった。
エンヴェルはなんとかイブラヒムの御機嫌をとるために、これまで大切に持っていた妻や子供の写真を焼き捨ててしまった。原理主義的なイスラム教徒は写真や女性がヴェールをつけていない状態を非常に嫌うからである。もちろんエンヴェルとて一般的なトルコ人と同じように敬虔な(しかし相当程度開明的な)イスラム教徒ではあるのだが、そこまでやっても待遇は日に日に悪くなる一方で、イブラヒムの部隊が赤軍と戦った時にもその扱いに変化はなかった。多くの戦場をかいくぐってきたエンヴェルが流れ弾にかすめられても平然としていると、「ボリシェヴィキは、奴を傷つけないように、わざと頭をかすめて撃っているのだよ。エンヴェルはそれを知っているから驚かないのさ」と悪態をつかれる有り様であった。
12月10日、ブハラ共和国中央執行委員会議長のオスマン・ホジャエフと東ブハラ行動軍司令官アリー・ルザがボリシェヴィキからの独立を求め、タジキスタンの首都ドゥシャンベに駐留する赤軍部隊の武装を解除した。これは明確な反乱である。赤軍との戦いのため、イブラヒムのもとにも来援要請が飛ばされた。イブラヒムはなかなか動こうとしなかったが、エンヴェルはなんとかドゥシャンベに向おうとした。14日、ドゥシャンベの反乱軍は赤軍の猛攻の前に町を放棄した。反乱軍は高名な将軍であるエンヴェル・パシャの来援を切に願っており、アフガニスタン国王アマヌッラーもエンヴェルの軟禁を解くようイブラヒムに圧力をかけてきた。イギリスの植民地インドとボリシェヴィキの治めるロシアとの中間に位置するアフガニスタンから見れば、エンヴェルは何かと役に立ちそうな存在であった。
反乱軍はイブラヒムの勢力地帯に逃れてきた。反乱軍の兵士の多くは進歩的な「青年ブハラ」に参加した経験を持つことから保守的なイブラヒムとそりがあわず、両者の間には小競り合いが絶えなかった。22年2月下旬、アフガニスタン国王の介入(註1)を受けたイブラヒムはついにエンヴェルを釈放した。3ヵ月ぶりに自由を手に入れたエンヴェルは各地のバスマチ勢力との連絡をとるべく精力的な活動を開始した。まずは東ブハラでボリシェヴィキに従っているトルコ系民族の部隊を寝返らせ、次いで赤軍の前哨拠点バイスン及びブハラを占領、さらにはトルキスタン全域に戦線を拡大する、等々の気宇壮大な作戦がエンヴェルの頭を駆け巡る。
註1 エンヴェルは自分の娘(6歳)をいずれアフガニスタンの皇太子と結婚させようと考えていた。
ところで、今回の反乱はブハラ共和国政府幹部の一部が起こしたもので、他の閣僚たちはボリシェヴィキからの厳重な抗議を受け入れ、反乱軍の首領オスマン・ホジャエフを「裏切者」であると宣言していた。ボリシェヴィキは反乱軍の鎮圧を進める一方で、何と、ボリシェヴィキの脅威にならない独立国家をエンヴェルにつくらせてやるという構想を立てていた。現在ではほとんど忘れ去られているが、当時はイスラム世界の超有名人だったエンヴェルをここで殺せば、アフガニスタン・インド・イランのイスラム教徒がボリシェヴィキから離反してしまう怖れがあるのである(納得しなかった男)。
ところが、その申し出はエンヴェルに拒絶され、22年5月18日にはついに書記長スターリンによって「エンヴェルを東方人民の敵と宣告する」との決定がなされた。トルキスタン戦線の指揮は赤軍最高司令官のカーメネフ本人がとり、軍事人民委員のトロツキーも他の地域の騎兵師団を転用する許可を与えてよこした。ボリシェヴィキ首脳部がいかにバスマチとエンヴェルの問題を重視していたかがわかる(前掲書)。エンヴェルはボリシェヴィキが最後のチャンスとして提案した国外退去をもはねつけ、逆に「中央アジアからの赤軍部隊の撤収、現地におけるイスラム国家の承認」を求める最後通牒を突き付けた。
エンヴェルと赤軍の戦闘はそれより以前から始まっていた。去る3月、エンヴェルは200人の兵を率いてタジキスタンの首都ドゥシャンベを占領し、その後増援を受けて反撃に出てきた赤軍を撃破した。この時点でエンヴェルと戦っていた赤軍は寄せ集めで、遠くロシアからやってきた部隊はトルキスタンの風土に慣れることが出来ず、現地で集めた部隊は錬度も信用度も低すぎた。赤軍はロシアからの援軍の到着を待つために都市部に引き蘢り、戦線は膠着状態に陥った。アフガニスタンに亡命中のブハラの汗はエンヴェルを「全将兵の監督大臣」に叙任するとの文書をおくってきた。エンヴェルはアフガニスタン国王アマヌッラーにも勝利を確信するとの手紙を発送した。
だが、現実にはエンヴェル軍の主力であるバスマチは各地の勢力の寄せ集めで、なかなか統制のとれた作戦に出られなかった。新たにロシアから遠征してくる赤軍精鋭部隊の総攻撃が迫るなか、エンヴェルの要請に答えてアフガニスタン国王が送り込んでくれた義勇兵は260人程度にすぎず、兵力不足に苦しむエンヴェルはイギリスに援助を頼むことを考えたりもした。しかも、ボリシェヴィキの圧力を受けたアフガニスタン国王は先に送ったばかりの義勇兵の召還を命じてしまった。昨年12月に赤軍に対する反乱を起こしたブハラ共和国のオスマン・ホジャエフやアリー・ルザは、それより先にエンヴェルに見切りをつけ、アフガニスタンに逃亡していた。
かつてのムスタファ・ケマルがそうだったように、赤軍もまたエンヴェルの実力を過大に見積もっていた。各地に散らばる数千のバスマチのうちエンヴェルが直接動かせるのは数百人にすぎないのだが、赤軍は数個師団を動員しながらもその動きは極めて慎重であった。赤軍の作戦は、まずエンヴェルがアフガニスタンに逃走しそうなルートを押さえた上で東西から挟み撃ちにするとのものであった。北も東も西にも赤軍が展開し、エンヴェル軍に脱出路があるとすればそれはアフガニスタン領以外にないのである。
だが、赤軍最高司令官カーメネフは現地部隊の頭ごなしに積極策を強制し、6月15日にいきなりエンヴェルの本営への奇襲攻撃を敢行した。早朝の霧のなかから白兵戦を挑まれたエンヴェル軍は激戦の後山間部に退却した。その後の赤軍の動きは指導部の内紛から若干緩慢になるが、エンヴェルはまだアフガニスタンに逃げようとはしなかった。「私は何があっても絶対にここに残ります。私が斃れても、同胞たちが私の遺骸を埋めてくれる土くれがあります。この地を離れるのは、大きな誤りとなるでしょう」。アフガニスタン国王はエンヴェルを完全に見捨て、国境を閉ざした。
7月24日、あえてアフガニスタンとは逆の方向に向うことを決意したエンヴェルは兵士たちに自由を与え、最後に残った忠実な部隊のみを率いて戦闘を続けることにした。その3日前、旧友ジェマル・パシャ(元オスマン帝国海軍大臣)がグルジアのトビリシにてアルメニア人の刺客に暗殺されていた。タラート・パシャがやはりアルメニア人に暗殺されたのは既に見た通り、かつての「青年トルコ三巨頭」の生き残りはエンヴェル・パシャただ1人となった。赤軍は各地のバスマチを鎮圧しながらエンヴェル軍に迫ってきた。
8月4日、アビデルヤ村にさしかかったエンヴェルとその一行は、ここでイスラム教の祭日(バイラム)を祝うことにした。どういうルートをたどってきたのか、エンヴェルのもとに妻子(この頃ドイツにいた)からの手紙が届いており、部隊は集団礼拝と賑やかな会食を楽しんだ。「来年のバイラムは、ブハラで祈ろうではないか」。
そこに、赤軍第15及び16騎兵聯隊が忍び寄ってきた。突然轟いた機関銃の射撃音を聞いたエンヴェルは、ただちに葦毛の愛馬デルヴィシュに飛びまたがり、そのまま部下30騎を率いて敵軍へと突進した。サーベルをかざして突っ込んでくる騎兵小隊に一瞬度胆を抜かれた赤軍の機関銃座第1列が潰乱するが、第2列の機関銃がかまわず射撃を続け、騎兵隊の先頭を突っ走ってきたエンヴェルを馬ごと薙ぎ倒した。エンヴェルの身体には5発の銃弾が命中していた。
赤軍はエンヴェルを討ち取ったことを知らないまま、数日後に別方面に移動していった。アビデルヤの村人はエンヴェルたちの屍体を村の泉のほとりにある胡桃の木の下に埋葬した。葬儀は丁重に行われた。後日通報を受けた赤軍が詳しい検証を行った。エンヴェルはイギリス製の衣服にトルコ製の帽子とブーツを身につけており、ポケットには印章と妻子からの手紙、暗号通信書が入っていた。(註1)
註1 エンヴェルの死の模様については諸説ありはっきりしない。
エンヴェル・パシャの死がアンカラ政府に伝わったのは8月22日頃とされている。その4日後(26日)の午前零時、アンカラ政府のムスタファ・ケマルが、いまだアナトリア西部に踏みとどまるギリシア軍に最後のとどめを刺すべく、「前進! 目標は地中海!」との総攻撃令を下していた。「サカリア川の戦い」の後約11ヵ月間、エンヴェルがトルキスタンにて「大トゥラン」の幻を求めて彷徨っている最中、ケマルは新生「トルコ共和国」を完全のものとすべく最大限の努力を続けていた。「イスラム主義もトゥラン主義も我々にとっては主義にも論理的な政策にもならない。今後、新生トルコの政策は、独立独歩で生きていき、(アナトリアという)民族領域内でのトルコの主権に依存していくべきである‥‥」。この十数年間の相次ぐ敗戦によって多くの領土を失ったオスマン帝国は実質的に滅亡したが、最後に残ったアナトリアを死守したケマルは「トルコ(テュルキエ)の住民は、宗教・民族・人種を問わず国民としてトルコ人(テュルク)である」と定義する新たな国家「トルコ共和国」を、その領土をアナトリアのみに限ることによって完成した。これと全く逆に、アナトリア外のトルコ系諸民族に「汎トルコ主義」を訴えることで勝利を得ようとしたエンヴェルの敗北が、それとほぼ同時日であったことには大きな感慨を持たざるを得ない。
おわり